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私たちの限界が神の無限性をどのように思い出させるか

2023-12-04 18:35:12 | 日記






私たちの限界が神の無限性をどのように思い出させるか
自分はやりたいことは何でもできる、自分には無限ともいえる人生を送ることができるレベルの無敵があると信じている人がたくさんいます。この無限性が、幸せでエキサイティングな人生を歩むよう駆り立てる人もいれば、そうでなければ避けていたであろう罪を犯すように駆り立てる人もいます。

最善を尽くし、時には限界を超えようと努力するのは良いことですが、この無限性は幻想です。人間は目に見えるものも目に見えないものも含め、さまざまな制約の下で生きています。一方、神は同じ制限の下では存在しません。人が自分にできないことを思い知らされるとき、それは神がいかに人間と同じことに束縛されないのかを考える良い機会となります。

私たちの限界は何ですか?
人間の限界について考えるとき、明らかなことがいくつかあります。人間は、遺伝学、重力、法律、さらには他人によっても制限されます。制限によっては、人々が身体的、精神的、感情的、霊的に傷つくのを防ぐことができるので、良いこともあります。状況によっては、他の制限が存在する場合もあります。私たちにはコントロールできないことが存在するという事実は、誰もが限界を持っていることを証明しています。

人間に存在する最も重要な制限は、私たちは皆、罪を犯しており、罪のない人生を送ることができないということです。人はどんなに努力しても、悔い改めなしには神の御座に近づくことのできる聖なる生活を送ることはできません。この限界は聖書の中で何度も実証されました。パウロはこの真理をローマ人への手紙の中で要約しました。

「したがって、ちょうど一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、すべての人が罪を犯したために死が全人類に広がったのと同じように、律法が与えられる前から罪は確かに世界に存在していましたが、そこには罪は数えられないからです」法律ではありません。しかし、死はアダムからモーセに至るまで、来るべき者の型であるアダムの罪とは異なる罪を犯した人々の上にも支配しました。」(ローマ人への手紙 5:12-14)。

彼は、誰もが罪を犯すことを選択しているが、罪もまた人々を支配していることを強調しています。誰かが罪を犯すという選択をすると、その罪がその人を捕らえ、罪と戦う能力が肉によって制限されてしまいます。モーセやダビデのような旧約聖書の偉大な英雄でさえ、またエリヤやイザヤのような預言者でさえも、誰も罪を犯し、罪のゆえに死んだ人はいません。人間の限界を究極的に思い出させるのは死です。

神が無限であることをどうやって知ることができますか?
神の性質は人間の性質とは全く対照的です。彼は:

全知 – すべてを知っている
全能 - すべての力
遍在 - あらゆる場所に
神は人々が経験する時間の限界を超えて存在します。無からすべてを創造し、すべての生き物を裁く力を持っています。これらの特徴により、神は人々の限界を超えた存在となります。

神の無限性を示す最大の証拠の 1 つは、実際、神が神の栄光を少し注ぎ出し、人類の限界を引き受けることを選択したときにもたらされます。三位一体の神の二番目であるイエスが地上に来られたとき、イエスはご自身の自然な状態を脇に置いて、人類の自然な状態をとられました。彼は処女から生まれ、誕生から成人するまで人間としての生涯を全うしました。

アダムの系譜から生まれたすべての人間とは異なり、イエスは決して罪を犯しませんでした。

「あなたがこのために召されたのは、キリストもあなたのために苦しんだからです…彼は罪を犯しておらず、その口に偽りも見出されませんでした。彼はののしられても、ののしり返しませんでした。苦しみに遭っても、脅すことはせず、正しく裁いて下さる方に身を委ね続けたのです」(1ペテロ2:21-23)。

イエスは死ぬべき運命と肉体に対してへりくだりましたが、善を行う能力には限りがなく、神聖な精神を保たれました。



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