
釣りとは魚がいて、いや、魚がいたとしても、魚が餌や餌だと認識したものを食べてくれないと成り立たないものである。
そこに潮の流れや、海面下のドラマ{例えば、大きな魚に追われ、小魚が私の竿先の前を逃げ通るなど}、それに私の想像を超えたものとして、運、不運などもあるだろう。
釣れない時には周りのゴミ拾いをして、魚を釣ろうとする釣り人までいるくらいだ。
もちろん、私もその一人、釣れない時はゴミを拾い、魚が釣れる運をも拾おうとする。
もちろん、魚が釣れた後も感謝の意の込めて、釣り場のゴミ拾いはして、グランドを去る野球児のように一礼を海にしてから帰るのである。
ここまで書いて、釣りをしない人にも分かってもらるだろうか。
釣りをすると言うことは童心に帰ることでもあり、帰れることもある。
だから、隣の人ばかり釣れて、自分が釣れない場合は悔しくてしょうがなくもなる。
あの手、この手を使ってでも釣りたくなり、最終的には魚が釣れるように祈っている次第である。
そんな私も最近は自分で言うもの何であるが腕をあげてきたと思う。
いつもそれなりの釣果を得て、帰宅できるようになった。
もちろん、秋の釣りシーズン到来、やっとアジが釣れ始めた季節と言うこともあるが、努力もそこにはあるだろう。
釣りに行ける金曜日が近づく度に、次はどのような仕掛けで行くか、コマセはどうするか、などなどの妄想は山ほどして準備をしているのである。
その結果として、隣の人が釣れてなく、私が釣り始めるとすぐに釣り上げてしまうことがある。
しかし、そこは童心を抑え、何事もなかったかのように、ヒットを打ち、平然としているイチローのように振舞うである。
そして、喜びを内心、思いっきりと噛みしめながら、次のアタリを待つのである。
それが楽しくてしょうがない。
それを思い出す度、今なお、私は笑顔になってしまう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます