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井伊氏系図ー築山殿=直平孫娘説

2022-05-21 22:56:22 | 郷土史

「築山御前は井伊直平の外孫か」

 これについては黒田直樹氏が『井伊直虎の真実』で築山殿が直平娘の可能性がほとんどないことを証明していますが、いま異なる視点からこれを考えていきます。
(ⅰ)『井伊年譜』の説
『井伊年譜』を引いた煎本増夫著『幕藩体制成立史』の「家康と井伊氏は、築山殿を介在として姻戚関係」であったので、「この事情に通じていた家康有力家臣が、直政の抜擢を不満としなかった」とし、小和田氏もまた「おそらく、煎本氏の推論の通りであろう」と述べています。煎本増夫氏の論文に記載された『井伊年譜』とは、彦根藩士功刀君章が六代藩主井伊直惟の命により、それまで彦根藩で書かれた、井伊家の歴史を描いた諸書をまとめたものです。したがって、作成のための原資料は別にあったわけです。成立は享保十五年(一七三〇)で、奇しくも井伊谷で祖山和尚が『井伊家伝記』を表した年に当たります。『井伊年譜』には、井伊氏第十三世信濃守直平に六人の子があり、嫡男第十四世直宗といい、その妹が今問題になっている女性です。そしてその弟が龍潭寺三世南渓和尚、以下直満・直義・直元と兄弟が続きます。直宗の子が十五世直盛であり、その娘が次郎法師です。また直満の子が十六世直親であり、その子に直政が出ます。直平娘、直宗妹には、「初爲今川義元側室後義元爲妹嫁関口刑部少輔源親永生一女乃義元爲媒嫁神祖者筑山御前是也」と付記されています。煎本氏はこれを引いたわけです。いまこの説を引く多くの論文が戦国時代の人質説を根拠にこれを是としますが、はたして史料を提示しえないこうした説が流布している現実はどうなのかと、歴史好きの素人からみても「?」を付けざるを得ません。
 
「『井家新譜』と「旧譜」」

 彦根藩で最初に直平娘が「築山殿母」としたのは、松居親久・沢村琴所編纂の『井家新譜』が最初であろうと考えられます。彦根井伊家の諸系図を通覧した野田浩子氏によれば、「序文および凡例によると、本書の編纂意図として、松居は世に散在する野史卑説の中に俗説が多いことを憂い、井伊氏系譜および元祖以来の事績を記すに至った」とし、「書名は岡本宣就の『井伊氏族系図伝記』(通称「喜庵稿」)を<旧譜>とみなし、それに対する新たな系譜という意味で、<井家新譜>とした」と述べています。「喜庵稿」との最も大きな相違点は、「戦国時代の人物関係」で、龍潭寺祖山和尚から『井伊家伝記』の元になる話を、前もって聞き、そこから直平子を四名追加して、その中の長男直宗の妹に「女(築山殿母)」を加えたのです。もしかしたら、参考文献に挙げられた水戸藩「鈴木家譜」の中に秘密なこととして、直政が家康の子という記事があり、さすがに「家康の子」は問題があり、直平の娘を関係者に仕立てたのかも知れません。また有力な傍証として、井伊家家臣の関口氏の聞き取りによった可能性が指摘できるでしょう。しかし、この人物は直系ではないと思います。関口刑部少輔親永(義広・氏広とも)の直系は紀州徳川家の家臣のほうだと考えられます。 こういう人のやっかみからくる噂は、いつの時代にもあり、たとえば五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保も、綱吉の子とする書もありました。
 ただこうした説が出てくる理由の一つに『井伊家伝記』自体の信頼性が非常に低いことも挙げられるでしょう。たとえば井伊直平の後年の事蹟はほとんど曳馬城主飯尾氏の事蹟の剽窃であり、したがって毒を飲まされたことによる落馬での死などはとうてい真実とは思えません。おそらく、既に亡者となっていたがゆえに何にでもなれたのです。

