イエスが私たちにそれを明らかにするために来られたので、私たちは神の愛を理解することができます。
エフェソの信徒への手紙 3:19-21 新共同訳
[19] 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 [20] わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 [21] 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
パウロはエペソ人への祈りを始めたときのように、理解を求めて祈りを終えています。 彼は神に、彼らが「人知を超えたキリストの愛を知る」ことができるよう助けを求めます(3:19)。 これは一見すると逆説的に思えます。 では、どうすれば知識を超えたものを知ることができるのでしょうか? 論理的に言えば、決して手に入れることを望めないものをなぜ求める必要があるのでしょうか? パウロが言っているのは、単に事実を思い出したり、記憶した情報を繰り返したりすることを含む種類の「知る」という意味ではないことを忘れないでください。 彼はキリストの愛を経験し、実践することから得られる知識について話しています。
この例を考えてみましょう。 私たちは子供たちを愛しているので、よくそう言います。 しかし、私たちが子供たちに愛の定義を尋ねると、彼らは(私たちのほとんどと同じように)言葉に詰まるでしょう。 愛はそれを定義する私たちの能力を超えています。 それでも、私たちの「愛している」という言葉を子供たちは信じてくれます。 なぜ? 彼らは言葉よりも深いところで真実を知っているからです。 彼らはそれを感じています。 私たちの愛についての彼らの知識は、私たちの中で、そして私たちを通してそれをどのように経験するかによって、さらに深まり、豊かになりました。
したがって、私たちは神の愛の知識が他の人たちを「神の満ち足りたもの」で満たしてくれるように祈らなければなりません(19節)。 神の良い知らせが生活の隅々に押し込まれ、あらゆる次元に変革をもたらしていることを想像してみてください。 それは、私たちが自分たちで立てる新年の抱負をはるかに超えるものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます