戦争責任最終回―5 続太平洋戦争責任者を総括する
戦争犯罪人被疑者に対する東京裁判(正式名極東国際軍事裁判)は1946年5月から48年11月迄2年半に及んで行われた。判事団は米、英、中国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、インド、フィリピンの11ヵ国で構成された。
日本の軍人を中心にA級戦犯として28人が起訴され、裁判中に死亡した松岡洋右(元外務大臣)、永野修身(元海軍元帥)、病気で免訴となった大川周明の3人以外、全員が有罪、 東条英機、土肥原賢二、松井石根、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の7人が死刑判決を受け、12月23日に絞首刑が執行された。首相・外相の広田以外、全員陸軍・軍人だった。残り16名が終身禁錮刑、2名が有期禁錮刑となった。絞首刑が執行された12月23日は皇太子(現・上皇様)の誕生日でわざわざこの日を選んだとの言説もある。
この裁判では戦争と無関係な国の裁判官が起用されなかった為、戦勝国が敗戦国を裁く報復の場,所謂「報復裁判」だったと言う疑念を残す事になった。又日本人が検事や裁判官に選ばれなかった為、日本国・日本国民に対する犯罪行為と言う視点が欠落乃至希薄となった点も極めて問題である。更に被告の選定・量刑にも問題があった。「A級戦犯」とされた被告28人以外にも、法廷に立つべき人間はいたし、量刑にも疑問符が付く。昭和天皇の終戦に関する玉音放送直後に戦争関係者が一斉に重要文書を焼却処分した為、証拠不十分な儘、重要な判決も行われた。世界各地で行われたB・C級戦犯の裁判では、逃亡した上官の身代わりや杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あった。「栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせた」、或いは「肩凝りや腰痛の捕虜に灸を据えた」、そのような収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされたと言う文化・習慣の違いによる誤解の事例も報告されている。
特に戦争の計画・実施(開戦・継戦・戦略等)に主導的役割を演じた多くの高級参謀が対象から外れた事は異常であり、極めて公平性を欠く結果となった。
鬼検事と言われた首席検察官・キーナン(米)でさえ『なんという馬鹿げた判決か。重光は平和主義者、無罪が当然だ。松井、広田が絞首刑などとは、まったく考えられない。松井の罪は部下の罪だから、終身刑がふさわしい。広田も絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑迄ではないか。』と判決を批判している。
又東条の(取巻き愚将)の一人・木村兵太郎(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官)も兵士や関係者を置き去りにし敵前逃亡し味方に大きな損害を与えたが、絞首刑に値するような戦闘行為は行って居らず、相手側に損害を与えるどころか利敵行為的色彩が強く、敵側の過大評価との揶揄する論評がなされている。上記の様な問題点に加え、当時侵略戦争を個人の罪として裁く法的根拠はなく、後から作った法律で裁かれた為「事後法の禁止」という法論理に反するものであるとの批判がなされている。確かに東京裁判は非常に問題の多い裁判だったと思われるが、裁かれた為政者たちに問われるべき責任がなかったことを証明することにはならない。太平洋戦争では日本人だけで310万人が死に多くの国富を失った。前途有為の青年が無意味な死を強いられ、生き残った者たちも、心身に大きな傷を負った。日本社会全体、対外的な問題も含め現在に至るまで大きな負の影響を及ぼしている。戦争は誰かの「作為」なり「不作為」によるもので、責任を問われるべき為政者はたくさん居たのだ。
戦争責任の問題を調べて行く過程で明らかになった点も多い。その纏めとして「個人的な見解」ではあるが、その責めを負うべき人物(終身刑以上)を示しブログ・戦争責任の締め括りとしたい。
1) 開戦責任(満州国建国・日中戦争)…*石原莞爾(参謀本部・作戦部長…予備役)、*板垣征四郎(関東軍参謀総長・陸相…A級・絞首刑)、*土肥原賢二(奉天・ハルピン特務機関長…A級・絞首刑)、*近衛文麿(首相…A級・服毒自殺)