「『井伊家伝記』で加えられた人々」

 そもそも『井伊家伝記』における直平の子に関する記述にも問題があります。 祖山和尚自身が「天正十八年(1590)以後の事は相違無之」と、家康関東移封後箕輪十二万石拝領後は、自信を持っていると述べているのに対し、それ以前は系図・諸書・軍記を資料としたが、諸説あってあまり自信がない、というようなニュアンスのことを記しているので、ここで取り上げるのはどうかと思いましたが、大事なことなので書いておきます。
 まず「井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の事」という項に、天文十年(1541)頃から武田信玄の指図でその家人が東北遠江井伊領を押領というのは、ご存知のように間
違いで、この時期信玄がこうした行動に出るはずはありません。天文六年ころには確かに井伊氏を含む遠江の武士たちが、今川氏に背を向け後北条氏と組んだため国内は緊張状態にありましたが、同九年には落ち着き、今川義元は遠江経営に本腰を入れてきます。同十二年には三河に出兵しますが、ともかく今川氏にとって、このころの懸念は駿河の富士川以東を巡る後北条氏との争いで、引馬城主飯尾豊前も天文十三年には蒲原城に城番として出張しています。
 直満・直義両名が殺された天文十三年十二月には連歌師宗長の弟子宗牧が遠江・駿河を訪れています。同年十二月十三日に井伊彦三郎の迎えで井伊谷に入り、のちに直満・直義を讒言したという小野和泉守の屋敷に落ち着き、井伊次郎直盛の請を受け、翌十四日歌会を開き、終わると、直盛ほかに見送られて曳馬に急ぎます。ところが、引馬城主飯尾豊前が駿・豆再乱(第二次河東一乱)のため蒲原在城と知り、駿府へ向かいます。同二十一日歌会を興行しています。今川義元が二十四日以降は年越し・新年の準備のため忙しいのでこの日を指定したのでしょう。 こうした記述からは、諸国のさまざまな話が飛び込んできて、歌の指南のほかに、その事情通ぶりから、大小の領主たちが、その情報を欲しがった思われる宗牧周辺には、彼と親しい井伊氏の兄弟二人が、もし駿河で殺されたとしたら、その情報はどこからか入ったはずですが、日記には記されてはいません。直満・直義が駿河に呼び出された日は、まさに宗牧が駿河に向かう道中および滞在中でした。そんな事件が本当にあったのでしょうか。おそらくなかったと思います。そこで、井伊家伝記』の中の直満・直義及び直元を見ていくことにします。
 同書によれば、彼ら三人の生きた証は、ひとつには、永禄八年(1565)南渓和尚侍者御中宛「次郎法師寄進状」があります。それには、「隠龍軒は道哲の爲祠堂屋敷一間瓜作田一反、安渓、即休両人爲祠堂瓜作田弐反」、「円通寺二宮屋敷、南は道哲卵塔」であり、「南渓過去帳」の法名に載る「安渓」・「道哲」・「即休」と記載されています。そして、祖山和尚はそれぞれ直満(次男)・直元(五男)・直義 (四男)と書いています。「三男」がいないのは、これが南渓和尚だからです。
 ところで、「南渓過去帳」と『井伊家伝記』の戒名が多少違います。たとえば、直満は前者では「安渓岱公禅定門」ですが、後者では「円心院殿安渓寿岱大居士」となっています。後者は江戸時代の正徳四年(一七一四)、井伊直政父直親百五十年忌に、彦根藩主井伊直該造立の位牌の戒名であろうと思われます。 もうひとつの証拠とされる「南渓過去帳」では、確かに「直宗・直満・直義・直元」の法名が記されています。『井伊家伝記』には、「直義・直宗」両人は「岡本半助編系図からは落ちているけれども、先の二つの証拠から直平の子であることは明らかだといいます。しかし「岡本半助系図」は、龍潭寺へ飛脚を遣わして尋ねているのです。これは、幕府の命令で系譜作成が通達され、彦根城主井伊直孝代に、藩主の命で家老岡本宣就が祖山先住徹叟和尚代の龍潭寺に井伊家の先祖について尋ねたもので、決して軽い質問ではなかったはずです。その結果、大略「直宗・直義」二人が直平の子という認識であったようです。それゆえ「直義・直宗」は祖山和尚が見つけ出したのでしょう。そのうち、末っ子とされる直元には年未詳三月廿九日付書状が残っていて、過去帳に天文十五年五月十四日死去とあり、その存在は確実です。また、小和田氏が「南渓過去帳」から、南渓和尚が直平実子でないことを証明しましたが、『井伊家伝記』では、南渓和尚を「猶子」ではなく、「直平公実子」と書き、さらに「彦次郎肉兄」としますが、同時代の記録である「南渓過去帳」を信じれば、「実子」云々は信じることができません。つまり「南渓過去帳」が否定していることを、南渓過去帳」によって証明しているわけです。こうしたことからも、『井伊家伝記』を読む際には注意が必要となるわけです。
 ここでの結論は、直満以外の直義・直宗は以前から知られていたかどうかは抜きにして、祖山和尚によって正式に系図に加えられたということです。そして、「南渓過去帳」
にも『井伊家伝記』にも、直平娘は載っていないということです。もし載っていれば、祖山和尚も書いているはずです。
 そこで、「直平娘」がどこで、どの時点で加えられたのかを、検証しましょう。
 
