奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

井伊氏系図ー貫名氏(1)

2022-03-15 08:32:32 | 郷土史
井伊氏については中世後期の日親上人の口伝や近世大名系図などをもとに、藤原冬嗣の子良門の二男兵衛佐利世の子孫説や、日蓮の徒による三国氏説ほかがあります。しかし、鎌倉時代前後を含め、平安時代に遡る系図については疑わざるを得ないものがあることは、これまでも多くの人が指摘しています。そこで、なにが真実で、何が誤解なのかを考えて見たいと思います。
 静岡県史編者が康安元年(1361)か貞治元年(1362)のものとする「熊野山新宮造営料所」に、「貫名郷六十九石五升三合」、「井伊郷二十一石ニ斗一升二合」などが割り当てられましたが、これは、これらの地が国衙領であったからです。また、井伊氏は「井伊介」を名乗っています。これは朝廷によって叙任されたものではなく、国衙の「所」の「介」です。つまり井伊氏は鎌倉御家人以前は在庁官人でした。井伊氏と赤佐氏が親族関係であったことは種々の史料から確かめることができます。そして、建治元年1279)五月日、京都「六条八幡宮造営注文」に、その負担を割り当てられた遠江の武士の中に、「井伊介跡」・「赤佐左衛門跡」・「貫名左衛門入道跡」があって、割当高は、赤佐・貫名が同等五貫で、井伊介はそれより低い三貫の割当てとなっています。また官位の称も、当時の武家任官では、差異のない同等のものでありました。ここで「跡」というのは、海老名尚・福田豊彦両氏によれば、「寛元二年(1244)十二月の幕府追加法の<付父祖元跡知行>の意味」で、つまり「御家人役賦課方式の変換が十三世紀中葉に行われ、その時に開幕当初の始祖にまで遡って賦課」するような、「惣領制的な公事賦課方式」によるものです。また「御家人役は、原則として所領規模を基準として賦課」されていました。また、国衙(現磐田市見付)からの距離、地域の条件を合わせて考慮すると、赤佐・貫名氏が同等で、井伊氏はその下となります。すなわち、赤佐・井伊氏を考えると、系図の「赤佐太郎盛直」を祖として、その一男井伊良直、二男赤佐俊直は順序はどうあれ、それほど間違いではないでしょう。
 問題は「貫名氏」を同族とすることです。実は貫名氏と赤佐・井伊氏との関係は証明されていません。かれらを一族とした最も古い所伝は日蓮の徒によるものです。しかし、中尾尭氏もいうように、日蓮と貫名氏との関係は証明できないのです。氏は状況証拠を積み上げて「おそらく」日蓮は「貫名氏」であろうと推測しています。たとえ、それが正しいとしても、貫名氏が井伊氏と同族であるということにはなりません。貫名氏も在庁官人であったことは、後で述べるように、ほぼ間違いないでしょう。
 赤佐・井伊氏と貫名氏は一応切り離して考えたほうがよいでしょう。

 さて近世大名系図「井伊氏」の室町時代以前については、わたしの推測では日蓮の徒が室町時代中後期に作り上げたものをもとにしていると思います。ただ日親上人の口伝についていえば、おそらく臨済宗の僧竺雲等連が関わっていると想像されますが、確証がありません。そこでまず、史料が残る貫名一族を俎上にあげます。
 
