見たり聞いたり事を行ったり
する場合には、見るものと
見られるもの、聞くものと
聞かれるもの、
行なうものと行なわれるもの
というように、必ず自と他と
の対立があります。
しかし、そういった対立が
あっては、本当に見たこと、
聞いたこと、行なったことに
はならず、その妙趣を味わう
ことはできない。
一切の分別意識、対立観念を
断ち切り、自他不ニ、一体に
ならない限り、本当に見たい
ことも、聞いたこといにも、
行なったことにならないと
禅宗はどは教えています。
子どもに対して子どもの心
になり、老人に対して老人の
身になって、お客様に対して
はお客様の、部下に対しては
部下の身になり切って応対する
ことが大切です。
たとえば、障害者の身になり
切って車椅子で街を歩いてみる
と、なんと障害者の方々には
住みにくい街かがわかると言い
ますが、それと全く同じこと
です。
茶道「不昧(ふまい)流」を
開いた松平不昧は、
「客のそそうは亭主のそそう
なり、亭主のそそうは客の
そそうと思うべし。味わうべ
き事なり。
客の心になりて亭主せよ、亭主
の心になりて客いたせ」と茶の
心得を説いていますが、すべて
のことに当てはまることだと
思います。