  「彦根藩の事情、危機勃発」

 彦根藩では、初代井伊直政死去後,後継問題で内紛がありましたが、元禄年間にも重大な危機がありました。それは遠州の片田舎である引佐にも、噂が伝えられるような大きな
事件でした。金指近藤氏の家臣で、山奉行であった宮田氏はその日記の元禄十四年条に、「井伊掃部頭様御閉門其上御隠居被遊候沙汰取々なり」と書いています。
 まず、海津氏が引用した『彦根城調査書』を、簡単にまとめてみました。
「将軍(五代綱吉)の寵臣某(老中柳沢吉)井伊氏ノ封地彦根領ヲ羨望スル者アリ、将軍、直興ヲ召シテ増禄轉封ノ内意ヲ諷示ス」。しかし、「直興は築城伝承を記した『御覚書』を提出し、家康と直政・直孝との強い絆による彦根城守護の任務を述べて拒否したことが書かれています。無論これがたとえ事実であったとしても、『徳川実紀』などの公的な書に載るわけがありません。たしかに、元禄十年(1697)『御覚書』が書かれ、一説には柳沢吉保に提出されたと言われています。しかし『御覚書』が書かれた元禄十年当時、藩主直興は、五月十七日、初めて大老が務める徳川霊廟のある紅葉山参詣の先導役を務めました。翌六月十三日に大老を命じられ、以後元禄十四年までその職にありました。それゆえにわかには柳沢保明(のち吉保、以下吉保で統一)云々の話は信じられないのです。直興の身に異変が起こるのは翌十一年に入ってからで、この年七月十四日の紅葉山先導役を最後に、この役を直興以前に勤めていた松平肥後守正容に変わります。そして翌十二年二月二日には、「井伊掃部頭直該在封の間は。謝恩の事ある輩。その邸へまかるべからずとふれらる」とあるように、疎んじられるようになるのです。なぜこうなったのかは、良く分らないのですが、元禄十四年三月二日、病を理由に職を辞して国に帰ります。同十五日次男直通に家督を譲って隠居し、十二月には名を直治に改めます。この十四年は本当に井伊家の危機であったようで、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリーは、戸田茂睡著『御当代記』の次の部分を引用して説明しています。
「井伊掃部頭大老之御役御免、是ハ掃部頭申上候ハ、大猷院(三代将軍家光)様之御条目、老中之事、官侍従、知行十万石ニ可限ト云々、然ルニ柳沢出羽守ヲ去年被為任少将候事、御条目ニ違ヒ候と申上候故ト云、此役ハ無覚束人之口也」
 この時点での側用人吉保の地位は、公式には老中の下であったが、吉保はこの時九万二千石で知行高は問題なかったが、官位が少将で老中よりも高く、これが定めに違うと直興は異議を唱えたのです。その意味で「伝統が破られ、事態はより深刻」であったと、ベアトリスは述べています。また吉保は、元禄十三年紅葉山参詣に先導役を勤めました。この役は本来大老の栄誉職であったのです。「新参者(吉保)が自身と同じ官位を授けられたことを、直該(直興)が快く思わなかったことは確か」で、「徳川家の霊廟に向かう際の先導役に吉保が任じられたこのタイミングから、直該(直興)は不満を抱き、最終的に辞職に至った」とし、その後、「六代将軍家宣が死の床に就いていた時に、直該(この時には直治)が大老に復帰させられたのはおそらく偶然ではないだろう。それは、政権内にわずかながら残っていた、綱吉時代に影響のあった者の一人、勘定奉行萩原重秀がついに罷免された時であった。伝統の見張り役であった井伊直該(直興)が政権内最高位の役職を退いたことにより、綱吉は誰に気兼ねすることなく、側用人吉保の地位をさらに固めていった」とベアトリスは言います。
 つまり、たしかに元禄十年、何らかの理由で彦根藩主直興は、井伊家と徳川家の関係の深いことを記す書の編纂を命じました。ここで重要なのは、『御覚書』の内容は、そのときの彦根藩の公式の歴史書であった、『喜安稿』を踏襲していたということです。そしてもうひとつは、藩の浮沈に関わる大変な事態が起こり、本来譲渡を躊躇せざるをえないほど病弱であった直通に家督を譲ったのです。これがのちに、『井家新譜』を書くときに多大な影響を与えたのは間違いありません。

