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井伊氏系図ー日親口伝(1)ー貫名氏(2)

2022-03-17 20:10:58 | 郷土史
最初に断っておかなければならないのは、わたしは仏教信者でも、まして日蓮宗・法華宗の信徒でもありません。目的は「井伊氏系図」の真偽を判断することです。

 さて次に日蓮の素性を語った早い例であり、同時に井伊氏系譜についての史料上の初見である、鍋かむり日親上人の口伝について考えていきます。そのあとで、日蓮の徒による系譜を追っていきます。
 久遠上院日親が述べた井伊氏系譜は、同じころに唱えられていた三国説とは明らかに違っていて、しかもかなり整ったものでした。本来なら貫名氏について述べればすむところを、多くを井伊氏に割いています。誰か井伊氏に詳しい人物に聞いたのでしょう。ヒントは口伝の中にあります。
 『新撰長禄寛正記』寛正四年(1463)八月八日条に、法門流布の禁を破り罪科に処せられたが、この日室町将軍足利義政母勝鬘院逝去により大赦にあいます。そして、管領細川勝元に感謝するためその屋敷を訪れた際、伊勢守貞親に宗門の起こりを尋ねられ答えたものです。
 簡単にまとめると、藤原閑院左大臣冬嗣の子良門二男兵衛助利世の子少納言共良の後胤だと述べています。その共良四代孫備中守共資、京より下向して遠州村櫛に住み、五代の孫赤佐太郎盛直の一男井伊良直、二男赤佐俊直、その弟が貫名政直であり、政直孫に重真、その子重忠と続きます。重忠の時伊勢平治与力して安房国長狭郡東条片海市河村に流され、そこで生まれたのが日蓮だと述べています。
ここで気が付くのは、井伊氏祖とされる共保がでてこないことです。それは次に述べるとして、貫名氏、あるいは石野氏は鎌倉時代を通じて在地に住み続けているので、安房国配流はなかったと思います。この「日親口伝」のこの部分は政直以前と以後に分けて考える必要があります。

