醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  748号  ホロコーストとナクバ ③  白井一道

2018-06-02 12:12:10 | 日記

  ホロコーストとナクバ③


  イギリス軍人 アラビアのロレンス



侘助 第一次世界大戦は一九一四年六月二十八日、「バルカン半島はヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたボスニアのサラエボで「火薬庫」に火が付いた。セルビアの民族主義者の青年がオーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した。この事件が世界大戦の引き金になった。ビスマルクは軍事同盟を結ぶことによってヨーロッパの平和を維持したが、軍事同盟が世界戦争を巻き起こした。英仏ロが三国協商、独墺伊が三国同盟、それぞれ軍事同盟を結んでいた。軍事同盟が世界歴史上初めての世界大戦を巻き起こした。
呑助 軍事同盟は平和を維持するのではなく、戦争を引き起こす危険性があるということなんですね。
侘助 軍事同盟は仮想敵国を前提しているからね。
呑助 安倍総理は日米同盟が日本の安全を保障するというようなことを述べていますが、実は戦争の危険性が付いて回るということなんですか。
侘助 軍事同盟を結ぶと言うことは、日米にとっての共通の仮想敵国がいるという認識を日米が共有しているということだからね。
呑助 日本はロシアや北朝鮮との間に平和条約を結んでいないということは、ロシアや北朝鮮は日本にとって潜在的な仮想敵国だということなんですかね。
侘助 当面の問題について言えば、北朝鮮はすでに日本にとって顕在的な敵だというような認識を安倍政権はしているように感じるな。
呑助 日本が北朝鮮に対して顕在的な敵だというような政策をとっている以上、絶対的に拉致問題は解決しないですね。
侘助 そうだと思うね。まず日本は北朝鮮との平和条約を結ぶことが大事だよね。朝鮮を植民地支配した謝罪と戦後賠償をした上でね。そうしなければ拉致問題は解決しないと思うな。
呑助 北朝鮮も日本との平和条約が結ばれたら核兵器の開発などする必要がなくなるわけですからね。
侘助 第一次世界大戦はすぐには決着がつかなかった。イギリスは戦争を有利に進めるためにユダヤ財閥の支援を必要としていた。一九一七年十一月、シオニズム運動推進者の財閥ロスチャイルドに戦争の協力を依頼すると同時にイギリス政府はユダヤ人シオニストがパレスチナに民族の郷土を建設することを承認する旨の書簡を出した。これが有名な「バルホォア宣言」なんだ。
呑助 シオニストとは、何ですか。
侘助 シオニズムを信奉する人々のことをシオニストと言っている。十九世紀後半になると帝国主義化を進める列強はユダヤ人迫害と社会主義者弾圧を強化した。ドイツでは第二次産業革命が進展する中、一八四八年、カール・マルクス・フリードリッヒエンゲルスによって書かれた『共産党宣言』が発表されるとドイツの労働者の中に急速に社会主義思想が普及した。宰相ビスマルクは一八七八年社会主義者鎮圧法を発布した。フランスでは陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件が起きる。このドレフュス事件を取材していたオーストリア人記者テオドール・ヘルツルは、ユダヤ人自らが国家を建設し諸外国に承認させることができればとイスラエル国家建設を提案した。こうしてユダヤ人国家イスラエル建国運動をシオニズム運動というんだ。こうしてイギリスはユダヤ人の戦争協力を得た。同時に当時中東世界をオスマン・トルコ帝国が支配していた。オスマン・トルコはドイツ側に立っていた。イギリスはトルコの支配下にあったアラブ族の反乱をアラビアのロレンスが支援すると同時にアラブ族の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を一九一五年に結んだ。にもかかわらずイギリス・フランス・ロシアは翌年秘密裏に一九一六年五月にはサイクス・ピコ協定を結び、中東地域を英仏ロで分割統治する約束をした。



