ルイーズ(ロゼー)は、パリで10年ぶりにピエール(ポール・ベルナール)に再会する。
成人したピエールの登場のさせ方が観客の意表を突いて、うまいと思う。車が着くと、中に乗っていたピエールは怪我をして、顔に包帯をまき、意識朦朧の状態である。友達がホテルの彼の部屋へ担ぎ込む。ルイーズは、再会を喜ぶどころか、気が気でない。付き添っている親友のジョルジュに事情を聞くと、今さっき街の不良に殴られたのだという。もちろん手紙で病気というのは嘘だった。
ここから現在のピエールの様子が分かってくる。ピエールは、まともな生活をしておらず、盗難車を売って稼いだり、かなり危ない商売をしている。それだけではない。ヤクザのボスの愛人ネリー(リーズ・ドラマール)と付き合っていて、実はそれが発覚して、手下にヤキを入れられたのだ。
数日後、滞在していたルイーズの看護で、ピエールは怪我も治り、元気になる。
ルイーズはピエールにまともな生活をさせようと考え、ミモザ館で暮らすように説得する。ピエールは愛しているネリーのことをルイーズに打ち明ける。この時点では、まだルイーズのピエールに対する愛情は母性愛的なものである。
ルイーズがミモザ館へ帰って間もなく、ピエールがやって来る。ボスが愛人ネリーをロンドンへ連れて行ってしまったので、ほとぼりが冷めるまでミモザ館で暮らそうと決心したのだ。ピエールは養父だったガストンの紹介で、ニースの自動車販売会社に勤めることになる。営業成績も上々だった。
そんな時、ネリーがロンドンから逃げてピエールのもとへ来たいという知らせが届く。ネリーを呼び寄せる費用が必要となったピエールは、ルイーズに借金を頼むが、承諾しない。そこで、ルイーズの目を盗んで、家の金を盗むのだが、ルイーズはそれを見つけて、ピエールに平手打ちを食わす。しかし、結局、ピエールの懇願に負けて、ルイーズは金を出してやり、ネリーをミモザ館へ呼んでやる。
ネリーがやって来て、ここからルイーズとピエールとネリーの三角関係のドラマが始まるわけだが、徐々に深刻さが加わり、悲劇的な結末に向かっていく。
『ミモザ館』という映画は、前半は喜劇的なタッチを交え、人間模様を明るく描いていたが、後半の途中から暗い影がさし始め、作者の強引とも言える悲劇的なドラマ作りに、見ている方は次第に違和感と抵抗感を覚えるようになる。
母と息子の恋人との対立関係を描いた作品は日本では数多くあるように思うが(欧米では少ない)、『ミモザ館』はいわばそのフランス版である。しかし、母と息子の関係を、この映画では本当の親子にしていないため(これは作者の意図的な設定だが)、母性愛が異性愛に変じていくような面が目立ってくる。とくに、母親代わりのルイーズが成人したピエールを溺愛するにつれて、異性愛的な感情が強まってくる。そして、これが一方的なものだけに、ルイーズがピエールとネリーの関係を引き裂くように仕向ける言動が、中年女のある種の愚かしさと醜さを帯び始める。
ピエールはネリーを熱愛しているが、ネリーはたいして愛していない。ネリーは、女の直感で、ルイーズの愛情が恋愛感情だとすぐに見抜くのである。このネリーという女は、『外人部隊』のフローランスと似たタイプだが、彼女より自立的で現代的なところがあったと思う。
ピエール役のポール・ベルナールもネリー役のリーズ・ドラマールもなかなかの好演で、とくにポール・ベルナールは、この時36歳なのに22歳の若者役だった。彼は、難しい上に損な役をたくみに演じていたと思う。というのも、この映画を見た観客はピエールというこの若者にまったく共感が持てず、反感さえ感じた人もいたはずだからだ。しかし、これは映画の作者がそういう人物に作り上げているからで、俳優の責任ではない。『外人部隊』の男主人公も同じ名前のピエールで、派手な女に貢いで、見放され、絶望するところは同じなのだが、このピエールには共感が持てるし、同情さえ覚える。