奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅰ>

2022-05-09 19:44:37 | 郷土史
イ)「井伊八幡宮と八幡宮寺」
 八幡宮について語ることは、むしろ八幡宮寺について語ることと同義だと思っていてください。
 「阿弥陀如来伝記」(東光寺所伝・『遠州渋川古跡事』所引)です。これによると、東光寺阿弥陀如来は、平安時代中期藤原共資代に、細江湖中で夜光を放っていたのを拾い上げられ、井伊八幡宮社中に安置されました。応永年中(1394~1428)井伊匠作、藤原直秀霊夢を感じ、一宇を建ててこの地に勧請したというものです。また渋川八幡宮の棟札に、「応永三十一年(1424)霜月十三日 奉修造八幡宮 本地阿弥陀如来 藤原直貞法井道賢」があり、同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、また応永三十二乙巳年年記銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」とあることから、先の伝承は部分的には正しいと言えるでしょう。すなわち、応永年中井伊直秀が、井伊谷の八幡宮を渋川に勧請したというくだりです。したがって、井伊八幡宮は少なくとも、応永以前には存在し、本地を阿弥陀如来としていたことは、疑いようがないでしょう。
 ではつぎに、その開創がどのくらいまで遡れるのか見ていきます。

「井伊郷八幡宮開創」
 「八幡宮」(実際には八幡宮寺)そのものの勧請は、遠州地方では奈良時代の天平年間(729~759)に、聖武天皇曾孫といわれる遠江国司桜井王が勧請したという「府八幡宮」(磐田市中泉)がありますが、これは三河国府鎮座の八幡宮(豊川市)と同じく、その創建年代はともかく「八幡神は本来韓神で、穀霊として北九州の宇佐八幡宮に斎られていた神を国分寺の守護神として国分寺に付随してきた神である。府八幡宮というのは国府の八幡社のことであり、国分寺の西側の八幡山の中にある」という指摘のとおりとすれば、ここでは対象外としてもよいでしょう。ただ宇佐八幡宮の神は八幡大菩薩ともいわれ、早くから神仏習合が進んでいて、通常日本の神々は姿が見えないのですが、この神に関しては、日本の神像現存最古といわれる、平安時代前期の奈良薬師寺休岡八幡社の僧形八幡像など遺品があります。しかしこうした神像は、国家的な祭祀の一環として製作されたものでしょう。他方府八幡宮の神像は、「平安時代後期」(藤原時代、石田茂作による鑑定)か、「平安時代よりもやや後の時代の作」(岡直巳鑑定)といわれています。このことは、ちょうど平安時代の末から鎌倉時代の前期ころということでしょうから、国家的祭祀というより、むしろこのころこの地方で、八幡神に対する武士や富裕層、あるいは庶民による八幡信仰の浸透があったのでしょう。
 遠州・三河の八幡宮は、戦国時代や江戸時代にもひとつの信仰ブームがありますが、それを除くと、伝承としての勧請元は、宇佐八幡宮や京都石清水八幡護国寺(石清水八幡宮)か、鎌倉鶴岡八幡宮の勧請に限られています。
 今石清水八幡宮を招いたとする早い例としては、もと式内「己等乃麻知」社(掛川市日坂)があります。大同二年(802)北の山から現在地に遷座したというこの社は、康平五年(1062)源頼義が、京都石清水八幡宮を勧請したといいます。康平年間(1058~1065)は、前九年の役の戦勝を石清水に祈願した源頼義が勝利ののち、河内国壷井八幡宮や同じ理由で鎌倉鶴岡に若宮として、石清水八幡宮の神を勧請した年です。したがって素直に信じることはできないのですが、平安後期以来の八幡信仰によったものだと思われ、おそらく平安時代末期ころまでには日坂八幡宮と呼ばれたのではないかと思います。というのも、約十キロ南の横地(現菊川市)に、居館を構えた横地氏三代目太郎長宗は、その先源頼義の子八幡太郎義家の庶子とされ、保元の乱(1156)で源義朝の従者として、後白河方につき功があった。つまりこのとき、戦勝を祈願し、あるいは功成って東海道沿いに、石清水を勧請したと考えることもきます。ただ信頼できる資料はありません。
