まさアキの ないしょばなし

関東在住、定年過ぎ、おやじ、オリックスファンです。

野村克也さんのご冥福をお祈り致します。

2020年02月11日 17時47分17秒 | 日記
あたしは、昭和49年からパリーグのファンのだからね。
西本幸雄さん、野村克也さん、上田利治さんは、精神的支柱ですよ。
王や長嶋とか吉田義男とかあっちの人たち(セリーグ)とは違うんだよね。

めったに野球選手の本は買わない俺が、
月見草の唄―野村克也物語っての、初版の頃(昭和56年くらい)
持っていたくらいだからね。
当時、白の(白黒写真だからしろだと思うんだけど)
リンカーンコンチネンタルに乗って、たばこはケントを吸っていたはずだ。
サッチーと再婚してまだ数年の頃で、記者のインタビューに
(球団(南海)に聞かれたんだ、野球を取るかおんなをとるか。)
(おんなを取りますって言ってやった。)と書いてあって、
昭和52年暮れの南海ホークス退団のことが出ていた。
まだ、アキ、若かったけれど、野村さん、カッコイイなって思ったよ。

あまり、誰も書かないことを書くね。

野村選手をテレビで初めて見たのは、昭和52年のとある日曜日。
試合は近鉄対南海戦、NHK総合テレビの中継。
場所は藤井寺か日生球場のどちらかだがわからないな。
南海の先発は誰だったのかなあ。近鉄はローテの谷間で
大ベテランの坂東里視。
当時監督は3塁ボックスに立って、ブロックサインを出すのがお決まりで。
野村監督はあの顔でずっと立っていた。
ぼくは、プレイングマネージャーというのがよく分からなくて、
なぜ選手が監督なのか???と思いながら、家に教えてくれる人もなく
黙ってみていた。

野村選手は6番捕手、4番は誰だったかなあ。広島から移籍したホプキンスだったような気もするが、詳細は調べないと分からない。
3打席くらい見たが全部レフトフライ。たぶん本人の感覚は本塁打に近いものがあるのだろうが、でもスタンドまでもう少し、っていう、左翼手に正面で取られてしまうレフトフライだった。
あ~、晩年なんだなって。

だから、翌年、ロッテで現役を続けるとは思わなかった。

翌昭和53年。川崎球場に少々のコネがるのか、日本テレビが土曜日に一時間半だけ
(多くは、14時~15時20分ごろまで。15時24分にNNNスポットニュースが入る)
ロッテ戦を中継することがあった。
高校三年生だったアキは、学校から走って帰り、ロッテ近鉄戦を見ようと
カラーテレビのスイッチを入れたら、白いユニホームのロッテの選手が
サヨナラ勝利で騒いでいるシーンがいきなり映り、
どうも野村克也さんにサヨナラ安打を打たれたらしいことが分かった。

まだ力があるんだなって。
そう思ったよ。

むすっとした、選手だった。
たしか新潟県の長岡での、ロッテ対南海の試合で生涯通算650号を達成したように記憶しているが、
朝日新聞の記事には、
(上にすげえひと:王貞治さんのこと:がいるから評価が下がる)などとぼやいて見せていたのが
活字に乗っていた。

あー母校の図書館に行って、昔の縮刷版をひっくり返して、内容を確かめたくなってきたよ。

野村克也さん、長い間ありがとうございました。
おかげで、楽しかったです。
サッチーさんと天国で楽しく過ごしてくださいね。




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