学生と議論してて、新たに見えたこと。
Schoolhomeは、「家庭が崩壊している今、学校を家庭(home)のようにしよう」という考え方だけど、そのhomeの像(image)はどこに求めればよいのか。
家庭が崩壊しているとすれば、その「崩壊した家庭」のように、学校をせよ!、というわけにはいかない。「崩壊していない家庭」のような空間を、学校に作らなければならない。
では、「崩壊していない家庭」とは何か。ベクトルは二つある。
①過去にあった一般家庭像
②過去でも今でも少数派の理想的な家庭
かつての家庭は、「家父長制」を土台にした父親独裁の家庭だった。「家主」の権限が最大限に与えられた「独裁王国」だった。それこそ、子どもを生かすか殺すかも、父親の判断にまかされていた。
そういう家父長制のような学校は、ともすればSchoolhomeの像になり得る。
が、それがSchoolhomeなのではない。①ではない。
とすれば、②の家庭が、Schoolhomeの像となる、ということになる。
②の家庭像は、どういうものか。
そこに、「民主主義」という言葉をあてはめてみると、Schoolhomeの像が見えてくる。
民主主義的な家庭。
それは、家族の構成員の全員の声が反映された家庭。子どもや高齢者の声、母親の声、父親の声がすべて反映され得る家庭。共同や共生によって成り立つ家庭。誰かの意見だけが反映されない家庭。皆が皆の声に耳を傾け合える家庭。互いにケアしあい、互いにケアされ合う家庭。
こういう家庭は、今日においてもとても少ないように思うし、かつての家庭としてもそれほど多くはないと考えられる。女性(母親)の意見が、家庭の政策決定(?)に反映される、というのは稀有だったはずだ。
同じく、学校も、教師の意見だけが通ったり、あるいは一部の人間の声だけが反映される場合が圧倒的に多かった。
皆の声、とくに学校の中において立場の弱い人の意見が、きちんと反映されるクラス。それが、Schoolhomeのhome像なんだと思う。
民主主義への教育の問題は、民主主義への家庭の問題とつながるはず。
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もうすぐ僕の大先輩が、「民主主義への教育」という本を出します♪
よろしければ是非!
上の視点で、僕はこの本を読みたいと思います。
最後は宣伝になっちゃった。
でも、Schoolhome論、あるいは、ケアリング論として、この問題は考えられるな、と改めて思わされました。