今から17年前の1998年(平成10年)8月、私は「旅打ち」という名の小旅行に出かけた。
まぁ、日頃たまった仕事のストレスを解消させようと、休暇を使ってパチ・スロの「地方遠征」を決行した訳だ。
そういえば、私は「BOSSとしのけんの旅打ち(企画)」(1998年~2000年)に触発されて、旅打ちを始めた…と言うようなことを、過去記事で書いた事がある。
しかし、過去の行動記録をあらためて見ると、私は「1997年」に旅打ちを開始している。その頃は、まだ「旅打ち企画」も始まっておらず、当初は「自発的」に旅打ちを決意した事が窺える。
その後、2人の遠征企画を雑誌やビデオで見る機会が増え、自分の旅打ち意欲も増幅して、地方に出向く頻度が多くなった…という感じだ。実際、1999年~2001年の記録を見返すと、旅打ちの機会がグンと増えている。
まぁ、それはともかく、98年8月の旅打ちの際、私が目的地に選んだのは「広島」であった。
なぜ広島に決めたかは、イマイチよく覚えていない。正直な所、「遠出」さえできれば、場所は何処でも良かったと思う。ただ、過去に修学旅行で行った事があったり、小学生の頃から広島カープのファンだったりした事が、影響したのかもしれない。
この時は、広島での宿泊先を事前予約しておいたが、移動については、完全に「行き当たりばったり」であった。
さらに、宿代や交通費等の経費は、遠征先のパチ屋で全て回収したかったから、なるべくカネがかからない手段を選んだ。
随分と虫のいい話かもしれないが、これが面白いくらいにうまくいった。私の旅打ちの成績は、地元でのヘボい立ち回りとは違って、実に芳しい成果を収めた。
出発当日、小田急線で小田原駅まで出ると、そこで初めて新幹線の時刻表を見て、乗るべき列車を決めた。こんな適当な計画だったから、「ひかり」や「のぞみ」ではなくて、時間がかかる「こだま」で新大阪まで行った(のぞみは、当時割高料金で、ハナから使う気がなかったし、そもそも小田原には止まらない)。
途中の岐阜羽島駅で、やたらと長い「通過待ち」をした事も記憶に刺さる。「新幹線のクセに、通過待ちしやがって」と、結構なカルチャーショックを受けたからだ。
新大阪からは、別の新幹線(これも「こだま」だったかな)に乗り換えて、広島まで直行した。ずっと座っていたとはいえ、疲れがたまる長時間の移動であった。
広島駅につくと、駅前のパチ屋などをブラブラとチェックして回った後、この日の宿泊先である「ホテル広島ガーデンパレス」に向かい、チェックインを済ませてから、ホテルの周辺を散策。
すると、ホテルの近くに「キング」という香ばしいパチ屋を発見。中に入ってみると、パチスロのシマの一角で、NETの「ネイバルソルジャーS」というマイナー4号機と初遭遇する。
見れば、出玉も案外よさげである。「マイナー機」という物珍しさも手伝って、適当な空き台に座って、いきなり勝負を開始した。まぁ、いかにも無謀な挑戦である。
が、その台は意外に食いつきが良く、同じ台で夜まで粘った結果、行きの交通費とホテルの代金が出る程度の勝ちを拾った。まったくの「マグレ勝ち」に過ぎなかったが…。
過去の旅打ちを思い返すと、こうしたいい加減な立ち回りでも、けっこう勝つ事が多かった。ハッキリいえば、「ヒキ」に助けられてばかりの旅だと思う。
ひょっとすると、見知らぬ地での孤独な実戦が、独特な「緊張感」をもたらして、私に不思議なパワーを出させたのかもしれない…(未確認)。
その夜は、広島名物の「お好み焼き」を堪能…する事ができず、近くのコンビニで弁当を買い、ホテルの部屋で一人寂しく食べた。その後、移動や実戦の疲れがドッと出てで、いつしか眠りに落ちた。
で、翌朝になると、なぜか、「もう広島は満足だな。何処か別の場所に移動しよう」という気分になっていた。
たった半日程度、ホテル近くのパチ屋でスロのマイナー機を打っただけで、私の「旅打ち欲」は満たされてしまったようだ。名所の「広島市民球場」や「原爆ドーム」に行ってみようとは、全く思わなかった。
(実は、2000年にも広島旅打ちの機会があって、その時は球場もドームもちゃんと訪問した)
そんな訳で、朝早くにチェックアウトを済ませると、すぐに広島駅へ向かった。前日の下見で、駅前にパチ屋が多い事は判っていたが、まだ開店前だったし、前日に勝ったという「充足感」もあり、わざわざ開店待ちして、駅前ホールで実戦する気にはならなかった。
で、駅構内で時刻表や経路図とにらめっこした後、唐突に「山陰地方に行こう」と決めた。
