今、「子育て」をどう考えればよいのか。
2013年の今、子育てをめぐる状況をどう語ればいいのか。
今の時代、子育てというと、「待機児童ゼロ」という言葉が真っ先に浮かぶ。この言葉には、「保育園をのぞむ全ての母親のために、保育園を!」というメッセージが隠されている。
そこには、「保育園に入れること」が、そのまま「子育て支援」になる、と考えられている。また、地域の母親にも、保育園が開かれることが求められていて、保育園が地域の子育ての拠点になるよう、推奨されている。
働きたいと強く願う母親には、とても大切なことだと思う。子育てはこれまで、もっぱら母親に(社会的に)強要されてきた。「ずっと古より」ではない。明治以降、あるいは戦後に、その圧力は強まった。その背景には、「富国強兵」という考えがあり、「戦後復興」→「経済成長」という思想があった。特に戦後は、「企業戦士=父親」を確実に得るためにも、母親を家庭に閉じ込める必要があった。
しかし、時代は変わり、女性が社会に進出するようになった。80年代後半~90年代にかけてだろう。バブルの頃、女性たちはこぞって社会に出るようになった。僕の母親世代=団塊世代は、まだ皆、ほとんどの母親が家庭に入り、子育てと夫を支えることだけに専心した。70年代~80年代前半は、団地がたくさんあり、近所に子育てをする母親がたくさんおり、お互いに助け合っていた。父親は不在だったけれど、母親たちは子どもができればそれでつながることができた。近所に、共に子育てをする仲間がたくさんいて、母親たちは共につながり、困ったときはお互いに助け合っていた。
けれど、今は違う。専業主婦もいるが、多くの母親が地元・地域から離れたところで働き、日中の子育ては保育園に委ねている。現代は、「専業主婦」と「働く女性」の二極化の時代となっている。どちらがよいのかは不問とする。
働く女性たちは、働きながら、子育てを担う、ということになるが、実際は(現象としては)子育てを外部に託し、働くことが生活の中心となる。休日は子育てをすることになるが、それは子育てというよりは、余暇を家族で過ごすということであり、どこかに出かけたり、どこかで食事をしたり、誰かと会ったりというような「活動的(消費活動的)な時間」を子どもと過ごすことに充てられる。あるいは、たまった家の仕事や掃除や洗濯などに追われることになる。
他方、専業主婦は、保育園に子どもを預けられないので、日中を母子だけで過ごすことになる。母子だけの空間だ。近所に出歩いても、なかなか同じような母子がいないケースも多い。昔と違い、同じ年齢くらいの子どもがいるからというだけではなかなかつながれない。働いている母親と出会っても、なかなかかみ合わない。働いている母親と専業主婦とでは、世界が違いすぎて、噛みあわないのだ。第一、専業主婦がその働いている母親と会おうにも、仕事が忙しく、会えないのだから。
では、保育園で母親同士がつながり、助けあうかといえば、そう単純なものでもない。第一、仕事が終わる時間はバラバラだし、休日だって職場によって違う。近所の母友達ができたとしても、普段一緒に子育ての辛さを共有し合うわけではないから、なかなか一線を越えられない。
つまり、子育ては今、保育園を中心にしてその支援を充実させようとしているけれど、その一方で、ますます母親たちはそれぞれに孤立しているのではないか、と思うのある。
かつて、ママ友地獄をテーマにしたドラマが話題になったが、そういう地獄すら成立していないのが、今の子育て事情のような気がしてならない。母親同士がつながれない時代、というか。もちろんママ同士で楽しくやっている母親もいる。だけど、その一方で、かつてにないほど、子育てが外注化され、子育てする母親たちの孤立化が起こっているように思えて仕方ない。
地域差もあるだろう。都心部では、新しいマンションなどに若い子育て世代の夫婦が集まることが多いが、皆、夫婦共働きであり、日中に途方もないほどの時間を子と共に過ごす子育てを回避している。郊外では、都心部に働きにでる母親と専業主婦が混在している。地方では、保育園もなく、また古い価値観もあり、専業主婦も多いが、父母・祖父母等の協力を得て、子育てする家族の機能が十全であったりする。
ただ、今の子育て世代の多くが、都市部~郊外に集中しており、その人が集まるところに保育園がどんどん作られている。ただ、その反面で、保育園に預けられない母親も多く、また、預けたくない母親もたしかにいる。
うちの学生たちに聞くと、「せめて幼稚園に上がるまでは(=3歳になるまでは)、私が子どもの世話をしたい」、と語る。つまりは、専業主婦である。しかし、その専業主婦になる道は険しい。夫の収入にもよるだろう。ただ、一番問題なのは、専業主婦になった時、地域に同じような母親仲間を見つけるのが極めて困難だ、ということである(と思う)。
これは、「母親の自律問題」でもある。保育園やこども園抜きに、母親たちによる個別の子育てネットワークができにくい、という問題である。また、もっと簡単に言えば、住んでいる場所のすぐ近くに同じように子育てに勤しむ母親がいない、という問題である。「みんなが集まる場所」ではない。歩いて数分のところに何人かの母親仲間が何人いるか、という問題である。困った時に、子どもを少しの間見ていてくれる人がどれだけいるか、という問題でもある。