 冬嗣六男良門の子が、比較的信頼のおける『尊卑分脈』に利基・高藤両名しか記載されていないのは有名な話です。それゆえ、その部分を偽作したという説が江戸時代からあります。まあそれはそれとして、最初に問題にしたいのは、何故「共資」は遠州村櫛に居住したかです。近世系図では、一条院御宇正暦年中(990~995)遠江守の除目を受けて遠州村越の郷に住んだ、とするものがあります。しかし、正暦二年から長徳元年(995)までは和名抄の著者で歌人の源順の弟子源為憲であり、それ以前も以後も国守についてはわからないところもありますが、共資が補任された形跡は見出せません。それと何故村櫛なのかが不明です。井伊氏の祖が国衙在庁官人であったことは確かでしょうから、まず国府(磐田市見付)に向かうでしょう。街道から行くにしても、船で行くにしても、村櫛は通り道ではありません。つまり、遠州の一部の地理走っていても、そのほか大略的に不案内な人物がこれを語ったか、あるいは何らかの意図があって語ったかのいずれかでしょう。
 井伊氏の祖が在庁官人であり、留守所の「介」という官職名を名乗るくらいですから、目代クラスの有勢在庁であったことは確かです。断っておくと、この「介」は除目によって任じられたものではなく、在庁官人の筆頭者、留守所の首位、すなわち「在国司職」といわれます。十一世紀末から十二世紀初頭以来知行国主制が進展し、知行国主が指定した受領国司(大介)ーここまで在京ーおよびその下に目代が位置します。そして、その目代が統轄する留守所が形成されます。峰岸純夫誌によると、留守所は前代からの国衙機関などの「所」の上に、国内郡司級の豪族の結集した「官人」と「所」の事務機構を分掌する専門家集団の地方官僚の「在庁」とに二分されています。井伊氏の「介」は知行国主または受領国司の補任によるもので、「官人」に分類されます。それゆえ、その祖先は在地の郡司級の人となります。ただ、この時代以前に律令制以来の郡司はほとんど、新興の土着した王臣家・受領郎党の子孫などに代わっていました。井伊氏もそうした人たちの子孫で、その後の在り方からみると、受領郎党のうち、武芸を職とした一族でしょう。おそらく、国衙権力と武力を背景に国衙領に進出し、郡司・郷司・保司などの所職を手に入れたのでしょう。最初、天竜川が遠州の平野部に広がる喉元を押さえ、渡船の権利を対岸の野辺介の祖先と分かったのです。野辺介は遠江権守藤原南家為房の子孫といわれます。(尊卑分脈)その後、赤佐氏を名乗り、その子の一人が井伊郷に住み「井伊」を苗字としたのです。そこで力を付け、知行国制の開始で郡司層の復権が果たされ、留守所「官人」となったのです。
 こう見てくると、井伊郷への進出は国衙あるいは館のあった磐田市見付辺か麁玉郡赤佐郷からであり、村櫛ではありません。
 また、井伊氏の祖といわれる「共保」が登場しないのも気になります。多分この口伝が語られたころ、彼が八幡宮御手洗の井から出現したという話はできていなかったのでしょう。しかし日親口伝はそれ以前に語られた史料がなく、同時代以後に書かれた系譜とも違い、かなり整備されたものです。その正否はどうあれ、井伊氏をよく知る人でなければ、語られない内容を含んでいます。つまり、この突然ともいえる系譜は誰かに聞いた可能性が高いと思います。それが竺雲等連ではないかと推測されるのです。
先に日親略伝を掲げ、この僧が井伊氏と無関係の人生を生きたことを述べておきます。
【久遠成院日親略伝】
 「鍋かむり」として有名な日親上人は、応永十四年(一四〇七)上総国武射郡埴谷村の生まれ。父は埴谷左近将監平重継法名日継、埴谷氏開基で、日蓮の初期の檀那であった富木常忍(日常)開山の中山法華経寺僧で、父重継弟の日英開山の妙宣寺に入り、日英上人に師事した。兄もこの寺に入り、貫主になっています。師の遷化により、第五代本妙寺貫主日暹上人に従い十四歳薙染。応永三十二年(一四二五)十九歳のとき、西海総導師職となり、日英の師本妙院三世法宣院日祐が開いた肥前国松尾山光勝寺に掛錫、これを中興した。翌年中山日裕廟に詣で、成身弘法の大願を立て、応永三十四年(一四二七)正月上京。永享十一年(一四三九)立正治国論を献じ、将軍足利義教を諫めた。当時この行為には禁令が発せられていたので、捕縛され獄に下された。
 日親の思想は、法華信者以外の布施を受けず、また法華信者以外には供養を施さない、という「不受布施義」を掲げたため、信仰にとくに厳格で、拷問を受けても信念を曲げなかった。そのため焼鍋を頭からかぶせられたりした。「鍋かむり」とはこのエピソードによっている。同獄の本阿弥清信と現当二世の道契を結ぶ。その本阿弥清信が開基となり、日親開山の京都叡昌山本法寺において、長享二年(一四八八)九月十七日遷化、八十二歳。

 日親が日蓮の初期の檀越である富木常忍(日常)開山の中山法華経寺の僧であったことは大事なことです。同時代の中山法華経寺本成房日実が『当家宗旨名目』において、聖武天皇の末裔が三国姓を名乗り、河内守道行と号して遠州へ下り、その末葉貫名五郎重実のとき所領相論がもとで合戦に及び一族は滅亡した。この罪によって重実二男仲三が安房国東条片海に配せられ、彼の子が日蓮とし、「此事系図御書に見たり」(『日蓮聖人系図御書』偽書とされている)と述べています。これが貫名説の初見です。三国氏説そのものは、日蓮が末後近くに話した自らの素性を、日興が聞き書き留めたと言われる『産湯相承事』(真偽未定)が文献上の初見です。父を三国氏あるいは三国大夫、母を畠山一門とし、これが日蓮家系を初めてのべたものです。
 すなわち、日親は既に日蓮の俗姓が三国氏であるとされていることは十分承知していて、にもかかわらず、藤原氏説を日実のように曖昧ではなく、整然と述べているのです。しかも、これが赤佐・井伊・「貫名」(のちにこう呼ばれるが、日親自身は語っていない)三氏の親族関係を掲げた最初です。しかもかなり具体的で、知っていて、遠州の地理、とくに村櫛や井伊郷の位置を知っているものの関与が疑われるのです。それが竺雲等連だと推測されるのです。

                                                    続く