背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーに関する文献・資料(2)

2019年07月22日 15時11分56秒 | チャーリーパーカー
 ネット書店で注文したパーカーの本が先週2冊届いた。
 カール・ウォイデック著「チャーリー・パーカー モダン・ジャズを創った男」(2000年、水声社)と平岡正明著「チャーリー・パーカーの芸術」(2000年、毎日新聞社)。どちらも最近(と言っても20年近く前)出版された本だ。
 早速、両書とも第一章だけ読んでみた。平岡正明の本は、まあ何と言おうか、自己顕示欲むき出しの文章なので、好みに合わず、また資料性もゼロなので途中で放り投げようかと思っている。



 本書は、Carl Woideck "Charlie Parker His Music and Life"(1996)(チャーリー・パーカーの音楽と人生)の日本語版で、著者は米国の音楽家で大学講師である。パーカーの真面目な研究書なので、ためになりそうだと思って購入した。
 ところが、翻訳が最悪なのだ。前回「チャーリー・パーカーの伝説」と「バードは生きている」は翻訳書なので意味の分かりにくい箇所が多々あると書いたが、この本は意味不明の箇所だらけで、訳文も高校生に毛が生えたレベルなのだ。訳者の名前は伏せるが、上智大の外国学部を出た女性だという。私も昔、高校生に英語を教えていたこともあって、生徒がする誤訳や下手な訳には慣れているが、生徒の答案と公刊した本とでは責任の重大さが違うと思うのだ。それで、無性に腹が立って(この本、3,240円もした)、原文にあたってみた。
 アマゾンに原書の「なか見検索」というのがあって、一部だけネット上で読むことができる。で、第一章の3ページだけ英文を読んで、訳文と照らし合わせた。すると、明らかな誤訳が4箇所、不適切な訳語が8語もあるではないか。文法的な解釈の誤り、無知ないしパーカーに関する既刊書を読んでいないための勘違い、日本語の語彙力不足による訳語の選択ミス、などなど。
 
 許せない間違いを二つだけあげておこう。

Rebecca later said that Charlie would have dropped out of school except for her; indeed, when she graduated in 1935, Charlie dropped out, still a freshman.
(訳文)レベッカは後に、チャーリーは彼女以外の学校でのことは、全てドロップ・アウトしてしまったと語った。実際、彼女が1935年に卒業したときにチャーリーは退学したが、一年生のままだった。
 
 英文法を勉強しろよ! 仮定法過去完了ではないか。except for her = without her で、ここが仮定部。「もし自分がいなかったなら、チャーリーは退学していたでしょう」が正しい。drop out の訳語も「退学する」に統一しろよ!でないと、indeed(実際)の意味が生きないだろ。ちなみに、レベッカは、チャーリーのハイスクール時代の恋人で、最初の妻になった女性。チャーリー・パーカーは学校にレベッカがいるから、退学せずに通ってたわけ。といってもサボり魔で、成績も悪く、二度落第して、一年生を3年間やったのだ。

Bird wasn't doing anything, musically speaking, at that period.
(訳文)バードは何もできなかったし、当時は音楽で語れなかった。

 挿入句の musically speaking(音楽的に言えば)が分かっていないから、こんなバカな訳をするのだ! generally speaking(一般的に言えば)とか、strictly speaking(厳密に言えば)とかは、高校1年生だって知っている動名詞の熟語じゃないか。この訳者は、doing と speaking を並列だと思って、和訳している。語学力もないが、文章の理解力もひどいもんだ。「音楽的に言えば、バードはその当時、何も大したことをしていなかった」が正しい訳。実は、この部分は、ベーシストのジーン・ラミーの思い出話で、ライズナー著「チャーリー・パーカーの伝説」からの抜粋なのだ。そんなことは分かるのだから、この邦訳本も読んでみれば、自分の誤訳に気づくはず。怠慢というか、自分の語学力、理解力のなさを知らない馬鹿としか言いようがない。「チャーリー・パーカーの伝説」を訳した片岡義男も語学力があるとは言えないのだが、さすがにこんな低レベルの間違いはしない。「音楽的には、当時のバードは、注目に値することはまだなにもやっていなかった」とちゃんと訳している。

