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キリストのうちに一つの体

2024-02-15 22:24:18 | 日記
キリストのうちに一つの体

しかし、枝のいくつかが折れ、あなたは野生のオリーブの新芽ではあるが、他の枝の中に接ぎ木され、今はオリーブの木の栄養を与える根を共有しているとしても、枝に対して傲慢になってはいけない。 もしそうであれば、根を支えているのはあなたではなく、根があなたを支えているということを忘れないでください。 – ロマ書 11:17-18

キリスト教は 2000 年以上前から存在しており、分割されていない教会として始まった教会は、時間の経過とともに多くの宗派に分かれてきました。 私たちは礼拝様式の違い、教会構造の違い、神学の違いによって分かれています。 こうした違いが分裂を生むべきでしょうか? 一緒に礼拝できるためには、私たちの信仰が均一である必要があるでしょうか? 教会がユダヤ人の組織として始まったとき、それはおそらく比較的均質なものでした。 会員たちはキリストに信仰を置きましたが、依然として律法とユダヤ人の習慣に従っていました。 しかし、ひとたび異邦人が教会に受け入れられると、同質性は終わりを迎えました。 多様性は簡単ではありませんでした。 パウロは、割礼と律法の遵守を主張することで異邦人の信者を自分たちの型にはめさせようとしているユダヤ人のクリスチャンを戒めなければなりませんでした。 異邦人の信者の数が増加するにつれて、彼はまた、その真っ只中のユダヤ人に対する態度が傲慢であるとして異邦人を戒めなければなりませんでした。 しかし、彼の解決策は、2つのグループを別々に礼拝させることではありませんでした。 パウロはローマ人への手紙 11 章でオリーブの木の比喩を使って教会を説明しました。 彼はローマのキリスト教徒に、異邦人もユダヤ人も同じオリーブの木の枝であることを思い出させました。 異邦人はユダヤ人を見下すのではなく、教会という木がユダヤ民族に対する旧約聖書の約束に根ざしていることを覚えておくべきでした。 そして、ユダヤ人は異邦人に追加の要求を課してはなりませんでした。異邦人はすでに木の枝として接ぎ木されていたからです。 彼は、彼らがキリストにあって一つの体に結ばれているので、違いにもかかわらず互いに仲良くやっていくことを学ぶことを期待していました。 以前は交わることさえなかったユダヤ人と異邦人が、クリスチャンになったら一緒に交わることができるとしたら、私たちには本当に分裂する正当な理由があるのでしょうか? プロテスタントであろうとカトリックであろうと、私たちはそれができますか? メソジスト、バプテスト、または無宗派。 お互いを神に完全に受け入れられた信者の仲間として受け入れますか? 私たちは、異なるイデオロギーによって分断されるのではなく、共通のルーツによって団結することができるでしょうか? キリストの体は一つしかありません。 私たちは皆、その一つの体の一員です。 あなたとは考え方が異なるクリスチャンとどのように関わっていますか?

‭‭ローマの信徒への手紙 11:1-36 新共同訳‬‬
[1] では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 [2] 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。 [3] 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 [4] しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 [5] 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 [6] もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 [7] では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 [8] 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、 聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」 と書いてあるとおりです。 [9] ダビデもまた言っています。 「彼らの食卓は、 自分たちの罠となり、網となるように。 つまずきとなり、罰となるように。 [10] 彼らの目はくらんで見えなくなるように。 彼らの背をいつも曲げておいてください。」 [11] では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 [12] 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。 [13] では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 [14] 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 [15] もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 [16] 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。 [17] しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 [18] 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 [19] すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 [20] そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。 [21] 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。 [22] だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 [23] 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 [24] もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。 [25] 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 [26] こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。 「救う方がシオンから来て、 ヤコブから不信心を遠ざける。 [27] これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、 彼らと結ぶわたしの契約である。」 [28] 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 [29] 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 [30] あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 [31] それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 [32] 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。 [33] ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 [34] 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。 だれが主の相談相手であっただろうか。 [35] だれがまず主に与えて、 その報いを受けるであろうか。」 [36] すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。


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