2) 日米開戦(対連合国)責任・継戦・終戦……*武藤章(陸軍省・軍務局長…A級・絞首刑)、*永野修身(海軍軍令部総長…A級・公判中病死)、*岡敬純(海軍省軍務局長…A級・終身刑)、*石川慎吾(海軍・軍務局2課長…予備役) 、*鈴木貞一(企画院総裁・開戦決定に誘導…A級・終身刑)、*松岡洋右(外相・大政翼賛会副総裁…A級・公判中に死去)、*嶋田繁太郎(海相・軍令部総長…A級・終身刑)、*阿南 惟幾(航空総監・陸相…自決) 、*小磯国昭(陸軍軍務局長・首相…A級・終身刑)、*及川古志郎(海相・軍令部総長・特攻開始…終戦時依願予備役、蒋介石・国民党に対する軍事顧問団)、*梅津美治郎(関東軍司令官・参謀総長・本土決戦主張…A級・終身刑)、*豊田副武(連合艦隊司令長官・軍令部総長・戦艦大和特攻命令・本土決戦主張…無罪判決)、*大西 瀧治郎(海軍・軍令部次長・・・特攻推進者・本土決戦主張…自決)、*宇垣纏・海軍中将…私兵特攻)、*黒島亀人(連合艦隊参謀・軍令部第2部長…特攻兵器開発、重要文書焼却…戦犯被告対象外)、*牟田口廉也(15軍司令官・インパール作戦失敗…BC級・嫌疑不十分釈放)
「*田中新一(参謀本部作戦部長)、*服部卓四郎(同・作戦課長)、*辻政信(同・作戦班長)」…この3人の参謀は数々の失敗により多くの将兵等を死に至らしめたにも拘らず、東条等の偏向人事のお陰で、しぶとく生き残り、対米開戦を最も強く主張し、連合国・日本双方に大きな損害を齎したが,戦犯被告のリストにも上がらなかった。服部に至ってはGHQ第2部長ウイロビーの下で太平洋戦争の戦史編纂を行い、更に日本再軍備の研究の命を受け、再軍備研究のための「服部機関」を発足させる等完全に占領軍に寝返った。 占領政策の一環として不問に付された可能性が強く、余生は恩給で優雅に暮らした。日本人の手で裁判が行われていれば極刑は間違いない。
*東条英機(首相・陸軍大臣・参謀総長…A級・絞首刑)、*杉山元(参謀総長・陸相…自決)、*平泉澄(東大教授…軍上層部への侵略教唆、玉砕・特攻思想の浸透)
3) 最終纏め……
***⇒「東条・杉山・平泉・田中・服部・辻」の6人は極刑に値すると考える。
***⇒松井石根(上海派遣軍司令官・陸軍大将)は南京事件の責任を問われ死刑判決を受けたが、キーナン主席検察官が指摘するまでも無く、これこそ中国等による報復裁判である。松井は方面軍司令官として南京攻略時「南京城攻略要領」の中で略奪行為禁止、不法行為厳罰、中国人尊重という厳しい軍規を設定して居る。各軍隊の軍紀、風紀の直接の責任者は司令官ではなく連隊長等現場責任者である。道義上の責任はあっても、軍規に照らし「法律上の責任」は無く死刑は不当である。
同じくフィリピン・バターン死の行軍の罪を問われた本間雅晴14軍司令官(中将)のケースも報復裁判であった。本間が英国通の人道主義者であったことは米軍も熟知していたが、捕虜の移送不手際から多数の死者を出し非人道行為として銃殺刑に処せられた。この訴状はこの裁判の為に作った事後法の「指揮者責任」であった。
***⇒広田弘毅(首相)に付いては、キーナン主席検察官に加え、オランダのレーリング裁判官も無罪を主張している。「戦争責任最終回―4」で触れた通り広田は平和主義者であったが、梅津や土肥原の対中強硬勢に抗し切れ無かった。公判では「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型で、アジア侵略の共同謀議と南京事件の非人道的な行動を黙認した罪に当たるとして死刑判決を受けた。本人が裁判で一切弁明をしなかったこともあり、典型的な報復裁判となった。
***⇒オランダのレーリング裁判官は広田以外にも、畑俊六、木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の被告人については無罪を主張している。畑俊六(支那派遣軍総司令官(広田の後任)、陸相,戦陣訓作成者の一人)は死刑は免れたが、米内内閣の倒閣にも加わって居り、無罪は不当であろう(終身禁固刑)。木戸(終身刑)、東郷(禁固20年)、重光(禁固7年)も無罪が妥当だと考える。但し木戸(貴族院議員・木戸孝允の孫)が東条を首相に推したのは大きな間違いであった。
***⇒その他の終身禁固刑受刑者…*荒木貞夫(陸相・男爵・軍国化教育推進)、*橋本欣五郎(陸軍大佐、ファッシズム運動、クーデター三月事件・十月事件計画)、*平沼騏一郎(検事総長・首相)、*星野直樹(満州国・国務院総務長官、東条側近―内閣書記官長)、*賀屋興宣(第一次近衛内閣・大蔵大臣…戦時公債等による日中戦争の予算措置作成) 、何れも戦争責任はあるが、終身禁固刑に該当するかは不明である。獄中死亡者を除けば10年程度で釈放されている。
• ***⇒陸軍では「良識派は出世できない」、海軍では「良識派は孤立する」と言う事実が日本を破滅に追いやった。東条が首相になれたのは情報を無視し終始根拠無き強硬論を唱えたからに過ぎない。
