波佐見では、1600年半ばごろから、あいついで巨大な陶磁器の登り窯が建設され、大量に生産し、大量に流通させ、その伝統は現代の今日まで続いている。
先日、永尾地区の登り窯跡を見学したときに考えたことだが、ほぼ同時期に、大型のインフラ建設があり、人材、物資を集中的に投入し、成果を発揮すべく管理を進めるには、総合的な計画と指揮系統、そして大きな資本が必要だったであろう。資本としては、上方や江戸商人の出資があったという説があるそうだ。
この1600年代の半ばごろに、波佐見の三股(みつのまた)に皿山役所が設けられていることからも、大村藩の管理があったことは推測される。
藩当局の総合的な運営が可能だった背景には、巨大登り窯建設からさかのぼること30年ほど前まで国内外で起こっていた、戦国の内戦、朝鮮進攻、大阪の陣などの軍事行動が、事実上組織行動の演習となって、その敷衍のうえにこの巨大プロジェクトは遂行され、目的を果たして行ったのだと私は考える。
大村家主従は、1500年代のもっとも末ごろに起こった朝鮮進攻(文禄慶長の役)に、五島家主従と平戸家主従とともに小西行長の配下として出陣している。(※)
徳川期に入り1610年代の大阪の陣や1630年代の島原の乱に対し、大村藩がどういう軍事的立場だったかの知識が私にはないが、まだまだ「戦国の気風」の時代に波佐見焼の大量生産は企図され、遂行されたのである。
江戸期の武家行政は、その組織そのものが戦時には即座に軍団に変ることができる仕組みのうえで運営されていた。
波佐見焼が1600年代半ばから急速に発展した背景には、軍事で演習を積んだ指揮能力と管理能力のある将士が指揮の中枢を担っていたのではないかというのが、その日の永尾の史跡群見学の時の感想である。
(※余談)五島家の記録によれば、江戸期を通じて大村・平戸松浦・五島の各藩主は交流が続いた。日高の家に残っていた記録にて平戸公が五島に「鷹狩り」に訪れたという文書を読んだことがある。「鷹狩り」は軍事団体行動の模擬演習の意味合いもあったという。
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