山陰エリア、特に島根・鳥取の2県は、当時の自分にとって、まだ「未知の領域」だった。その近くの広島に来たことで、「ぜひ、一度足を踏み入れたい」と思い付いた訳だ。
移動費用に関しても、広島駅から在来線を乗り継げば、松江や米子まで、割安で辿り着く事ができると判った。
そこで、携帯で宿泊先を割り出して、米子駅近くの「アルファ―ワン(α―1)」というホテルに、当日の宿泊予約を入れた。これで、今日の宿は安心。後は移動だけである。
広島駅で私が乗り込んだのは、JR芸備線というローカル線だった。一両か二両編成のひなびた鈍行列車で、広島から「三次(広島県)」~「新見(岡山県)」と乗り継いだ。
が、これが、エラく時間のかかる移動になってしまった。中国山地の奥深い山間を縫うように、ひたすら単線を走り続ける、まさに「ローカル線の旅」。
車窓に映る木々や渓流を眺めたり、途中で仮眠したりして、5時間くらいかけて、ようやく新見駅に到着した。
流石に腹が減っていたので、駅構内にあった、古い立ち食いそば屋で、軽い昼食をとる。
腹が満たされると、今度は「パチりたい」という欲求に駆られた。幸い、次に乗るべき電車は、だいぶ先だったので、待ち時間を利用して、「パチ屋探し」をする気になった。
古びた改札を出て、ふと後ろを振り返ると、なんだか「まんが日本むかし話」に登場しそうな、丸くて大きな山が、駅舎の背後に「デン」と構えている。
「こんな山深い場所に、パチ屋なんてあるのか…」と、不安に駆られつつ駅周辺を探索すると、駅から少し歩いた国道沿いに、一軒のホール※を発見。
※この時は、立ち寄ったパチ屋の名前を全く知らず、独自調査で、「京極遊技場」(閉店)だと思い込んでいた(過去記事でも、そう紹介した)。しかし、京極遊技場はもっと小さい店で、場所ももっと駅寄りだった。で、私が入ったパチ屋は、「エンドレス」という店だった事も判明。実に、大きな勘違いであった(過去記事を読まれた方、申し訳ない。該当箇所は、訂正させて頂く)。
この新見「エンドレス」の一角にあった、奥村の現金機「モナコボートSP」に座り、短時間勝負を挑んだら、最初に両替した1000円が無くなる前に、大当りしてしまったのだ。しかも、まさかの保留玉連チャンまで付いてきた。
またも旅打ちでの「ヒキ」を見せた私は、約4000発の玉をさっさと換金すると、交通費が出た事に満足して、意気揚々と新見駅に戻った。
新見からは、芸備線で備後落合駅に戻ると、JR木次線という別のローカル線に乗り換えて、島根県の木次駅→宍道駅と移動。そこで山陰本線に乗り換えて、一度は立ち寄りたかった、松江駅を目指した。ここでも、特急・急行の類は使わずに鈍行で移動したから、えらく時間がかかってしまった。
松江駅に着いた時には、すでに夜9時半を過ぎていた。確か、広島駅を出たのが午前8時過ぎだから、松江までの移動には、途中の寄り道も含めると、およそ13時間もかかった訳だ。
流石に私もヘトヘトで、夜の松江でパチろうとは、少しも思わなかった。だが、半ば義務的に、駅前の路地(まだ再開発前)を歩いて回り、2,3軒のパチ屋を覗いてみた。流石にどの店も、この時間ともなれば、客はまばらだった。まぁ、遠征の証に100円くらい打ってもよかったが、あまりの疲れに、そんな気すら起きなかった。
松江に戻ると、再び山陰本線に乗り込み、ホテルがある鳥取県の米子駅に向かった。駅に着いてホテルに直行すると、夜11時の遅いチェックインを終えて、駅前の小さな居酒屋で晩飯をとった。しかし、ローカル線の長距離移動が、ここまで過酷だとは思わなかった。完全に、中国山地をなめていたな…。
なお、現在の「経路探索」ソフトで上記ルートを調べてみると、私が動いた上記の経路(全てローカル線の鈍行列車)で、約13時間で広島から米子に移動するのは、無理のようだ。98年当時は、現在と比べて在来線の本数が多かった事も判る。
さて、米子に泊まった翌朝は、「もう、移動は沢山だ。早く帰りたい」という気分になっていた。
ああも一日中列車に乗り続けていると、余程の鉄道ファンでもない限りは、疲れ切ってしまう。駅周辺のパチ屋探しは諦める事にして、帰京すべく米子駅に向かった。
ただ、駅に着くと、「鳥取といえば、『温泉』と『砂丘』」だな。砂丘などは興味もないが、昨日の疲れを取りたいし、鳥取駅に出向いて、温泉にでも入ろう。」と、急に思い立った。
米子から鳥取駅まで電車で出ると、パチ屋探しならぬ、「風呂屋探し」を開始した。勘を頼りにしばらく歩き回ると、街はずれの川っぷちに、「鳥取温泉」という小さな看板が出ている建物を、偶然にも発見した。