• *今村均(第8方面軍司令官・ 陸軍大将)…ジャワ島攻略で大戦果、オランダ・米・英・オーストラリアを無条件降伏させ、軍政では陸軍中央からの「シンガポール並みの強圧政策命令」を拒否し、軍規・治安維持、インフラ整備、産業の復旧等抜群の指導力を発揮。B級戦犯として、ジャカルタでのオランダ軍事裁判は無罪、ラバウルでのオーストラリア軍事裁判で禁錮10年の有罪判決は報復裁判である。
• 小野寺信(スウェーデン公使館附武官・陸軍少将)…ドイツはソ連に負ける等の重要な情報を送り、連合国から日本人スパイの親玉と恐れられていた。日米開戦反対の情報を送り続けたが、中央は白鳥等のドイツ絶対優勢の情報に頼り、無視された。
• 井上成美(海軍次官・海軍大将、ドイツ語等語学極めて堪能)シナ事変時、海軍軍務局長就任、米内光正・海相、山本五十六海軍次官と並んで海軍省左派トリオ…海軍良識派として有名。)対米戦争を回避する為軍務局長の仕事は米国を刺激しない事、ヒトラーの日本利用の目論見を見抜いて居た為「三国同盟」阻止に全精力を費やした。支那方面参謀長の時、陸軍との合同会議で支那との戦争だけでも大変な時に、国力も大きく異なる大国・米英と事を構える等は狂気の沙汰と正論を述べ陸軍を沈黙させている。1941年8月第四艦隊司令長官を命じられたが、この人事は日米開戦に反対し、南部仏印進駐に関する局部長会議の席で海相の及川を怒鳴りつけた井上を栄転と言う形で体よく海軍中央から遠ざけるものであったと言われている。理性的・合理的思考の井上は右翼の狂信性を嫌い海軍兵学校・校長の時、上層部からの命令に抗して「死を美化する平泉の話を年少の生徒に聞かせるわけにはいかない」として教官だけに聞かせることにしたと伝わっている。
• 米内光政(連合艦隊司令長官、海軍大臣、首相、海軍大将)
三国同盟を論ずる五相会議の席上で、日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍の見通しを聞かれ、米内は「勝てる見込みは無い。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されて居ない。独伊の海軍にいたっては問題にならない」と言下に答え、昭和天皇から米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけられている。米内首相に大命降下時、陸軍は三国同盟反対の米内首班に激しく反発、畑・陸相を辞任させ軍部大臣現役武官制を使って半年余りの短命内閣に終わらせた。昭和天皇は米内内閣が続いて居れば大戦を回避できたのにと悔しがらせた。戦後・東京裁判では畑は米内内閣倒閣などの罪状によりA級戦犯として起訴された。占領軍の見解では、米内内閣は親英米派内閣であり、その倒閣は死刑に値すると言ものであったが、この絶体絶命の危機に米内が弁護側証人として出廷し、畑を徹底的にかばったお陰で畑は死刑を免れ、終身禁固の判決となった。畑は6年の服役で出所し裁判長の威嚇・非難に抗して弁護してくれた米内に多大の感謝の意を表した。
戦後、米内は戦犯として拘束されることを予期し、収監された場合の準備をしていたが、結局容疑者には指定されなかった。 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ね、「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言したと伝わっている。全体的な評判は「私心がない人、欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ。 カミソリの切れ味の井上成美を参謀長、次官として上手に包み込んで使っておられ、一回り大きな軍政家であった。
