一)「竺雲等連略伝」
白石虎月氏は、「竺雲和尚傳」を引いて、「康応元年(1389)生、不詳其本貫」を書きますが、夢想派同門の『臥雲日件録』という日記を残した瑞渓周鳳が、「送竺雲連蔵主東帰幷序」いう偈頌を残していて、そこに「竺雲丈人、将帰遠江」(『臥雲藁』)とあり、明らかに遠江の人であるのは確かです。地名(生地などにちなむ名前)も「遠江(えんこう)」といいます。瑞渓の詩に「蔵主」とあるので、『静岡県史』は、永享七年(1435)八月十一日の相国寺出世以前のものとします。しかし、『東福寺誌』は「京兆萬壽寺竺雲等連」と「竺雲和尚傳」に題していますので、これが永享初年(1429) 頃ですが、これは五山出世の最初で、それ以前の応永末年(1428)に諸山摂津広厳寺に住しているので、これ以前の可能性があります。
また「文明二年正月七日寂壽八二」と書き、その下に【妙智院過去帳】と出典を載せているように見えます。しかし、実際に現在妙智院に伝わるものには文明三年正月七日、八十一才とあります。示寂の年とその寂年について、玉村竹二氏が後者の正しさを論証しています。だとすると、生年は、永徳三年(1383)になります。ここに俗姓は井伊氏と記載されています。
つまり、遠江出身というのが確かで、「妙智院過去帳」の記述が信じるに足るもので、それは自らが塔したのですから、当然なわけで、それゆえ俗姓「井伊氏」というのも否定できない事実でしょう。
竺雲和尚は、夢窓派の漢籍に通じていた大岳周崇に法を継ぎ、相国寺のほか、五山の上南禅寺住持などを勤めています。ただここで重要なことが三つあり、先の玉村氏の書を参考にすると、第一に後花園天皇の受衣師を勤め、また同天皇を開基として宝徳寺を開創したり、将軍足利義成(義政)の受衣師を勤めるなど、時の権力者と非常に親い関係にあったことです。ここには相国寺鹿苑院塔主となり、僧録司に任じられ、時の五山僧のうち非常に高い地位にあったことも含みます。
第二に天竜寺雲居庵や臨川寺三会院など、派祖夢窓礎石が開いた塔頭の塔主になっていることです。とくに、前者の荘園は遠江国村櫛荘でした。
最後に「連漢書」と称されるように、『前漢書』に初めて加点するなど、中国の典籍に通じ、とくに周易に詳しく、五山史書研究の基礎を築くなど。易・歴史に明るいことです。村櫛は井伊谷の南に当たり、陰陽五行では火気、井伊谷は北で水気、水克火は夏季に起こりやすい病気を克するという目出度い意味もあります。また相生説では金生水、金は西、すなわち京都を指します。つまり、京都下りの井伊氏が井伊谷に移ることで、病を治癒する仏教に言う薬師如来のような人物となるのです。当然長寿にもつながります。
また寛正四年(一四六三)八月八日、六代室町将軍足利義教の側室で、七代義勝・八代義政の母、高倉殿(日野重子)の葬儀の喪主(主喪とも、葬儀の責任者)を勤めています。
こうしたことから、「井伊氏系図」の冬嗣から赤佐太郎盛直及びその子井伊良直、二男赤佐俊直、三男貫名政直までが竺雲が語った系譜だと思います。日蓮貫名説は以前述べたように偽作の可能性が高いと思います。つまり、近世大名系図の原型は文明以前にできていたが、竺雲が井伊氏をこの氏の嫡流にするため、自分の知っている井伊谷近くの村櫛を居住地としたのです。彼は幼くして京に上り大岳に仕えたため、それほど詳しいことを知らなかったのです。
そこで、私たちが見る「井伊氏系図」は赤佐盛直より前を諸系図からの借用と伝承から作ったのです。その時、井伊氏祖は共資とされ、共保はまだなかった可能性があります。「共保出誕の井」という伝承は江戸時代のものを見る限り、それほど古い形を残しておらず、室町期を遡るとは思えません。ある程度信用のおける盛直以下は多少の脚色があったとしても、信用できる部分もおおいのではないでしょうか。但し、南北朝以降はまた別問題です。