 一事が万事。こんな有様では、この本の中に誤訳が数百か所あるのではないかと思う。

 実は、この本、翻訳監修者(名前は伏せる)もいるのだが、この男、訳文をなんにもチェックしてないくせに、あとがきに偉そうなことを書いている。しかも、「力量不足による間違いもあるのではないかと思います。読者の方でお気づきの点があれば、ご教示をお願いする次第です」だって! ふざけんなと言いたい。訳者と監修者あてに、誤訳箇所を全部書いて、出版社へ送り付けてやろうかと思っている。
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チャーリー・パーカーに関する文献・資料(1)

2019年07月22日 13時28分14秒 | チャーリーパーカー
 現在私が参考にしている文献・資料は以下の通り。



 ロバート・ジョージ・ライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」(片岡義男訳、晶文社 1972年10月30日初版)
 原書は、Robert George Reisner "Bird :The Legend of Charlie Parker" (1962)
 日本語版の巻末に大和明が書いた「チャーリー・パーカーの生涯とその遺産」があり、パーカーのバイオグラフィと主要LPのリストが掲載されている。
 ロバート・ジョージ・ワイズナー(白人)は、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジ在住のジャズファンで美術史研究者だった。1953年にパーカー(晩年のバード)と初めて出会い、1954年にヴィレッジのクラブ「オープン・ドア」にバードを招き、出演させた。以後バードと付き合うが、厄介なことが多く苦労したという。ライズナーは、バードの死後、7年がかりで彼の旧友や関係者たちを歴訪し、バードの思い出をテープレコーダーとノートに採録した。同書にはライズナーの回想と、81人の思い出話が掲載してある。パーカーの文献としては最も重要な本。晶文社から日本語版が出たのはもう47年前で、ベスト・セラーになったと思う。この本を私が買って読んだのもその時で、私の持ってる本は1973年2月発行の三版。最近また、昔買ったこの本を熟読している。1998年3月に新装版が同じく晶文社から発行された。



 ロス・ラッセル著「バードは生きている チャーリー・パーカーの栄光と苦難」(池央耿訳 草思社 1975年4月10日初版)
 原書は、Ross Russel "Bird Lives! The High Life and Hard times of Charlie (Yardbid) Parker"(1973)

 日本語版の巻末に諸岡敏行の「チャーリー・パーカー・ディスコグラフィ」を掲載。
 ロス・ラッセル(白人)1909年ロサンジェルス生まれ。ジャズ好きが昂じて、ハリウッドのにレコード店を開き、さらにレコード会社ダイアル社を設立。チャーリー・パーカーと契約して、ハリウッドやニューヨークのスタジオでバードの最盛期の演奏を録音し、ダイアル盤を発売。バードが最悪のコンディションで演奏した「ラヴァ―・マン」も発売し、悪評を買う。以後、バードは、録音は続けるが、ラッセルとは事務的なこと以外、口を利かなくなったという。ダイアル社は1962年に倒産。ラッセルはその後、ジャズを題材に小説や評論を書き、ついにバードに関するこの力作を発行し、一躍注目を浴びる。日本版が発行された時、私はこの本を図書館で借りて読んだことはあるが、買ったのは最近。目下熟読中だが、どうも事実ではないフィクションが多いので、注意が必要だと思っている。ライズナーの「パーカーの伝説」を下敷きに、想像を膨らませて書いていて、読み物としては大変面白い。カンザス・シティや当時の社会背景を知る上でも役に立つ。

 以上の2冊は翻訳本なので、どうしても意味が分かりにくい箇所が多々あり、また、訳語のもとの英語は何なのか知りたいこともあって、アマゾンで原書を注文した。米国から届くのを待っているところだ。



 植草甚一著「バードとかれの仲間たち」<植草甚一スクラップ・ブック13>(晶文社 1976年4月初版)
 植草甚一が主に「スイング・ジャーナル」誌に書いた記事を集めたもので、第1章と第2章にチャーリー・パーカーに関する記事、第3章にソニー・ロリンズに関する記事を収録してある。重要なのは、第1章の「チャーリー・パーカーのレコードから」(ダウン・ビート誌1961年7月号)に紹介されている「ディジー・ガレスピーの回想」The Years with Yardである。また、第2章の6回分の記事で、ロス・ラッセルの「ロータス・ランドのヤードバード」Yardbird in Lotus Land を紹介しているが、これも重要だ。ロス・ラッセルは著書「バードは生きている」を発表する前に、フランスの「ジャズ・オット」誌の1969年11月号から70年9月号にバードに関する記事を7回連載していた。この思い出話は当時アメリカでは未発表だった。植草は「スイング・ジャーナル」誌に1971年7月号から12月号まで6回にわたり、フランス語を和訳して紹介した。