戦争犯罪人被疑者に対する東京裁判(正式名極東国際軍事裁判)は1946年5月から48年11月迄2年半に及んで行われた。判事団は米、英、中国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、インド、フィリピンの11ヵ国で構成された。
日本の軍人を中心にA級戦犯として28人が起訴され、裁判中に死亡した松岡洋右(元外務大臣)、永野修身(元海軍元帥)、病気で免訴となった大川周明の3人以外、全員が有罪、 東条英機、土肥原賢二、松井石根、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の7人が死刑判決を受け、12月23日に絞首刑が執行された。首相・外相の広田以外、全員陸軍・軍人だった。残り16名が終身禁錮刑、2名が有期禁錮刑となった。絞首刑が執行された12月23日は皇太子(現・上皇様)の誕生日でわざわざこの日を選んだとの言説もある。
この裁判では戦争と無関係な国の裁判官が起用されなかった為、戦勝国が敗戦国を裁く報復の場,所謂「報復裁判」だったと言う疑念を残す事になった。又日本人が検事や裁判官に選ばれなかった為、日本国・日本国民に対する犯罪行為と言う視点が欠落乃至希薄となった点も極めて問題である。更に被告の選定・量刑にも問題があった。「A級戦犯」とされた被告28人以外にも、法廷に立つべき人間はいたし、量刑にも疑問符が付く。昭和天皇の終戦に関する玉音放送直後に戦争関係者が一斉に重要文書を焼却処分した為、証拠不十分な儘、重要な判決も行われた。世界各地で行われたB・C級戦犯の裁判では、逃亡した上官の身代わりや杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あった。「栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせた」、或いは「肩凝りや腰痛の捕虜に灸を据えた」、そのような収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされたと言う文化・習慣の違いによる誤解の事例も報告されている。
特に戦争の計画・実施(開戦・継戦・戦略等)に主導的役割を演じた多くの高級参謀が対象から外れた事は異常であり、極めて公平性を欠く結果となった。
鬼検事と言われた首席検察官・キーナン(米)でさえ『なんという馬鹿げた判決か。重光は平和主義者、無罪が当然だ。松井、広田が絞首刑などとは、まったく考えられない。松井の罪は部下の罪だから、終身刑がふさわしい。広田も絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑迄ではないか。』と判決を批判している。
又東条の(取巻き愚将)の一人・木村兵太郎(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官)も兵士や関係者を置き去りにし敵前逃亡し味方に大きな損害を与えたが、絞首刑に値するような戦闘行為は行って居らず、相手側に損害を与えるどころか利敵行為的色彩が強く、敵側の過大評価との揶揄する論評がなされている。上記の様な問題点に加え、当時侵略戦争を個人の罪として裁く法的根拠はなく、後から作った法律で裁かれた為「事後法の禁止」という法論理に反するものであるとの批判がなされている。確かに東京裁判は非常に問題の多い裁判だったと思われるが、裁かれた為政者たちに問われるべき責任がなかったことを証明することにはならない。太平洋戦争では日本人だけで310万人が死に多くの国富を失った。前途有為の青年が無意味な死を強いられ、生き残った者たちも、心身に大きな傷を負った。日本社会全体、対外的な問題も含め現在に至るまで大きな負の影響を及ぼしている。戦争は誰かの「作為」なり「不作為」によるもので、責任を問われるべき為政者はたくさん居たのだ。
戦争責任の問題を調べて行く過程で明らかになった点も多い。その纏めとして「個人的な見解」ではあるが、その責めを負うべき人物(終身刑以上)を示しブログ・戦争責任の締め括りとしたい。
1) 開戦責任(満州国建国・日中戦争)…*石原莞爾(参謀本部・作戦部長…予備役)、*板垣征四郎(関東軍参謀総長・陸相…A級・絞首刑)、*土肥原賢二(奉天・ハルピン特務機関長…A級・絞首刑)、*近衛文麿(首相…A級・服毒自殺)