見ると、「温泉」というよりは、地元の「銭湯」に近い、こじんまりとした施設であった。それでも、お湯自体は天然温泉なので、贅沢は言うまい。鳥取に立ち寄った証に、此処のお湯で疲れをとる事にした。
中に入ると、やはり銭湯調の番台と脱衣所があった。料金を払い、服を脱いで浴場に入ると、まだ午前10時半くらいだった事もあって、先客はいなかった。
すっかり「貸切状態」の中、気持ちよい天然温泉の湯につかって、天にも昇るような気持ちで、しばし休息する。湯気を存分に吸いこみ、ジンワリ汗をかいて、「あぁ、気持ちいい」…。昨日の長距離移動の疲れも、一気に吹っ飛ぶ。
すると、突然、「ガラリ」と浴場の戸が開く音がして、数名の男達がゾロゾロと入ってきた。
その瞬間は、「おっ、地元の常連が、団体で朝風呂でも浴びに来たか」と、思っていたが…
ふと、近づいてきた彼らの方を見やると、一人残らず、その背中や両腕に、赤や緑のカラフルな「模様」が入っているではないか。
それは、明らかに「その筋」のご一行であった。確かに、地元の常連には違いないが…。
その数、7、8名。手拭を担いだ背中には、龍や鯉の鮮やかな「イラスト」が、チラチラ見え隠れする。
「ヤバイ…」私は、そう直感した。だが、大きな湯船は1つしかなく、彼らは次々と湯船に入って来ては、私の至近距離に腰を下ろしていく。
その間、私を支配した感情は、まさに「恐怖」であった。鳥取にまで来て、なんたる展開か…。いくら旅打ちの「ヒキ」が良くても、こんなものまで引き連れてくるとは、夢想だにしなかった。
コワモテの男達は、チラリとコチラに一瞥をくれた後、湯船で楽しそうに会話を始めた。しかも、私の両サイドから取り囲むような形で…。とてもじゃないが、落ち着いて温泉を楽しむ状況じゃない。
その時、背後で「オイッ」と声がしたので、ドキッとしてそちらを振り向き、「あの…私ですか?」と恐る恐る聞くと、「いや、あっちだ」と、洗い場にいる仲間の方に声をかけていた。
まぁ、何とも滑稽なやり取りだったが、それを楽しむ余裕など、微塵もなかった。
しばらく緊張の時間が流れたが、結局、彼らが洗い場に立った一瞬のタイミングを見計らって、バッと湯船から飛び出すと、ダッシュで洗い場の横を通り抜けて、脱衣所に「脱出」した。
そして、慌てて服を着て表に出ると、入口前に、黒塗りの高級外車が2台、横付けされていた。
やっぱり、あれは、地元の「その筋」だったんだ…と確信する。
まぁ、よくよく考えれば、彼らも彼らなりに気を遣い、カタギの人たちになるべく迷惑をかけないよう、「午前10時過ぎ」の早い時間をわざわざ選んで、温泉にやってきたのだ。
そこに、遠征中の私が先客で立ち寄っていたので、運悪く鉢合わせしてしまった。ある意味で、イチゲンである私の方が、「間が悪かった」のだろう。
その昔、ドリフのコントで、サウナにヤ〇ザが次々と入ってくるネタがあったが、まさか、こんなところで、自分がリアルな「ドリフネタ」に巻き込まれるとは、夢にも思わなかった。
しかしまぁ、見方を変えれば、これはこれで、「貴重な体験」だったのかもしれない。
その後、鳥取駅に舞い戻った私は、11時49分発の「スーパーはくと6号」で、終点の京都駅に向けて出発した。
ただ、あまりに「衝撃的」な体験をしたせいか、京都駅に着いてからも、パチる意欲はいっこうに沸かなかった。とりあえずは京都まで来たので、地下鉄を使ったり歩いたりして、平安神宮、南禅寺、銀閣寺などの名所を回ったが、やっぱり我が家が恋しくなって、そのまま帰京した…。
まぁ、これが1998年8月に行った、旅打ちの「全貌」である。
よく考えれば、計3日間の日程で、パチ・スロに費やした機会は、たった2回きり。打った台も、NETの「ネイバルソルジャーS」と、奥村モナコの「モナコボートSP」だけだ。
その他は、長距離の列車移動と、ホテル宿泊と、鳥取温泉の「入れ墨」という具合(笑)。
パチ・スロの戦績は「2戦2勝」だが、この程度では、「旅打ち」と呼ぶには、少々不甲斐ない。
しかし、道中で味わった「濃密」な体験は、17年経った今でも、脳裏に焼き付いている。
今、あらためて同じ経験をしようと思っても、色んな意味で無理だろう。やはり、90年代だからこそ敢行できた、「若き日の貴重な思い出」である。これからも、忘れる事はないだろう…。
この旅打ち時のホテル領収書や切符の類は、残念ながら大半が手元に残っていない。唯一、今でも残る「証」が、この特急券。平成10年(1998年)8月20日、11時49分発、鳥取発・京都行きの「スーパーはくと6号」。これを見るたびに、あの夏の日の記憶がジンワリ蘇る。