醸楽庵だより  747号  ホロコーストとナクバ ②  白井一道

2018-06-01 11:45:56 | 日記


  ホロコーストとナクバ ②


  ドイツ帝国宰相ビスマルク


呑助 ユダヤ人の土地や財産を奪っても悪くないなら、敵対的な外国人の土地や財産を奪っても悪くない。こういうことですか。
侘助 そうなんだ。第一次世界大戦はどことどこが戦った戦争だったか、ノミちゃん覚えているかい。
呑助 高校の時に日本史の時間でも世界史の時間でも地理の時間でも教わったような気がしますよ。イギリスを中心にしたフランス、ロシアの三国協商とドイツを中心にしたイタリア、オーストリアの三国同盟が戦った当時の世界にあっては世界的規模の戦争だったんですよね。
侘助 なぜ戦争が起こったのか。戦争が起きた理由は何だと高校の時に教わったのか、覚えている?
呑助 ドイツに問題があったんですよね。ドイツ帝国の宰相ビスマルクが失脚し、ヴィルヘルム二世が政権の実権を握った結果、三B政策を唱え、英仏の植民地、アフリカや中東への侵出を狙った結果、それを阻止しようと英仏がドイツと戦った戦争が第一次世界大戦だったんですよね。
侘助 軍備の鉄、兵隊の血でドイツの統一を実現するんだと唱えたのが有名なビスマルクの鉄血政治なんだ。ドイツという国は十九世紀になっても小国に分裂していた。中世ヨーロッパを代表する神聖ローマ帝国はドイツ帝国でもあったが、十七世紀に起きた三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約によって領邦国家体制が認められた。このことは主権国家体制を認め合うことでもあったが同時に「ウェストファリア条約はドイツの死亡証書」とも言われているんだ。このため十九世紀になっても小国分裂状況にドイツはあった。一八四八年にフランスで二月革命が起きるとドイツではウィーンとベルリンで三月革命が起きる。ドイツでは話し合いによってドイツ統一を実現しようという動きが起きた。これをフランクフルト国民議会と言う。この話し合いではドイツ統一は実現しなかった。プロイセン王国宰相ビスマルクはドイツ統一を実現するには話し合いでは、解決しない。ドイツ統一を実現するには暴力、軍事力によってしか実現しないと唱え、プロイセン王国がドイツの小国を暴力、軍事力によって併合し、最後の大国バイエルン王国を併合した戦争が普仏戦争だった。一八七一年プロイセン王国がフランスに勝利し、プロイセン王のブィルヘルム一世は敗戦国フランスのベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の宣言をするんだ。ドイツ帝国を実現した宰相ビスマルクのその後の政策はフランスからの逆襲を阻止し、ドイツ帝国の経済力を強化することだった。そのためにはヨーロッパの平和を維持することだった。ヨーロッパの平和維持外交を展開していたビスマルクが二代目のドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世によって宰相を解任されたことによってドイツ外交が変わった。ヨーロッパの平和維持からドイツの対外進出政策に変わった。
呑助 北朝鮮の非核化は話し合いによっては解決しない。話し合いのための話し合いだと、述べ圧力の強化だというのは、ビスマルクの鉄血政治を思わせますね。暴力、軍事力によってしか、北朝鮮の非核化は実現しないという主張ですね。
侘助 アメリカに追随する安倍政権の外交にはビスマルクの思想が息づいているように思うな。
呑助 ドイツはビスマルクの政治のお陰で経済力の強化ができたんですね。
侘助 そうなんだ。第一次産業革命はイギリスから始まったと言われているが、第二次産業革命はドイツ、アメリカから始まった。鉄鋼業のような重化学工業の始まりが第二次産業革命と言われている。ドイツの鉄鋼業は一八七一年から始まったと言われているからね。
呑助 その結果、ドイツでは強力な軍艦ができるようになったということなんですね。
侘助 イスラエルという国の成立がアラブ人にもたらして悲劇をナクバと言っているんだ。
呑助 日本人にはあまり縁のないユダヤ人たちがヨーロッパ各地での差別を逃れてパレスチナの地にユダヤ人の国をと、いうことで建国されたんじゃないんですか。
侘助 ヨーロッパ中世以来のユダヤ人差別、ユダヤ人への偏見を政治的に利用して外国の豊かな資源を奪おうとした政治家たちいたんだ。そのような人々を帝国主義者と言うんだ。
呑助 イギリス人のセシル・ローズですか。
侘助 セシル・ローズは次のようなことを述べているんだ。「私は昨日ロンドンのイーストエンド(労働者地区)に行って、失業者大会を傍聴した。そして私が、そこで、パンを与えよとの絶叫にほかならない、いくつかのあらあらしい演説を聞いて帰宅したとき、私は帝国主義の重要さをいよいよ確信した。私の抱負は社会問題の解決である。イギリス帝国の4000万人の人民を血なまぐさい内乱から守るためには、私たち植民政治家は、過剰人口を収容するために新領土を開拓し、また彼らが工場や鉱山で生産する商品のために新しい販路をつくらねばならない。決定的な問題は、私がつねに言う事だが、胃の腑の問題である。彼らが内乱を欲しないならば、彼らは帝国主義者とならねばならない。(1895年)」。このようなことをね。
呑助 「胃の腑の問題」というのは、イギリス人が豊かな生活をするにはということですかね。
侘助 そのためには外国に侵出し、そこの富や土地を奪おうということだからね。戦争だよ。強盗の戦争だよ。
呑助 ユダヤ人迫害と関係あるんですか。
侘助 ユダヤ人は悪い人間だからユダヤ人の財産や土地を奪ったとしても悪くないんだという意識を植え付けていったんだ。
呑助 あぁー、こうしてユダヤ人の殺害や土地財産を奪っても悪の意識から解放したということですかね。
侘助 一九世紀後半の時代はイギリス、フランス、ロシア、ドイツといったヨーロッパの列強は帝国主義化していく。帝国主義というのは、他国の富や土地を奪う強盗の戦争をするということだからね。
呑助 泥棒や殺人というのは、嫌なことですよね。嫌というより犯罪ですね。
侘助 ロシアでは、帝国主義的な政治に反対する社会主義運動が起きて来ると社会主義運動はユダヤ人の運動だと言って弾圧したんだ。ユダヤ人の運動は悪いに決まっているでしょと、いうことで弾圧した。ツァーリズムはユダヤ人への偏見を利用して社会主義を弾圧した。が勿論社会主義者の中にはロシア人もいた。