【藤原行直】
 承元二年(一二〇八)から翌三年にかけて書写された、現在福井県小浜市中村区所有の「大般若波羅蜜多経」は、もともと遠州で書写されたものです。現在残っている巻は、全六百巻のうち九十三巻です。そのうち、大旦那「藤原行直」の奥書があるものが、承元二年から翌三年にかけて四十二巻、建暦二年(1212)に一巻、無年号のものが二十巻ありますが、檀那名を記さない建永二年(1207)のものも、おそらくこのとき書写されたものでしょう。そうすると、五年にわたる書写事業であり、筆師僧も数名請じ、上質な紙の使用数も相当なものでしょうから、書写に多大の費用を費やしたはずです。
 書写の場所として、遠江府中朝日寺、同薬師堂敷地(磐田市見付)・蓮華寺(周智郡森町)がありますが、蓮華寺は遠江一宮小国神社別当寺で、すべて国衙関連の施設です。
「藤原行直」も在庁官人で、資力のある人物でしょう。そのうち、五八〇巻に、「承元三年六月廿八日、於遠江国法多寺東谷書写了、□名三□□□覚□□□、依此写□□、亶那・筆師共往生之内臨終正念焉」とあります。法多寺は一山の名称で、現在袋井市にある法多山尊永寺が遺称地ですが、尊永寺は、もともと山内の一寺院でしたが、中世後期以来一山を支配するようになったのです。法多山は現袋井市に位置し、貫名の南の山です。
 小浜市に奉納されるまでに、失われた多くの経巻が、いろいろな場所で写されたもので補われていますが、承元年間のものは、もともとの主巻でした。こ こに、この経の檀那「藤原行直」が、名を連ねています。そして注目すべきは、この史料の最後に、「首尾・上欄や途中に<貫名郷気比宮>等の気比宮に関わる墨書がある」と追記されていることです。『磐田郡誌』によると、この気比宮は、現在広岡(現袋井市内)にあるが、もとは下貫名宮地にあったといいます。勧請年代は不詳で、社記によれば、往古越前国角鹿(敦賀)より遷座といい、宝永元年(1704)九月以降の棟札が数枚残っているともいいます。気比宮の勧請というのは、本拠越前や若狭周辺を除くと意外と珍しいもので、静岡県内では、この地のほかには寡聞にして知りません。勧請年に関しては、多分斯波氏が遠江守護に任命され、越前甲斐常治が守護代となり、斯波氏被官が多く襲来した戦国時代だと思います。
 では、それ以前はどこにあったかというと、おそらくこ神社の境内社の熊野神社でしょう。遠江国は平治元年(1159)熊野三山造営所となり、承久の乱後の仁治二年(1241)熊野新宮消失、安房・遠江国が造営料国に命じられています。院政期以来遠江国には熊野信仰が強くなり、各地に熊野神社が勧請されました。法多山も熊野修験が入山しました。
 ですから、たしかにこの神社が鎌倉時代にあったとは言えませんが、とくに貫名に近い「法多山」を書写の地とし、また、闕巻をあはり同様に法多山有力在庁と考えられる貫名氏の存在から、この貫名の地に、この経が最初に奉納された可能性は高いでしょう。康安元年(一三六一)八月十八日法多山住天台沙門顗海春秋都三七歳が書写した二九七巻を、補完しているのもそれゆえでしょう。
 そういうふうにみていくと、「藤原行直」は、宝賀寿男氏があげる「三国真人系図」や、藤原氏系の『続群書類従』第六輯下所載系図(「直行」とあるが「行直」であろう)や、「藤原氏井伊奥山系図幷諸親類之次第」系図(引佐郡奥山平田八江蔵)、中井家蔵の系図などでも、貫名氏二代「貫名四郎行直」が挙げられていますが、この人物のことだと思われます。その後、健治元(1275))「六条八幡宮造営注文」記載の「貫名左衛門入道跡」というのは、承元二年から七十年経っています。おそらく行直の子の代でしょう。行直は十三世紀前後に活躍した人です。行直を系図と同一人物とすれば、健治元年御家人役賦課の対象は、多分行直の子直家だと思います。そうしますと、いま近世大名系図が正しいと仮定すると、赤佐盛直の三男貫名四郎政直、その子行直と続いていますが、大雑把に推測すれば、政直は十二世紀後葉、盛直は十一世紀後葉から十二世紀前葉にかけて活躍した人となります。確実ではありませんが多分、井伊氏も貫名氏も在庁官人であり、「直」という通字からも同族としても良いと考えられます。
 ただ井伊氏元祖共資以降「共」を通字とする人たちは、「遠州太守」を官職としますが、これは事実と異なります。たとえ「介」だとしても、先に述べたように「所」の「介」ですので、やはり真実ではありません。よって辛うじて、盛直父惟直が残りますが、これらの系図は「井伊新大夫」とするので、「井伊」は外すべきで、そうすればおぼろげながら赤佐・貫名一族の祖の可能性が出てきますが、詳細は不明です。
 また貫名行直の子は直家と直友ですが、直友は仮名六郎で、貫名南隣の石野を領し、「石野」を名字とします。
【藤原定直】
 嘉禄三年(1227)二月二十五日、石野若宮王子に、懸仏一体を奉納した大施主「中務大丞藤原朝臣定直」は、年代的に石野氏だと考えられます。通字「直」からも矛盾しません。系図上石野氏の祖、貫名六郎直友が、十三世紀前後に生きた人だとすれば、「定直」が二世になるわけです。

 ここで重要なのは、日蓮は貞応元年(1222)生まれですので、その父が貫名氏であればまだ遠江国貫名郷にいて、姓は藤原氏であったはずです。そしてここには書いていませんが、鎌倉末まではこの地での足跡を諸史料からたどることができます。つまり、今考察した以外の事柄を日蓮の父の素性に付加している説は眉にツバをつけて聞かなければならないということです。

 補足しておくと、貫名氏は建治元年(1275)八月日「京都六条八幡宮造営注文」に名が見られます。その後、建武二年(1275)九月二十四日「石野弥六郎跡」を足利尊氏によって、富士浅間宮に寄進されています。おそらくこの地は、貫名氏から預かったものだと思います。この後、熊野御師道賢が「ぬきな一族」の先達檀那職を盛湛律師御房に売り渡しています。この後、康安元年(1361)か翌年に貫名郷・井伊郷ほかが足利義詮所領となり、応永六年(1399)九月十八日付で幕府は石野郷・貫名郷内平六名などを御料所としました。さらに、同三十年(1423)十月二十九日には同所を足利義満娘今御所に宛がわれています。貫名氏自身は応安七年(1374)六月二十九日付の今川了俊のものと思われる「沙弥某書下案」に、肥前国西嶋光浄寺領半済の他煩あるべからずという命令が「貫名民部丞」宛に出されています。これらが南北朝・室町時代までの貫名氏の動向です。