 「「直平娘」の成立」

 そうなると「直平娘」は、『井伊年譜』以前の寛永二十年(1643)に成った『寛永諸家系図伝』所載系図、元禄十四年(一七〇一)成立の新居白石著『藩翰譜』にも載らず、さらに享保一五年(1730)井伊谷龍潭寺祖山和尚が書いた『井伊家伝記』にも、これ以前から祖山和尚と彦根とが、連絡があるにも関わらず記載されていないのは、この説が成立したのが享保年間の『井家新譜』が最初であると言えましょう。この書ものちに彦根藩で公式に認められたものになるのですが、やはり藩主直惟の命で編纂された『井伊年譜』が、公式の井伊家の歴史書となったのです。もちろん、藩の命運がかかった苦い思い出から、徳川家とのより深い関係を記す築山御前の母=井伊直平娘は踏襲され、固定的なものとなったのです。ちょうど井伊家の祖、共保生誕七百二十年を迎えるときに当たっています。

 (ⅵ)追記
 近世大名家として異例の出世を遂げた井伊家には、南北朝以来の度重なる戦乱と一族の数度に及ぶ衰退・壊滅の歴史から、拠るべき古文書も少なく、しかし対象の興味深さから多くの論考が発表されましたが、それらは未だ憶説と伝承に包まれています。つまりそれだけ井伊氏の歴史は謎に包まれた部分が多いということでもあります。参河譜代で もない井伊直政が、なぜ徳川家臣団で最高の地位に登りつめたのか、という問いに対しては、多数派としては、人質として岡崎に入った秀吉母大政所を、直政のみが懇ろにもてなしました。このことを聞いた秀吉それを喜び、秀吉自らが執奏して、ほかの家臣よりも高い、いわゆる公家成といわれる官位である侍従が与えられたことで、秀吉に臣従した家康に影響を与え、家康家臣団最高の十二万石が与えられたという説があります。また家康の家臣団における直政の家臣団構成の特殊性から説いた説もあります。

 ついでにいうと、京都の井伊美術館館長井伊達夫氏が見つけたという新史料二つは部分的にしか知りませんが、「秘説」と書く時点でわたしはあまり信用できない気がします。江戸時代には多くの偽書・偽文書・偽系図が作成され、その多くが「秘」となっています。木俣清左衛門の養子であろうが、この書からそれほど経っていない時期に、岡本半助系図」や「喜庵稿」と異なる書が書かれ、半助などの聞き取りは「秘説」登場の人々にも当然行われたと考えられます。また「川手氏系図」はさらに信用できません。どちらにしても、この史料の全面公開後に各氏が評論するでしょうから。ただ付け加えると、わたしも井伊直虎は男性だと思っています。いずれ。


「参考文献」
小和田哲男「井伊氏の成長と三岳城」(『争乱の地域史』二〇〇一年、清文堂出版)  海津榮太郎「彦根城余話」註(『彦根城の諸研究』二〇〇一年、サンライズ出版)
『井伊年譜』第一巻、国立国会図書館デジタルライブラリー(『井伊年譜』は、それ以前にテキストとなった『井伊家年譜附考』があったという。また『年譜』編輯者功刀君章は彦根藩享保十一年藩主井伊直惟に召し出され、のち延享元年父右衛門隠居後家督相続し、二百石を領す。和漢の学に通ず。『侍中由緒帳』では、初代長昌は遠州出身、井伊直政に召し出され、知行七十石、関ケ原の陣にも供した。(『近江人物志』など)  『井家新譜』部分的に写し参照 『井伊氏族系図伝記』(「喜安稿」)の説明、引用は野田浩子著「彦根藩による井伊家系譜の編纂」(『彦根城博物館研究紀要』8号所収)参照した。閲覧が困難故。  『井伊家伝記』引佐町史料第三集  「東国紀行」群書類従第18輯日記部紀行部  「南渓過去帳」の閲覧ができなかったので、小和田氏の論文を参照  『寛永諸家系図伝』続群書類従完成会編  『静岡県史』資料編7中世三P624
「宮田日記」元禄十四年条、引佐町史料第十一集  『徳川實紀』第六篇、新訂増補国史体系43  黒板勝美編、吉川弘文館  『犬将軍』ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー、早川朝子訳、柏書房2015年  小宮山敏和「井伊直政家臣団の成勢と徳川家中での位置」(『学習院史学』40郷号・二〇〇二年)