【参考文献】
「<六条八幡宮造営注文>について」
海老名尚・福田豊彦 『国立歴史民俗博
物館研究調査』第45集 一九九二年
* 年未詳「送竺雲連蔵主東帰幷叙」(『臥雲
集』)
* 「妙智院過去帳」
* 『日蓮信仰の系譜と儀礼』中尾堯著 吉
川弘文館 平成十一年刊
『日蓮―その行動と思想』高木豊著 評
論社 一九七〇年刊
「中世仏教の展開<その三>」藤井孝
『日本仏教史中世編』 一九六七年
『われ日本の柱とならん 日蓮』佐藤弘
文著 ミネルヴァ書房 二〇〇三年刊
* 「旃陀羅考 日蓮上人はエタの子なりと
いう事」喜田貞吉著 『底本 賤民とは
何か』所収 河出書房新社 二〇〇八年
刊
* 「第二章 平安時代の磐田 第一節」鈴
木小英 『磐田市史 通史編上巻』所収
* 『東福寺誌』白石虎月編 思文閣出版
昭和五年初版・昭和五十年復刻
* 『五山禅僧伝記集成』玉村竹二著 講談
社 一九八三年
* 「京兆本法寺開山日親上人傳」『本化別
頭仏祖統紀』日潮著
* 「道賢等檀那職譲状」(潮崎りょう稜威
主文書)『静岡県史 資料編6』
* 「鎌倉公方足利基氏書状」(本間文書)
『県史 資6』
* 応永三年六月十五日「遠江守護今川貞世
書下」(本間文書)『県6』
* 嘉禄三年二月二十五日銘「懸仏銘」(東
京国立博物館所蔵) 『県6』
* 年未詳「西園寺実俊施行状」(熊野速玉
神社文書) 『県6』
* 『日本古代氏族系譜集成』上・下巻 宝
賀寿男編 古代氏族研究会刊 昭和六十
一年
* 「大般若波羅蜜多経奥書」(滋賀県柳瀬
在地講所蔵)『県 中世資料編補遺』
* 『福井県史通史編2 中世』「第一章武
家政権の成立と庄園・国衙領」「第四節
庄園国衙領の分布と諸勢力の配置」
* 角川ソフィア文庫版『保元物語』解説
日下力 平成二七
白石虎月氏は、「竺雲和尚傳」を引いて、「康応元年(1389)生、不詳其本貫」を書きますが、夢想派同門の『臥雲日件録』という日記を残した瑞渓周鳳が、「送竺雲連蔵主東帰幷序」いう偈頌を残していて、そこに「竺雲丈人、将帰遠江」(『臥雲藁』)とあり、明らかに遠江の人であるのは確かです。地名(生地などにちなむ名前)も「遠江(えんこう)」といいます。瑞渓の詩に「蔵主」とあるので、『静岡県史』は、永享七年(1435)八月十一日の相国寺出世以前のものとします。しかし、『東福寺誌』は「京兆萬壽寺竺雲等連」と「竺雲和尚傳」に題していますので、これが永享初年(1429) 頃ですが、これは五山出世の最初で、それ以前の応永末年(1428)に諸山摂津広厳寺に住しているので、これ以前の可能性があります。
また「文明二年正月七日寂壽八二」と書き、その下に【妙智院過去帳】と出典を載せているように見えます。しかし、実際に現在妙智院に伝わるものには文明三年正月七日、八十一才とあります。示寂の年とその寂年について、玉村竹二氏が後者の正しさを論証しています。だとすると、生年は、永徳三年(1383)になります。ここに俗姓は井伊氏と記載されています。
つまり、遠江出身というのが確かで、「妙智院過去帳」の記述が信じるに足るもので、それは自らが塔したのですから、当然なわけで、それゆえ俗姓「井伊氏」というのも否定できない事実でしょう。
竺雲和尚は、夢窓派の漢籍に通じていた大岳周崇に法を継ぎ、相国寺のほか、五山の上南禅寺住持などを勤めています。ただここで重要なことが三つあり、先の玉村氏の書を参考にすると、第一に後花園天皇の受衣師を勤め、また同天皇を開基として宝徳寺を開創したり、将軍足利義成(義政)の受衣師を勤めるなど、時の権力者と非常に親い関係にあったことです。ここには相国寺鹿苑院塔主となり、僧録司に任じられ、時の五山僧のうち非常に高い地位にあったことも含みます。
