新年、明けましておめでとうございます。本年もよろ・・・
えーい、やめたやめた!(笑)こんなありきたりな挨拶、そもそも何がめでたいのかさっぱり分からんし とまあ、今回はかなり屈折したスタートですが(笑)
一応、毎年のことですが、初詣?とやらに付き合いで行ってきましたよ
ていうか、普段お参りなんかしないんだから(笑)どっちみち年に一回、正月が最初で最後なんだから、初もへったくれもない ただの「詣で」ですよ(笑)
そう、詣でにいってきたんです
でね、毎年ひとつの「矛盾」にぶちあたる
私、自分で言うのもなんですが、日頃、特に人の為になるようなこととか、人助けとか、ボランティアとか、特にしてるつもりないんですよ
特にいいことなんてなにもしてない
なのに、正月だけ、「神様、どうか幸せにしてください」なんて神頼みするのは虫がよすぎるんじゃないか、と毎年思うんです
だから、私は神様にお願いするのではなく、どちらかと言えば神様に懺悔します。
神様にこう言います
「神様、私は決して良い人間ではありません。自分中心で、いつも自分の幸せばかり願う人間です。なので、幸せにしてくださいなんて虫のよいことは言いません。
ただ、神様が私に与えた、私の道を精一杯頑張ってまっとうしますので、どうか見守ってください 神が与えた道をもし私が外れたら罰を 外れなければ応援を
どうか、宜しくお願いします」
えーっと、つまりなにがいいたいかというと・・
よく「向き不向きがある」なんていうじゃないですか それと「運が良い悪い」とも
最近私は、この二つを、こうリンクさせて考えます
まず、「運が良い悪い」
運が良かった時は、それは神様からのご褒美であって、運が悪かった時は、それは神様からの罰である
「向き不向き」は
向いている事というのは、神が与えてくれた「私の生きる道・使命」である
逆に向いてない事というのは、神が「貴方がやるべきことではない」と、私に与えた「禁じられた道」である
で、この二つをリンクするとこうなる
神が与えた私の進むべき道に精進していれば、神は応援してくれる 守ってくれる
つまり幸運が訪れ
逆に、神が与えた禁じられた道に進んでしまったら、神は罰を与え、間違いに気付かせる為に
不運が訪れる
えっと、私は別に宗教家ではないですし、偽善者でもない
別に、「向いてること」とは、「善行」とか「良い行い」のことを言ってるわけでもない
極端なことを言えば、たとえば「盗人」とかの「罪人」でも、「神が与えた進むべき道」であるならば、神は守ってくれるということだ
そう、問題はその行いの内容ではない
その人にとっての、真実の道であるかどうか
そう思う
だから、もしも私が気まぐれにボランティア活動や、募金活動なんかした日にゃ、一般的には「良い行い」かもしれないけど、もしも私にとっての進むべき道でなかった場合、その行い自体はたとえ「よい行い」だったとしても、罰は下るのだ
私にとって、向いてないことはすべきではない 向いていることをするんだ
でもね、またまた誤解してほしくないのは、べつに好き勝手に生きるということではなくて・・
「やりたいこと」と「やれること」が違うように、「向いてること」と「したいこと」は違う 皮肉なことに「最もやりたくないこと」が、「最も向いている」ということもある
恐らくごく少数だと思うけど、「やりたいこと・好きなこと」と「向いていること」がピッタリマッチしてる人は本当に幸運だ
「向いている」でも「本当はしたくない」でも「向いている」
おそらく、こういう人が圧倒的に多いと思う 神様はそんなに甘くは無い
さっきの際どい例をまたひっぱり出してくるけど、誰が好き好んで「盗人」なんかするか 誰も好きでやってるわけではない その人には「その道しかないから」、いた仕方なくやっているのだ
神が一人ひとりに与えた「向いていること」「出来ること」
神が一人ひとりに与えた「向いてない道」「出来ないこと」
なまじか、出来ないことのほうが魅力的だったたりするんだよね~(笑)
新しいことには常に副業としてチャレンジするけど、今だに懲りずにたまに罰をくらう俺(笑)
でも、チャレンジだけは止められない いつか、「向いている」と認められた時、罰は幸運に変わる いつかきっと
これまで自分なりに様々なことにチャレンジして、大なり小なりことごとく罰を受けてきた俺だけど
不思議なもんで、唯一、10年以上ずっと続けてる本業だけは、ずっと安定してる
どうやらこれだけは守ってくれてるらしい
でも、うまくいかないもんで、その本業はあまり好きではない(泣)
でもさ、どうやらそれが、神が与えた“とりあえずの”俺の道らしい
神様、私は「幸せにしてください」とは言いません ただ、「向いていること」をしますから
