クローゼットの前に立って、迷う。
何を着ていこう、今宵の逢瀬
にふさわしい洋服は、どれ?
あれこれ取り出して、身に着けて
は、むしり取る。「これでよし」
と思った直後に「ああ、違う!」
とつぶやいて、また、一からや
り直し。
我ながら「馬鹿みたいだ」と思う。
この「ひとりファッションショー」
をやっていると、いつも、古い映画
『恋におちて』の中で、メリル・スト
リーブがデ・ニーロに会いに行くた
めに、ベットルームの鏡の前で洋服を
取っ替え引っ替えしているシーンを
思い出す。
想いを寄せている人の手で、あとで
脱がされるために着るドレスを選ぶ
・・・なんて骨の折れる、なんて心
心躍る時間。
さんざん迷った挙句、わたしが選ん
だのは、ラベンダー色のシルクの
ワンピース。胸もとと背中が大きく
開いている。アクセサリーは、何も
つけない。
このドレスにはなぜか、香水だけが
映る。ストッキングと靴は黒。バック
は濃い紫の薔薇の花を飾ったものに
する。
これで決まり。
彼が代官山駅に着くのは七時半
になるだろう。
電話がかかってきたのは、午後
四時二十分だった。
わたしはちょうど、今日の仕事に
一区切りつけて、そろそろ夕食の
支度にとりかかろうと思いながら、
受話器を取ると、彼の声が飛び込
んできた。
「夕方のアポがひとつ、急にキャン
セルになって今夜どこかで一緒に
食事をしよう。翔子の好きな店で
いいよ」
彼ったら、なんて、嘘が下手なの。
そんな見え透いた嘘をついて、ほ
んとに、可愛い人。
「了解。じゃあ、お店はわたしの
ほうで予約しておく」
彼はわたしが、もうすっかり忘れて
いると、思っているのだろうか。
忘れるわけがない。きょうが何の日か。
*
わたしはその日、ニューヨークに
向かう飛行機に乗っていた。今から
三年前のきょうだ。
あとはもう離陸をするだけ、という
状態になってから、大慌てで駆け込
んできたのが彼だった。
いかにも「ニッポンの企業戦士です」
といった風情の人、苦手なタイプだ、
隣の席に来なければいいけれどと、
思いながら眺めていると、案の定、
客室乗務員が彼の搭乗券を見ながら
指し示したのは、わたしの隣だった。
彼とは笑顔と目配せでわたしに挨拶
をしてから、窓際の席に腰掛けた。
笑顔はなかなか素敵だ。と思った。
でも、それだけ。
食事が終わり、映画の上映が始ま
った。
いかにも飛行機の中で上映される
映画としてふさわしい、他愛のない、
犬猫の冒険物だった。
かずかずの危険と困難をかいくぐ
って、最後には無事に自分の家ま
で戻ってくる、そんなストーリーだ。
やがて、クライマックスがやって
きた。今でも、わたしはあの「場面」
を思い出すと、頬がゆるんでしまう。
背景は、機内の暗闇。登場人物は、
頭の切れる辣腕ビジネスマン。そ
してわたしが目にしたのは、彼の
頬を伝う、ひとすじの涙だった。
彼は泣いていたのだった。動物たち
が飼い主と再会する感動の場面で。
なんて可愛い人なの!
忘れもしない、彼を好きになった
のは、その瞬間だった、恋の神さま
がわたしのために、彼の最も愛され
るべきチャームに、ぱっと光を当てて
くれたんだと思う。
今から三年前に、この、広い広い、果
てしない宇宙の中で、混沌とした世界
の中で、わたしたちは巡りあった。
きょう六月1日は、ふたりの
恋の誕生日
電車はあと五分もすれば、到着
するだろう。思い切りお洒落し
た彼は、きっと、深い紫色の
薔薇の花束を手に電車から降り
てくるだろう。
駅から出て、わたしを探す彼の姿が
見えたなら、わたしはまっすぐに
駆けて行く。
世界で一番愛している。
世界で一番素敵な人の、
両腕に抱かれるために。