 三河と静岡県の八幡宮のうち、古代・中世前期に創建伝承をもつものをによると、宇佐八幡宮勧請伝承の八幡は、国府関連か、あるいは前身に、式内社伝承を持つものが多いことがわかります。しかし、古い伝承を伝える宇佐神宮勧請を除けば、圧倒的に鶴岡八幡宮の勧請が多いということ、そしてそのほとんどが鎌倉時代初期ということです。これはもちろん、源頼朝による幕府の成立により、御家人として組織されたこの地方の武士たちが、源家の武神というより、鎌倉府の鎮守である鶴岡八幡宮を、自らの所領に迎えたからです。そこで井伊郷の八幡宮も、おそらく鎌倉時代に御家人となった「井伊介」が鶴岡から勧請した概念性が高いと思われます。問題は、この八幡宮本地阿弥陀如来が現出したのが、細江沖、つまり浜名湖であると伝承されていることです。決して八幡宮「御手洗の井」ではないことです。いわばこの仏は光ながら湖を漂っていた、漂流する神であったわけです。湧出してはいません。
 井伊谷八幡宮は現龍潭寺の地にあったといいます。これが事実なら、この地は井伊谷の南の入口・出口にあたります。つまり境界神でもあったわけです。さらに井伊谷の根本神であるタチス峰が艮(うしとら)の守護神であるとすれば、ちょうど坤(ひつじさる)の方角、裏鬼門です。京都の鬼門守護が比叡山延暦寺、裏鬼門守護は石清水八幡宮と言われるように、つまり、この八幡宮は井伊谷の裏鬼門の守護としても祀られたのです。だとすると、応永以前に、井伊八幡宮は、京都石清水八幡宮かを勧請した可能性もあります。わたしとしては、井伊氏は早くから鎌倉御家人であったので、鎌倉時代に、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したのだと思うのですが。
 上横手雅敬氏によれば、鶴岡八幡宮は、八幡宮そのものが八幡宮寺といわれるように、神仏習合色の強い神社で、鎮護国家の寺院としての方が重要な位置を占めていました。神社の成員については、別当がトップに位置し、その下に供僧、巫女、職掌が続き、このうち祠官(神官)には御子(巫女)と職掌があり、その地位は別当・供僧より低く、とくに職掌と呼ばれる男性神職は、巫女よりも下位に位置づけられていました。これは別当・供僧という僧侶が御幣を振ったり、供物を下げたりするのが不適当であるため、置かれていたにすぎません。これは神社の規模などによって多少の違いはあるでしょうが、概ね仏教優位の情勢は変わりません。
 今、井伊谷に「神宮寺」地名が残っていますが、中世以来のもので、ここから神宮寺のひとつに、多くは別当寺が置かれ、他社の例では概ね神社境内にあり、神前読経や加持祈祷、神社の経営管理を職務としていて、その下にそのほかの社僧寺が存在し、さらに下位に宮司などがいたという中世社寺の構造を見て取ることができるでしょう。つまり中世寺社の通例からは、鶴岡八幡宮の勧請であれ、そうでないにしても、「八幡宮」の運営主体は、境内の神宮寺(別当寺ほか)にあり、神官がその下で、僧侶の行うのが不適切と考えられた神にまつわる祭祀を司っていました。
 さて八幡神の本地が阿弥陀如来であることは、良く知られたことです。井伊谷の八幡宮も例外ではなかったでしょう。当初の別当寺は不明ですが、南北朝時代に勝楽寺(正楽寺)は既にあり、「勝楽」とは至福を意味する密教の語ですので、この時代も、真言密教の寺院であったことがわかります。江戸時代に、この寺は八幡宮別当を主張します。大日堂は戦国時代に建てられているので、もともと大日如来を本尊としたかどうかは明らかではありません。ただ大日如来は宇宙の中心で、すべての仏はその応化であるので、阿弥陀仏が密教寺院の本尊であってもおかしくはありません。この時代井伊郷では、密教系の修験寺院が主流であったことは既に述べました。ともかく、初期の別当寺および社僧寺は、真言密教あるいは密教系の修験寺院でした。大永六年(1526)八月に、井伊八幡宮梵鐘を鋳造するために勧進した沙門善海も、真言密教系の聖であろうと思われます。このあと書くように龍潭寺(龍泰寺)開山黙宗和尚は、この前年、井伊郷に帰郷してきますが、まだ方広寺派の僧でした。したがってこのとき存在していた龍泰寺は、密教寺院か、同系の修験寺院、または方広寺派の禅寺であったろうと考えられます。おそらく直平・直盛の帰依などという伝承から、黙宗帰郷以前から後者であった可能性が高いと思います。