どうか、今年も見守ってください
えーい、やめたやめた!(笑)こんなありきたりな挨拶、そもそも何がめでたいのかさっぱり分からんし とまあ、今回はかなり屈折したスタートですが(笑)
一応、毎年のことですが、初詣?とやらに付き合いで行ってきましたよ
ていうか、普段お参りなんかしないんだから(笑)どっちみち年に一回、正月が最初で最後なんだから、初もへったくれもない ただの「詣で」ですよ(笑)
そう、詣でにいってきたんです
でね、毎年ひとつの「矛盾」にぶちあたる
私、自分で言うのもなんですが、日頃、特に人の為になるようなこととか、人助けとか、ボランティアとか、特にしてるつもりないんですよ
特にいいことなんてなにもしてない
なのに、正月だけ、「神様、どうか幸せにしてください」なんて神頼みするのは虫がよすぎるんじゃないか、と毎年思うんです
だから、私は神様にお願いするのではなく、どちらかと言えば神様に懺悔します。
神様にこう言います
「神様、私は決して良い人間ではありません。自分中心で、いつも自分の幸せばかり願う人間です。なので、幸せにしてくださいなんて虫のよいことは言いません。
ただ、神様が私に与えた、私の道を精一杯頑張ってまっとうしますので、どうか見守ってください 神が与えた道をもし私が外れたら罰を 外れなければ応援を
どうか、宜しくお願いします」
えーっと、つまりなにがいいたいかというと・・
よく「向き不向きがある」なんていうじゃないですか それと「運が良い悪い」とも
最近私は、この二つを、こうリンクさせて考えます
まず、「運が良い悪い」
運が良かった時は、それは神様からのご褒美であって、運が悪かった時は、それは神様からの罰である
「向き不向き」は
向いている事というのは、神が与えてくれた「私の生きる道・使命」である
逆に向いてない事というのは、神が「貴方がやるべきことではない」と、私に与えた「禁じられた道」である
で、この二つをリンクするとこうなる
神が与えた私の進むべき道に精進していれば、神は応援してくれる 守ってくれる
つまり幸運が訪れ
逆に、神が与えた禁じられた道に進んでしまったら、神は罰を与え、間違いに気付かせる為に
不運が訪れる
えっと、私は別に宗教家ではないですし、偽善者でもない
別に、「向いてること」とは、「善行」とか「良い行い」のことを言ってるわけでもない
極端なことを言えば、たとえば「盗人」とかの「罪人」でも、「神が与えた進むべき道」であるならば、神は守ってくれるということだ
そう、問題はその行いの内容ではない
その人にとっての、真実の道であるかどうか
そう思う
だから、もしも私が気まぐれにボランティア活動や、募金活動なんかした日にゃ、一般的には「良い行い」かもしれないけど、もしも私にとっての進むべき道でなかった場合、その行い自体はたとえ「よい行い」だったとしても、罰は下るのだ
私にとって、向いてないことはすべきではない 向いていることをするんだ
でもね、またまた誤解してほしくないのは、べつに好き勝手に生きるということではなくて・・
「やりたいこと」と「やれること」が違うように、「向いてること」と「したいこと」は違う 皮肉なことに「最もやりたくないこと」が、「最も向いている」ということもある
恐らくごく少数だと思うけど、「やりたいこと・好きなこと」と「向いていること」がピッタリマッチしてる人は本当に幸運だ
「向いている」でも「本当はしたくない」でも「向いている」
おそらく、こういう人が圧倒的に多いと思う 神様はそんなに甘くは無い
さっきの際どい例をまたひっぱり出してくるけど、誰が好き好んで「盗人」なんかするか 誰も好きでやってるわけではない その人には「その道しかないから」、いた仕方なくやっているのだ
神が一人ひとりに与えた「向いていること」「出来ること」
神が一人ひとりに与えた「向いてない道」「出来ないこと」
なまじか、出来ないことのほうが魅力的だったたりするんだよね~(笑)
新しいことには常に副業としてチャレンジするけど、今だに懲りずにたまに罰をくらう俺(笑)
でも、チャレンジだけは止められない いつか、「向いている」と認められた時、罰は幸運に変わる いつかきっと
これまで自分なりに様々なことにチャレンジして、大なり小なりことごとく罰を受けてきた俺だけど
不思議なもんで、唯一、10年以上ずっと続けてる本業だけは、ずっと安定してる
どうやらこれだけは守ってくれてるらしい
でも、うまくいかないもんで、その本業はあまり好きではない(泣)
でもさ、どうやらそれが、神が与えた“とりあえずの”俺の道らしい
神様、私は「幸せにしてください」とは言いません ただ、「向いていること」をしますから
どうか、今年も見守ってください