つまり、母親が無理なく自宅で子育てができる環境はどれほど整っているのか、ということである。もちろん母親でなくて、父親がその役割を担ってもよい。母親がベーシックインカムを得て、それを頼りに、「専業主夫」が子育てできるなら、それはそれで進歩的な子育てと言えるだろう。
ニーズは二つある。働く女性たちのための支援をもっと強化すること。それと同時に、子育てに専念したい母親たちのための支援を実施すること。この後者が、無視されているのではないか、と思う。子育てに専念したい母親は、今となってはもしかしたら少数派かもしれない。けれど、よほど働くことへのこだわりが強い人以外は、「できることなら、産んだ赤ちゃんと一緒にいたい」と思うのではないだろうか。
僕が思うのは、「子育てを一通り終えた女性たちの社会への復帰」の問題が議論されないこと。たとえば、子どもが小学生にもなれば、母親は「また働こうかな」と思うだろう。けれど、現実には、なかなかそういう女性を正規で雇ってはもらえない。資格があれば別だけど、資格がなく、35を過ぎた子持ちの母親を積極的に雇用しようとする企業は少ないと思う。ゆえに、非正規で、しかも単純な仕事しかすることができない。
ここにこそ、日本の母親(女性)の問題が潜んでいるように思うのだ。子育てに専心しようとする母親は、それはそれで素敵なことである。それを一通り終えた母親は、それ自体、貴重なマンパワーでもある。数年間、子どものために自分の全てを犠牲にしてきた人たちである。母親として、というよりは、一人の人間として、大仕事をやり遂げた存在である。そういう母親たちを、うまく活用できていないのが、この国なのではないか。
僕は、きちんと子育てを果たした全ての母親は偉大であると思う。もちろん完璧な子育てができているとは思わない。だけど、男性=父親が自己を犠牲にして職場に奉公するのと同じくらい、女性=母親が子育てを全うすることには価値があると思うし、意味があると思う。
そういう女性=母親を、この国全体が、きちんと活用すること、それこそが「国益」になるのではないかとも思う。
小学生の子をもつ母親、中学生の子をもつ母親、高校生の子をもつ母親…。そういう母親たちを、単純労働を軸とした非正規職員にしておくのは、もったいない、と思う。もちろん、従来の枠での正規雇用は難しいだろう。子どもが体調を崩したり、学校の行事等で休まなければならない場合も多々あるだろう。けれど、そういう時に、寛容になれる職場こそが、健全な労働環境なのではないか。最低限の仕事をして、臨機応変に対応できる職場、それこそが求められているのではないか。
正規雇用のあり方も変えることはできるはず。たとえば、1日の労働が4時間の正規雇用職員というのは不可能ではないはずだ。もちろん給与は通常の半分になってしまう。でも、それでいいと思う母親もいるはずだ。1日の労働時間4時間で月の手取りが100,000円というのはどうだろう。200,000円の職員一人を二人にするだけだが、それで二人の母親の社会復帰が可能となる。それに、母親としての責任を負い続けている彼女たちは、その4時間の仕事をきちんと全うするだろう。
欧米では、ワークシェアリングという考え方が普及しているが、これをもっと子育て支援で語れないのか、と思う。これを、僕は、「ワーク・子育て・バランス」といいたい。
厚生労働省もこのことは考えている。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudouseisaku/worksharing02/
(ただし、僕の言うような、子育て集中→職場復帰→ワーク・子育て・バランスについては考えていない)
<まとめ>
かつてと違い、今は専業主婦と働く母親の二極化が進んでいる。そして子育てをしたいと願う母親にとっての受難の時代を迎えている(と僕は考える)。母親の自律性は壊れ、母親同士だけで子育て問題が解決できなくなりつつある。それは母親の能力が低下したという次元の問題ではなく、地域に子育てに専念する母親仲間がいないという問題に辿りつく。
母親の社会参加も重要だけれど、子育てをする権利も残さなければいけない。特に「時間軸」で考えれば、(専心的な)子育てに専ら集中しなければならないのはわずか6年程度である。 働きたい女性のための社会変革の手を緩める必要はないが、子育てに専心したいという母親も(潜在的には)かなり多くいるように思う。(これについての意見は是非聴いてみたい)
そういう母親たちもいずれは子育てから自由になる。そういうときに、彼女たちがまた社会参加し、能力を発揮して、社会に貢献できるようにすることも、重要なイノベーションなのではないか。
それは、「ワーク・ライフ・バランス」に倣って、「ワーク・子育て・バランス」と言えるものであろう。
僕ら大人はもっと真面目に考えるべきだ。どんな人間も、母親のお腹から生まれ、母親の声に慰められ、母親の温かい腕の中で眠っていた。そういう母親をもっと尊重すべきだし、尊敬すべきである。24時間、小さな子どもは目が離せない。自分を犠牲にして、我が子のためにずっと居続けることのきつさを世の男たちは分かっていない。分からないから、その大変さや有り難さも分からない。
けれど、そういう母親の子育てという「キャリア」を尊重し、それを踏まえて、(再)採用することこそが、これからの社会に求められることだと僕は強く思っている。