井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後

2022-05-09 07:43:54 | 郷土史
至徳元年(一三八四)奥山六郎次郎朝藤が奥山に方広寺を開創し、無文元選を招請して開山始祖とします。
 無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇第六皇子で、母は昭慶門院と伝えますが正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二氏によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然盛んであったのですが、当時中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法嗣、了庵清欲の参徒でもありました。了庵清欲は日本に来ていませんが、来朝し足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、また南禅寺・建長寺などに歴住した竺仙梵僊とともに、古林門下の二大甘露門と言われていました。古林清茂は偈頌主義を唱えた文芸運動の創始者で、古林の別号金剛幢から、その会下を金剛幢下と呼びます。ここに参じた日本の禅僧はいろいろな宗派に属していましたが、文学活動についてのみ団結する集団を形成しました。初期の五山文学を形作ったのも彼らでした。金剛幢下であることは、日本では一種の結社の結成に至ったようです・たとえば、康応元年(1389)八月二〇日、方広寺において十三回忌が修された前建長広円明鑑禅師(大拙祖能)は、中峰明本法嗣千岩元長から法を嗣いだ幻住派の人です。たしかに無文禅師は、千岩元長に参じているので、その縁も考えられますが、了庵清欲に参じた金剛幢下の仲間であったことからも執行されたものでしょう。というのも「師以有旧盟」とあるからで、旧盟とは金剛幢下のことでしょう。無論、大拙祖能は無文が両親のもとを去って、京都建仁寺に入った時の最初の師であったからだということは、いうまでもありません。また応安六年(1373)無文元選の画像賛を作った古剣智訥は、その師孤峰覚明が、古林清茂に学んだ金剛幢下の人という縁が関係しているのでしょう。当然、師弟共々南朝専一であったことも、無関係でないことは言うまでもないでしょう。また元・明の禅は、禅浄兼修でしたので、当然その感化は受けたと思います。たとえば無文禅師の参じた中峰明本には、『観念阿弥陀仏偈』などがあり禅浄一致を説き、同時に隠遁的生活を修行の核においている僧であったので、無文禅師晩年の奥山への来住はこの僧の影響であったかもしれません。無文禅師は渡元の前に、博多聖福寺無隠元晦のもとに参じています。また雲州の人で京都大徳寺徹翁義享の俗弟で、禅師と同船で帰国した義南菩薩と鎌倉万寿寺にいた中巌円月とともに鎌倉を訪ね、円覚・建長寺に歴住した古先印元三者で、足利直義を訪れましたが、この無隠・義南・古先ともに中峰から嗣法しています。中国の教禅一致、禅浄一致の教養と仏教を引く、当時日本では盛んであった破庵派の禅と、主流であった金剛幢の文芸、これらを修めた無文禅師の名声は高く、雲水が群参したと伝えます。京都妙心寺日峰宗舜(1368~1448)なども参徒の一人でした。ただ三河国『八名郡誌』によれば、この日峰宗舜は本坂道筋三河遠江境にある中峰明本法嗣日顔禅師が開いた正宗寺僧の可能性を記しています。禅師の化によって井伊郷およびその周辺の密教寺院や、禅密兼修の寺院の多くは、方広寺派へ変わったと思います。さらに、方広寺四派鼎立後は、一層の教線拡大が行われました。康応二年(1390)閏三月二十二日、本山寝室において示寂、六十八歳、法臘四十九年。京都岩蔵(右京区)に帰休庵、美濃にも帰休庵(武儀郡)、同国了義寺(現岐阜市)、三河広沢庵(額田郡)、宝泰寺(現静岡市)を開きました。嗣法の弟子に四哲といわれる僧が出て、それぞれ方広寺内に塔頭を創ります。臥雲院開基空谷建幢、三生院開基在徳建頴、蔵龍院開基仲翁建澄、東隠院開基悦翁建誾で、それぞれ方広寺住持に任命されました。
 
 龍泰寺の開創は、無文禅師の弟子たちによるものかどうかはまだわかりません。ただ井伊谷円通寺などは、無文禅師が仏事を修したころには方広寺末になっていましたが、その後黙宗瑞淵により、妙心寺派龍泰寺末に変わりました。