第二に天竜寺雲居庵や臨川寺三会院など、派祖夢窓礎石が開いた塔頭の塔主になっていることです。とくに、前者の荘園は遠江国村櫛荘でした。
最後に「連漢書」と称されるように、『前漢書』に初めて加点するなど、中国の典籍に通じ、とくに周易に詳しく、五山史書研究の基礎を築くなど。易・歴史に明るいことです。村櫛は井伊谷の南に当たり、陰陽五行では火気、井伊谷は北で水気、水克火は夏季に起こりやすい病気を克するという目出度い意味もあります。また相生説では金生水、金は西、すなわち京都を指します。つまり、京都下りの井伊氏が井伊谷に移ることで、病を治癒する仏教に言う薬師如来のような人物となるのです。当然長寿にもつながります。
また寛正四年(一四六三)八月八日、六代室町将軍足利義教の側室で、七代義勝・八代義政の母、高倉殿(日野重子)の葬儀の喪主(主喪とも、葬儀の責任者)を勤めています。
こうしたことから、「井伊氏系図」の冬嗣から赤佐太郎盛直及びその子井伊良直、二男赤佐俊直、三男貫名政直までが竺雲が語った系譜だと思います。日蓮貫名説は以前述べたように偽作の可能性が高いと思います。つまり、近世大名系図の原型は文明以前にできていたが、竺雲が井伊氏をこの氏の嫡流にするため、自分の知っている井伊谷近くの村櫛を居住地としたのです。彼は幼くして京に上り大岳に仕えたため、それほど詳しいことを知らなかったのです。
そこで、私たちが見る「井伊氏系図」は赤佐盛直より前を諸系図からの借用と伝承から作ったのです。その時、井伊氏祖は共資とされ、共保はまだなかった可能性があります。「共保出誕の井」という伝承は江戸時代のものを見る限り、それほど古い形を残しておらず、室町期を遡るとは思えません。ある程度信用のおける盛直以下は多少の脚色があったとしても、信用できる部分もおおいのではないでしょうか。但し、南北朝以降はまた別問題です。
【参考文献】
「<六条八幡宮造営注文>について」
海老名尚・福田豊彦 『国立歴史民俗博
物館研究調査』第45集 一九九二年
* 年未詳「送竺雲連蔵主東帰幷叙」(『臥雲
集』)
* 「妙智院過去帳」
* 『日蓮信仰の系譜と儀礼』中尾堯著 吉
川弘文館 平成十一年刊
『日蓮―その行動と思想』高木豊著 評
論社 一九七〇年刊
「中世仏教の展開<その三>」藤井孝
『日本仏教史中世編』 一九六七年
『われ日本の柱とならん 日蓮』佐藤弘
文著 ミネルヴァ書房 二〇〇三年刊
* 「旃陀羅考 日蓮上人はエタの子なりと
いう事」喜田貞吉著 『底本 賤民とは
何か』所収 河出書房新社 二〇〇八年
刊
* 「第二章 平安時代の磐田 第一節」鈴
木小英 『磐田市史 通史編上巻』所収
* 『東福寺誌』白石虎月編 思文閣出版
昭和五年初版・昭和五十年復刻
* 『五山禅僧伝記集成』玉村竹二著 講談
社 一九八三年
* 「京兆本法寺開山日親上人傳」『本化別
頭仏祖統紀』日潮著
* 「道賢等檀那職譲状」(潮崎りょう稜威
主文書)『静岡県史 資料編6』
* 「鎌倉公方足利基氏書状」(本間文書)
『県史 資6』
* 応永三年六月十五日「遠江守護今川貞世
書下」(本間文書)『県6』
* 嘉禄三年二月二十五日銘「懸仏銘」(東
京国立博物館所蔵) 『県6』
* 年未詳「西園寺実俊施行状」(熊野速玉
神社文書) 『県6』
* 『日本古代氏族系譜集成』上・下巻 宝
賀寿男編 古代氏族研究会刊 昭和六十
一年
* 「大般若波羅蜜多経奥書」(滋賀県柳瀬
在地講所蔵)『県 中世資料編補遺』
* 『福井県史通史編2 中世』「第一章武
家政権の成立と庄園・国衙領」「第四節
庄園国衙領の分布と諸勢力の配置」
* 角川ソフィア文庫版『保元物語』解説
日下力 平成二七