が、『ミモザ館』のピエールは、もっとずっとダメな男で、同情する気にもなれない。彼は犯罪者の血を引き、質(たち)が悪く、嘘は平気でつくし、詐欺はするはで、かなり屈折した心を持っている。美男子なので女にもてるが、お坊ちゃんぽいところがあり、女ったらしではない。ボスの愛人ネリーに惚れて、意外なほど純情なのだ。養母だったルイーズに対しては甘ったれで、お世辞を言ったり、髪型や服装に助言までしているが、ルイーズから金をもらおうという下心がちらちら見えるようなところもある。この腐ったようなダメな男を、作者は最後まで救いようのないように描いている。『外人部隊』のピエールに注いだような作者の愛情の眼差しがまったく感じられないのだ。だから、こういうピエールを愛するルイーズも愚かで救いようのないように見えてしまうのだ。
同じフランソワーズ・ロゼーが演じた『外人部隊』のブランシュと『ミモザ館』のルイーズを比べてみると、見終わった時点で観客は、はたして前者に対するような共鳴と感動を、後者の方にも感じたかというと、疑問に思わざるをえない。ロゼーの演技の問題ではない。ロゼーは、タイプの違う人物を演じ分け、前者以上に後者を熱演している。これは脚本の問題、主要人物の設定とストーリーとドラマ作りの問題である。とくに後半の途中からラスト・シーンへ向かうまでの展開で、ルイーズへの共鳴は薄れていき(観客の一人である私の場合だが)、ラストは余韻のある感動ではなく、暗澹とした気分と後味の悪さが残る。『外人部隊』は素晴らしいラスト・シーンであったが、『ミモザ館』の最後、ネリーの名前を呼ぶピエールにルイーズが彼女の身代わりとなってキスをしてやり、部屋に吹き込む風に大枚の札束が舞うというラスト・シーンは、あざとさが目立ち、行き詰まったドラマを無理矢理終わらせただけではないかとさえ感じてしまう。個人的には『外人部隊』の方がずっと好きである。(了)
成人したピエールの登場のさせ方が観客の意表を突いて、うまいと思う。車が着くと、中に乗っていたピエールは怪我をして、顔に包帯をまき、意識朦朧の状態である。友達がホテルの彼の部屋へ担ぎ込む。ルイーズは、再会を喜ぶどころか、気が気でない。付き添っている親友のジョルジュに事情を聞くと、今さっき街の不良に殴られたのだという。もちろん手紙で病気というのは嘘だった。
ここから現在のピエールの様子が分かってくる。ピエールは、まともな生活をしておらず、盗難車を売って稼いだり、かなり危ない商売をしている。それだけではない。ヤクザのボスの愛人ネリー(リーズ・ドラマール)と付き合っていて、実はそれが発覚して、手下にヤキを入れられたのだ。
数日後、滞在していたルイーズの看護で、ピエールは怪我も治り、元気になる。
ルイーズはピエールにまともな生活をさせようと考え、ミモザ館で暮らすように説得する。ピエールは愛しているネリーのことをルイーズに打ち明ける。この時点では、まだルイーズのピエールに対する愛情は母性愛的なものである。
ルイーズがミモザ館へ帰って間もなく、ピエールがやって来る。ボスが愛人ネリーをロンドンへ連れて行ってしまったので、ほとぼりが冷めるまでミモザ館で暮らそうと決心したのだ。ピエールは養父だったガストンの紹介で、ニースの自動車販売会社に勤めることになる。営業成績も上々だった。
そんな時、ネリーがロンドンから逃げてピエールのもとへ来たいという知らせが届く。ネリーを呼び寄せる費用が必要となったピエールは、ルイーズに借金を頼むが、承諾しない。そこで、ルイーズの目を盗んで、家の金を盗むのだが、ルイーズはそれを見つけて、ピエールに平手打ちを食わす。しかし、結局、ピエールの懇願に負けて、ルイーズは金を出してやり、ネリーをミモザ館へ呼んでやる。
ネリーがやって来て、ここからルイーズとピエールとネリーの三角関係のドラマが始まるわけだが、徐々に深刻さが加わり、悲劇的な結末に向かっていく。