2) 日米開戦(対連合国)責任・継戦・終戦……*武藤章(陸軍省・軍務局長…A級・絞首刑)、*永野修身(海軍軍令部総長…A級・公判中病死)、*岡敬純(海軍省軍務局長…A級・終身刑)、*石川慎吾(海軍・軍務局2課長…予備役) 、*鈴木貞一(企画院総裁・開戦決定に誘導…A級・終身刑)、*松岡洋右(外相・大政翼賛会副総裁…A級・公判中に死去)、*嶋田繁太郎(海相・軍令部総長…A級・終身刑)、*阿南 惟幾(航空総監・陸相…自決) 、*小磯国昭(陸軍軍務局長・首相…A級・終身刑)、*及川古志郎(海相・軍令部総長・特攻開始…終戦時依願予備役、蒋介石・国民党に対する軍事顧問団)、*梅津美治郎(関東軍司令官・参謀総長・本土決戦主張…A級・終身刑)、*豊田副武(連合艦隊司令長官・軍令部総長・戦艦大和特攻命令・本土決戦主張…無罪判決)、*大西 瀧治郎(海軍・軍令部次長・・・特攻推進者・本土決戦主張…自決)、*宇垣纏・海軍中将…私兵特攻)、*黒島亀人(連合艦隊参謀・軍令部第2部長…特攻兵器開発、重要文書焼却…戦犯被告対象外)、*牟田口廉也(15軍司令官・インパール作戦失敗…BC級・嫌疑不十分釈放)
「*田中新一(参謀本部作戦部長)、*服部卓四郎(同・作戦課長)、*辻政信(同・作戦班長)」…この3人の参謀は数々の失敗により多くの将兵等を死に至らしめたにも拘らず、東条等の偏向人事のお陰で、しぶとく生き残り、対米開戦を最も強く主張し、連合国・日本双方に大きな損害を齎したが,戦犯被告のリストにも上がらなかった。服部に至ってはGHQ第2部長ウイロビーの下で太平洋戦争の戦史編纂を行い、更に日本再軍備の研究の命を受け、再軍備研究のための「服部機関」を発足させる等完全に占領軍に寝返った。 占領政策の一環として不問に付された可能性が強く、余生は恩給で優雅に暮らした。日本人の手で裁判が行われていれば極刑は間違いない。
*東条英機(首相・陸軍大臣・参謀総長…A級・絞首刑)、*杉山元(参謀総長・陸相…自決)、*平泉澄(東大教授…軍上層部への侵略教唆、玉砕・特攻思想の浸透)
3) 最終纏め……
***⇒「東条・杉山・平泉・田中・服部・辻」の6人は極刑に値すると考える。
***⇒松井石根(上海派遣軍司令官・陸軍大将)は南京事件の責任を問われ死刑判決を受けたが、キーナン主席検察官が指摘するまでも無く、これこそ中国等による報復裁判である。松井は方面軍司令官として南京攻略時「南京城攻略要領」の中で略奪行為禁止、不法行為厳罰、中国人尊重という厳しい軍規を設定して居る。各軍隊の軍紀、風紀の直接の責任者は司令官ではなく連隊長等現場責任者である。道義上の責任はあっても、軍規に照らし「法律上の責任」は無く死刑は不当である。
同じくフィリピン・バターン死の行軍の罪を問われた本間雅晴14軍司令官(中将)のケースも報復裁判であった。本間が英国通の人道主義者であったことは米軍も熟知していたが、捕虜の移送不手際から多数の死者を出し非人道行為として銃殺刑に処せられた。この訴状はこの裁判の為に作った事後法の「指揮者責任」であった。
***⇒広田弘毅(首相)に付いては、キーナン主席検察官に加え、オランダのレーリング裁判官も無罪を主張している。「戦争責任最終回―4」で触れた通り広田は平和主義者であったが、梅津や土肥原の対中強硬勢に抗し切れ無かった。公判では「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型で、アジア侵略の共同謀議と南京事件の非人道的な行動を黙認した罪に当たるとして死刑判決を受けた。本人が裁判で一切弁明をしなかったこともあり、典型的な報復裁判となった。
***⇒オランダのレーリング裁判官は広田以外にも、畑俊六、木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の被告人については無罪を主張している。畑俊六(支那派遣軍総司令官(広田の後任)、陸相,戦陣訓作成者の一人)は死刑は免れたが、米内内閣の倒閣にも加わって居り、無罪は不当であろう(終身禁固刑)。木戸(終身刑)、東郷(禁固20年)、重光(禁固7年)も無罪が妥当だと考える。但し木戸(貴族院議員・木戸孝允の孫)が東条を首相に推したのは大きな間違いであった。
***⇒その他の終身禁固刑受刑者…*荒木貞夫(陸相・男爵・軍国化教育推進)、*橋本欣五郎(陸軍大佐、ファッシズム運動、クーデター三月事件・十月事件計画)、*平沼騏一郎(検事総長・首相)、*星野直樹(満州国・国務院総務長官、東条側近―内閣書記官長)、*賀屋興宣(第一次近衛内閣・大蔵大臣…戦時公債等による日中戦争の予算措置作成) 、何れも戦争責任はあるが、終身禁固刑に該当するかは不明である。獄中死亡者を除けば10年程度で釈放されている。
• ***⇒陸軍では「良識派は出世できない」、海軍では「良識派は孤立する」と言う事実が日本を破滅に追いやった。東条が首相になれたのは情報を無視し終始根拠無き強硬論を唱えたからに過ぎない。
