先週、他会社の方数十名と一堂に会する場がありました。朝から晩まで一緒に過ごしたのですが、休憩時間になると1/3の人はスマホやパソコンを開き自分の世界に入ってしまいました。恐らく職場と業務連絡をしていたのでしょうが、会社から離れても離れられない大変さと、周囲との間に見えないカーテンが引かれた光景の不気味さを感じました。
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前々回・前回と白河だるま市の風景をご覧いただきましたが、この日は早々にだるま市会場を後にし福島県内を巡りましたので、今回からしばしその風景のおすそ分けをします。
だるま市の開催された福島県白河市は栃木県那須町と接していますが、両県を結ぶ主要道路は西から東北自動車道、国道4号線、国道294号線、そして県道76号線とあります。このうち一番東側を南北に走る県道76号線は一番古くから奥州と関東を結ぶ道として整備され、現在の栃木県境から数キロ北には「白河関」がありました。
「勿来関(福島県いわき市)・鼠ヶ関(山形県鶴岡市)」と共に三大関所と言われた白河関が設けられた正確な時期は不明ですが、7・8世紀にはすでにその存在を認める資料があり、江戸時代の発掘調査によりこの地が「白河の関跡」と断定されました。京と奥州を幾度も行き来した坂上田村麻呂もここを通り、休息をとったのかもしれません。
(白河関跡碑 -福島県白河市 2012/02/11-)
石碑の後方には、白河国造命(しらかわくにのみやつこのみこと=白河一帯の支配者)や天玉太命(あめのふとたまのみこと=神事の神様)等を祀る白河神社への参道が続いています。本来、参道の中央は神様の通る場所なので参拝者は端を歩かねばならないのですが、両端は雪が凍っており転倒必至。中央を歩いて参道を上りました。
(白河神社への参道 -福島県白河市 2012/02/11-)
説明板によると、白河神社の歴史は135(成務5)年に白河国造命と天玉太命を祀ったことがスタートのようですから、事実なら創建から1877年になります。
「坂上田村麻呂が立ち寄ったかも」と申しましたが、源頼義・義家が稲田を、源義経・頼朝が金弊をそれぞれ奉献(神社に物を奉ること)したそうですから、奥州へ攻め入った人々はここで手を合わせ、この先の勝利を祈ったのかもしれません。
(芭蕉も手を合わせた?拝殿 -福島県白河市 2012/02/11-)
ところで参道を戻り関を去ろうとしたところ、真新しい表示板が目に留まったので近づいてみたところ、放射能の測定結果表示板でした。週に1度測定し周知しているようです。その値が高いか低いかはともかく「長時間の(公園)利用は避けて下さい」なんて注意書きを見ると、目に見えないものへの不安を感じなくもありませんでした。一見でもそう思うのですから、地元の方の心中はいかに。
2011/02/14の一品・・・879)私的岩手通史の旅 第60回
2010/02/14の一品・・・644)私的岩手通史の旅 縄文時代3
2009/02/14の一品・・・451)白河だるま市2009 後編
2008/02/14の一品・・・179)袋田の滝
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前々回・前回と白河だるま市の風景をご覧いただきましたが、この日は早々にだるま市会場を後にし福島県内を巡りましたので、今回からしばしその風景のおすそ分けをします。
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「勿来関(福島県いわき市)・鼠ヶ関(山形県鶴岡市)」と共に三大関所と言われた白河関が設けられた正確な時期は不明ですが、7・8世紀にはすでにその存在を認める資料があり、江戸時代の発掘調査によりこの地が「白河の関跡」と断定されました。京と奥州を幾度も行き来した坂上田村麻呂もここを通り、休息をとったのかもしれません。
(白河関跡碑 -福島県白河市 2012/02/11-)
石碑の後方には、白河国造命(しらかわくにのみやつこのみこと=白河一帯の支配者)や天玉太命(あめのふとたまのみこと=神事の神様)等を祀る白河神社への参道が続いています。本来、参道の中央は神様の通る場所なので参拝者は端を歩かねばならないのですが、両端は雪が凍っており転倒必至。中央を歩いて参道を上りました。
(白河神社への参道 -福島県白河市 2012/02/11-)
説明板によると、白河神社の歴史は135(成務5)年に白河国造命と天玉太命を祀ったことがスタートのようですから、事実なら創建から1877年になります。
「坂上田村麻呂が立ち寄ったかも」と申しましたが、源頼義・義家が稲田を、源義経・頼朝が金弊をそれぞれ奉献(神社に物を奉ること)したそうですから、奥州へ攻め入った人々はここで手を合わせ、この先の勝利を祈ったのかもしれません。
(芭蕉も手を合わせた?拝殿 -福島県白河市 2012/02/11-)
ところで参道を戻り関を去ろうとしたところ、真新しい表示板が目に留まったので近づいてみたところ、放射能の測定結果表示板でした。週に1度測定し周知しているようです。その値が高いか低いかはともかく「長時間の(公園)利用は避けて下さい」なんて注意書きを見ると、目に見えないものへの不安を感じなくもありませんでした。一見でもそう思うのですから、地元の方の心中はいかに。
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