『ミモザ館』という映画は、前半は喜劇的なタッチを交え、人間模様を明るく描いていたが、後半の途中から暗い影がさし始め、作者の強引とも言える悲劇的なドラマ作りに、見ている方は次第に違和感と抵抗感を覚えるようになる。
母と息子の恋人との対立関係を描いた作品は日本では数多くあるように思うが(欧米では少ない)、『ミモザ館』はいわばそのフランス版である。しかし、母と息子の関係を、この映画では本当の親子にしていないため(これは作者の意図的な設定だが)、母性愛が異性愛に変じていくような面が目立ってくる。とくに、母親代わりのルイーズが成人したピエールを溺愛するにつれて、異性愛的な感情が強まってくる。そして、これが一方的なものだけに、ルイーズがピエールとネリーの関係を引き裂くように仕向ける言動が、中年女のある種の愚かしさと醜さを帯び始める。
ピエールはネリーを熱愛しているが、ネリーはたいして愛していない。ネリーは、女の直感で、ルイーズの愛情が恋愛感情だとすぐに見抜くのである。このネリーという女は、『外人部隊』のフローランスと似たタイプだが、彼女より自立的で現代的なところがあったと思う。
ピエール役のポール・ベルナールもネリー役のリーズ・ドラマールもなかなかの好演で、とくにポール・ベルナールは、この時36歳なのに22歳の若者役だった。彼は、難しい上に損な役をたくみに演じていたと思う。というのも、この映画を見た観客はピエールというこの若者にまったく共感が持てず、反感さえ感じた人もいたはずだからだ。しかし、これは映画の作者がそういう人物に作り上げているからで、俳優の責任ではない。『外人部隊』の男主人公も同じ名前のピエールで、派手な女に貢いで、見放され、絶望するところは同じなのだが、このピエールには共感が持てるし、同情さえ覚える。が、『ミモザ館』のピエールは、もっとずっとダメな男で、同情する気にもなれない。彼は犯罪者の血を引き、質(たち)が悪く、嘘は平気でつくし、詐欺はするはで、かなり屈折した心を持っている。美男子なので女にもてるが、お坊ちゃんぽいところがあり、女ったらしではない。ボスの愛人ネリーに惚れて、意外なほど純情なのだ。養母だったルイーズに対しては甘ったれで、お世辞を言ったり、髪型や服装に助言までしているが、ルイーズから金をもらおうという下心がちらちら見えるようなところもある。この腐ったようなダメな男を、作者は最後まで救いようのないように描いている。『外人部隊』のピエールに注いだような作者の愛情の眼差しがまったく感じられないのだ。だから、こういうピエールを愛するルイーズも愚かで救いようのないように見えてしまうのだ。
同じフランソワーズ・ロゼーが演じた『外人部隊』のブランシュと『ミモザ館』のルイーズを比べてみると、見終わった時点で観客は、はたして前者に対するような共鳴と感動を、後者の方にも感じたかというと、疑問に思わざるをえない。ロゼーの演技の問題ではない。ロゼーは、タイプの違う人物を演じ分け、前者以上に後者を熱演している。これは脚本の問題、主要人物の設定とストーリーとドラマ作りの問題である。とくに後半の途中からラスト・シーンへ向かうまでの展開で、ルイーズへの共鳴は薄れていき(観客の一人である私の場合だが)、ラストは余韻のある感動ではなく、暗澹とした気分と後味の悪さが残る。『外人部隊』は素晴らしいラスト・シーンであったが、『ミモザ館』の最後、ネリーの名前を呼ぶピエールにルイーズが彼女の身代わりとなってキスをしてやり、部屋に吹き込む風に大枚の札束が舞うというラスト・シーンは、あざとさが目立ち、行き詰まったドラマを無理矢理終わらせただけではないかとさえ感じてしまう。個人的には『外人部隊』の方がずっと好きである。(了)
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