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チャーリー・パーカーの半生(5)

2019年07月22日 12時39分06秒 | チャーリーパーカー
 チャーリー・パーカーは34年の短いが波瀾万丈の生涯で、四人の妻を持ったが、最初の妻になるのがこのレベッカである。二番目がジェラルディーン、三番目がドリス、四番目(内縁の妻)がチャン。ドリスとチャンは白人だった。

 レベッカ・ラフィンという女性については、パーカーの死後30年ほど、謎に包まれていた。レベッカのことは、ライズナー著「チャーリー・パーカーの伝説」(1962年)に収録された母アディの談話に基づいて、うかがい知るだけだった。
 それが、1980年代に、ある黒人のジャズ評論家(スタンリー・クロウチといい、近年パーカー本を出版した)が彼女を捜し出してインタビューを試み、その談話の一部が ”Celebrating Bird / The Triumph of Charlie Parker”「セレブレイティング・バード~チャーリー・パーカーの栄光」(ゲイリー・ギディンズ著、1987年発行、1989年日本語版)という本の中で紹介された。これによって、チャーリーとレベッカの関係や結婚生活のこと、若き日のチャーリーのことなどが一層明らかになった。私はまだこの本を入手していないので、詳しい内容は分からない。
 先日購入したカール・ウォイデック著「モダン・ジャズを創った男」(2000年日本語版発行、原書は”Charlie Parker His Music and Life” 1996年初版)は、パーカーの伝記の部分で「セレブレイティング・バード」に紹介されたレベッカの話をかなり引用しているので、今のところこの本を参考にしている。

 母アディの談話から分かることは次のようなことである。
 レベッカはチャーリーより4歳年上だった。学校時代の恋人だった。チャーリーは16歳の時、レベッカと結婚した。正式に結婚する前に、レベッカの母と6人の子どもたちがアディとチャーリーの住む家の二階に引っ越してきた。結婚生活は2年続いた。レベッカはチャーリーの行動に口出しして、自由を縛るようになった。チャーリーはそれが嫌で、しまいに喧嘩になり、レベッカを殴るようになった。母アディはチャーリーを叱り、とうとう家から追い出し、それでチャーリーは単身シカゴへ行った。二人は5年間別居して、その後、正式に離婚した。二人の間にできた息子レオンは10歳までアディが育てた。その後レベッカが引き取った。レベッカは、それから何度か結婚と離婚を繰り返し、今は(1956年頃)カリフォルニアに住んでいる。
 母アディの談話は、話題があちこちに飛んで、何か思い出すとまた戻ってくるという感じなのだが、主観性も強く、話をまともに信じてはならない部分も含まれている気がする。記憶違いもあると思われる。年齢や年代などは、とくに注意が必要だろう。


<再婚したレベッカが息子レオンと夫を連れて、チャーリー・パーカーに会った時の写真。パーカーの右隣にいるのはマネージャーのテディ・ブルーム>

 レベッカ本人の話から、次のようなことが明らかになった。ただし、母アディの話と矛盾する点がいくつかある。
 レベッカは1920年2月23日生まれ。チャーリーと同年で、年上ではなかった。レベッカもチャーリーと同じリンカーン・ハイスクールの生徒だった。レベッカの母と家族がアディとチャーリーの家に引っ越したのは、レベッカが14歳の時だった。が、1935年春にレベッカの母と子どもたち(彼女も含め)は出て行った。レベッカの母は、二人の結婚には反対だった。二人は隠れてデートを続けた。レベッカは、1935年6月7日にリンカーン・ハイスクールを卒業した。卒業式の日にチャーリーは学校のオーケストラで演奏していた。1936年7月25日に二人は正式に結婚した。婚姻届を役所に提出し、レベッカは「年齢18歳以上」と申告した(これはパーカー研究者の調査による)。息子のレオンが1938年1月10日に誕生。同年レベッカはまた妊娠するが、夏に流産した。

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