ぽたぽたと顔に水がかかる。坊様は何事とばかりに飛び起きた。掘っ立て小屋の中は外と変わら無いほどに雨漏りがしていた。坊様は苦笑しながら濡れた顔を手で拭った。
辺りを見回すと、おときばあさんの姿はなかった。雨の降る前の明け方にでも帰ったのだろう。蝋燭も大根の煮物の入った椀も無かったからだ。
網代笠をかぶり、引き戸を開ける。曇っていて薄暗い野っ原は、ざあっと雨の音がかまびすしい。雨の中を見透かすと、向こうに一本の大樹が見えた。
「ふむ、ここにいるよりは雨宿りが出来そうじゃな……」
坊様は錫杖を手にして足早に樹に向かう。樹の下に入ると雨を防ぐ事ができた。やれやれと根方に座り、今宵の試案をあれこれとしていた。
「もし……」
不意に声をかけられた。坊様は笠に縁に手をかけ、押し上げた。
この雨の中、傘も差さず、しかも雨に打たれた様子も無く、鎧を纏い、頭は垂髪にした娘が目の前に立っていた。整った顔立ちは高貴の出と知れた。
「……はて、そちらはどこの姫様じゃ?」妖しの気配を漂わす娘に、坊様は平然と問う。「して、拙僧に何か用かの?」
「妾はここの将が娘、艶姫じゃ」娘は坊様を見下ろして言う。「坊主、ここから立ち去りや!」
雷が鳴った。坊様は姫をじろりと睨みつけた。その顔に恐れは無い。
「立ち去れとは、何故じゃな?」
「お前が居ると、父の機嫌が悪うなる」姫は言う。平然としている坊様に、いらつき出したのか、目尻が吊り上げってくる。「毎夜毎夜下らぬ念仏を唱えおって、ほとほと嫌気がさしているのじゃ」
「左様で……」坊様は首にかけた数珠を左手でまさぐりながらにやりと笑う。「それは、拙僧の念仏が利いていると言う証し。それを聞いては、立ち去るわけにも止めるわけにも行きませぬなあ」
「退かぬと申すか!」
「そうなりましょうなあ」
「ならば、死してこの野を彷徨うが良いわ! 今宵がお前の最期となろうぞ!」
姫は言うと、すうっと雨に溶け込むように姿を消した。
「……やれやれ……」坊様は数珠から手を離し、ごしごしと顎鬚をしごきながら呟いた。「何とも恐ろしい悪霊じゃ…… あのような美しい顔立ちをしておると言うのにのう……」
坊様は立ち上がった。手にした錫杖を水平にし、鐶の付いた方を野原に向けると、目を閉じて念仏を唱え出した。それに合わせるように錫杖を左右にゆっくりと振り始めた。しばらくすると、鐶が震え出し、かちゃかちゃと音を立てた。
「……あそこか」
坊様は呟くと目を開け、錫杖が示した草むらへと歩を進めた。雨はやや小降りになっていた。踏み分けて進むと、地に両手で抱えられる程度の大きさの石があった。雨に濡れた石の表には「封」と彫り込まれ、雨水が溜まっていた。
「これがあの姫の父親を封印しているのだな。……どれ」
坊様は錫杖を脇に突き立て、両手を石にかけ、持ち上げようとした。しかし、石はびくともしない。
「やはり、わしなど足元にも及ばぬ法力者が昔に据えたとみえる」怪力自慢の坊様は苦笑する。「今宵が最期などとぬかしておったが、この石をどけるのは至難の業じゃぞ。はてさて、どこのどいつが除けるものやら……」
つづく
辺りを見回すと、おときばあさんの姿はなかった。雨の降る前の明け方にでも帰ったのだろう。蝋燭も大根の煮物の入った椀も無かったからだ。
網代笠をかぶり、引き戸を開ける。曇っていて薄暗い野っ原は、ざあっと雨の音がかまびすしい。雨の中を見透かすと、向こうに一本の大樹が見えた。
「ふむ、ここにいるよりは雨宿りが出来そうじゃな……」
坊様は錫杖を手にして足早に樹に向かう。樹の下に入ると雨を防ぐ事ができた。やれやれと根方に座り、今宵の試案をあれこれとしていた。
「もし……」
不意に声をかけられた。坊様は笠に縁に手をかけ、押し上げた。
この雨の中、傘も差さず、しかも雨に打たれた様子も無く、鎧を纏い、頭は垂髪にした娘が目の前に立っていた。整った顔立ちは高貴の出と知れた。
「……はて、そちらはどこの姫様じゃ?」妖しの気配を漂わす娘に、坊様は平然と問う。「して、拙僧に何か用かの?」
「妾はここの将が娘、艶姫じゃ」娘は坊様を見下ろして言う。「坊主、ここから立ち去りや!」
雷が鳴った。坊様は姫をじろりと睨みつけた。その顔に恐れは無い。
「立ち去れとは、何故じゃな?」
「お前が居ると、父の機嫌が悪うなる」姫は言う。平然としている坊様に、いらつき出したのか、目尻が吊り上げってくる。「毎夜毎夜下らぬ念仏を唱えおって、ほとほと嫌気がさしているのじゃ」
「左様で……」坊様は首にかけた数珠を左手でまさぐりながらにやりと笑う。「それは、拙僧の念仏が利いていると言う証し。それを聞いては、立ち去るわけにも止めるわけにも行きませぬなあ」
「退かぬと申すか!」
「そうなりましょうなあ」
「ならば、死してこの野を彷徨うが良いわ! 今宵がお前の最期となろうぞ!」
姫は言うと、すうっと雨に溶け込むように姿を消した。
「……やれやれ……」坊様は数珠から手を離し、ごしごしと顎鬚をしごきながら呟いた。「何とも恐ろしい悪霊じゃ…… あのような美しい顔立ちをしておると言うのにのう……」
坊様は立ち上がった。手にした錫杖を水平にし、鐶の付いた方を野原に向けると、目を閉じて念仏を唱え出した。それに合わせるように錫杖を左右にゆっくりと振り始めた。しばらくすると、鐶が震え出し、かちゃかちゃと音を立てた。
「……あそこか」
坊様は呟くと目を開け、錫杖が示した草むらへと歩を進めた。雨はやや小降りになっていた。踏み分けて進むと、地に両手で抱えられる程度の大きさの石があった。雨に濡れた石の表には「封」と彫り込まれ、雨水が溜まっていた。
「これがあの姫の父親を封印しているのだな。……どれ」
坊様は錫杖を脇に突き立て、両手を石にかけ、持ち上げようとした。しかし、石はびくともしない。
「やはり、わしなど足元にも及ばぬ法力者が昔に据えたとみえる」怪力自慢の坊様は苦笑する。「今宵が最期などとぬかしておったが、この石をどけるのは至難の業じゃぞ。はてさて、どこのどいつが除けるものやら……」
つづく
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