• *今村均(第8方面軍司令官・ 陸軍大将)…ジャワ島攻略で大戦果、オランダ・米・英・オーストラリアを無条件降伏させ、軍政では陸軍中央からの「シンガポール並みの強圧政策命令」を拒否し、軍規・治安維持、インフラ整備、産業の復旧等抜群の指導力を発揮。B級戦犯として、ジャカルタでのオランダ軍事裁判は無罪、ラバウルでのオーストラリア軍事裁判で禁錮10年の有罪判決は報復裁判である。
• 小野寺信(スウェーデン公使館附武官・陸軍少将)…ドイツはソ連に負ける等の重要な情報を送り、連合国から日本人スパイの親玉と恐れられていた。日米開戦反対の情報を送り続けたが、中央は白鳥等のドイツ絶対優勢の情報に頼り、無視された。
• 井上成美(海軍次官・海軍大将、ドイツ語等語学極めて堪能)シナ事変時、海軍軍務局長就任、米内光正・海相、山本五十六海軍次官と並んで海軍省左派トリオ…海軍良識派として有名。)対米戦争を回避する為軍務局長の仕事は米国を刺激しない事、ヒトラーの日本利用の目論見を見抜いて居た為「三国同盟」阻止に全精力を費やした。支那方面参謀長の時、陸軍との合同会議で支那との戦争だけでも大変な時に、国力も大きく異なる大国・米英と事を構える等は狂気の沙汰と正論を述べ陸軍を沈黙させている。1941年8月第四艦隊司令長官を命じられたが、この人事は日米開戦に反対し、南部仏印進駐に関する局部長会議の席で海相の及川を怒鳴りつけた井上を栄転と言う形で体よく海軍中央から遠ざけるものであったと言われている。理性的・合理的思考の井上は右翼の狂信性を嫌い海軍兵学校・校長の時、上層部からの命令に抗して「死を美化する平泉の話を年少の生徒に聞かせるわけにはいかない」として教官だけに聞かせることにしたと伝わっている。
• 米内光政(連合艦隊司令長官、海軍大臣、首相、海軍大将)
三国同盟を論ずる五相会議の席上で、日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍の見通しを聞かれ、米内は「勝てる見込みは無い。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されて居ない。独伊の海軍にいたっては問題にならない」と言下に答え、昭和天皇から米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけられている。米内首相に大命降下時、陸軍は三国同盟反対の米内首班に激しく反発、畑・陸相を辞任させ軍部大臣現役武官制を使って半年余りの短命内閣に終わらせた。昭和天皇は米内内閣が続いて居れば大戦を回避できたのにと悔しがらせた。戦後・東京裁判では畑は米内内閣倒閣などの罪状によりA級戦犯として起訴された。占領軍の見解では、米内内閣は親英米派内閣であり、その倒閣は死刑に値すると言ものであったが、この絶体絶命の危機に米内が弁護側証人として出廷し、畑を徹底的にかばったお陰で畑は死刑を免れ、終身禁固の判決となった。畑は6年の服役で出所し裁判長の威嚇・非難に抗して弁護してくれた米内に多大の感謝の意を表した。
戦後、米内は戦犯として拘束されることを予期し、収監された場合の準備をしていたが、結局容疑者には指定されなかった。 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ね、「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言したと伝わっている。全体的な評判は「私心がない人、欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ。 カミソリの切れ味の井上成美を参謀長、次官として上手に包み込んで使っておられ、一回り大きな軍政家であった。
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