醸楽庵だより  746号  ホロコーストとナクバ ① 白井一道

2018-05-31 11:43:25 | 日記


 ホロコーストとナクバ ①


侘輔 ノミちゃん、「ナクバ」という出来事を知っているかい。
呑助 「ナクバ」ですか。それはどんな出来事なんですか。初めて聞く言葉ですよ。
侘助 ノミちゃんのように博学な人が知らないのかな。
呑助 そう人をおちょくっちゃいけませんよ。
侘助 日本人一般は知らないのが普通なのかもしれないな。
呑助 早く説明して下さいよ。そうもったいぶって物知り顔をするものじゃありませんよ。
侘助 ナクバの悲劇は今も続いているんだ。「ガザ」という地域がどこにあるのか、ノミちゃん知っているよね。
呑助 イスラエルのパレスチナ人自治区ですかね。
侘助 確かに日本の地図には点線でガザは囲まれている。この東京二三区のほぼ六割ぐらいの地域に200万人以上の人々が押し込まれている。
呑助 出入りは自由にできているんですよね。
侘助 コンクリート壁で囲まれ出入りは厳しく制限されているようだよ。
呑助 イスラエルという国は第二次大戦後国連決議によって成立した国じゃないんですか。
侘助 イスラエルという国の成立がアラブ人にもたらして悲劇をナクバと言っているんだ。
呑助 日本人にはあまり縁のないユダヤ人たちがヨーロッパ各地での差別を逃れてパレスチナの地にユダヤ人の国をと、いうことで建国されたんじゃないんですか。
侘助 ヨーロッパ中世以来のユダヤ人差別、ユダヤ人への偏見を政治的に利用して外国の豊かな資源を奪おうとした政治家たちいたんだ。そのような人々を帝国主義者と言うんだ。
呑助 イギリス人のセシル・ローズですか。
侘助 セシル・ローズは次のようなことを述べているんだ。「私は昨日ロンドンのイーストエンド(労働者地区)に行って、失業者大会を傍聴した。そして私が、そこで、パンを与えよとの絶叫にほかならない、いくつかのあらあらしい演説を聞いて帰宅したとき、私は帝国主義の重要さをいよいよ確信した。私の抱負は社会問題の解決である。イギリス帝国の4000万人の人民を血なまぐさい内乱から守るためには、私たち植民政治家は、過剰人口を収容するために新領土を開拓し、また彼らが工場や鉱山で生産する商品のために新しい販路をつくらねばならない。決定的な問題は、私がつねに言う事だが、胃の腑の問題である。彼らが内乱を欲しないならば、彼らは帝国主義者とならねばならない。(1895年)」。このようなことをね。
呑助 「胃の腑の問題」というのは、イギリス人が豊かな生活をするにはということですかね。
侘助 そのためには外国に侵出し、そこの富や土地を奪おうということだからね。戦争だよ。強盗の戦争だよ。
呑助 ユダヤ人迫害と関係あるんですか。
侘助 ユダヤ人は悪い人間だからユダヤ人の財産や土地を奪ったとしても悪くないんだという意識を植え付けていったんだ。
呑助 あぁー、こうしてユダヤ人の殺害や土地財産を奪っても悪の意識から解放したということですかね。
侘助 一九世紀後半の時代はイギリス、フランス、ロシア、ドイツといったヨーロッパの列強は帝国主義化していく。帝国主義というのは、他国の富や土地を奪う強盗の戦争をするということだからね。
呑助 泥棒や殺人というのは、嫌なことですよね。嫌というより犯罪ですね。
侘助 ロシアでは、帝国主義的な政治に反対する社会主義運動が起きて来ると社会主義運動はユダヤ人の運動だと言って弾圧したんだ。ユダヤ人の運動は悪いに決まっているでしょと、いうことで弾圧した。ツァーリズムはユダヤ人への偏見を利用して社会主義を弾圧した。が勿論社会主義者の中にはロシア人もいた。


醸楽庵だより  745号  荒海や佐渡に横たふ天の川(芭蕉)  白井一道

2018-05-30 11:56:43 | 日記


  荒海や佐渡に横たふ天の川  芭蕉


 
 
 旧暦の七月四日に芭蕉は新潟県出雲崎でこの句を詠んでいる。今の暦でいうと八月九日になる。暑い盛りである。曾良旅日記によると「快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立」とあるから青空の下、快い風に吹かれて、午前八時頃、弥彦を出発した。その後、「寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着。宿ス。夜中、雨強降」とあるから寺泊を経て出雲崎に午後四時頃到着し、出雲崎で泊まった。その夜は強い雨が降った。弥彦から出雲崎までおよそ三十二キロを歩き通した。
 出雲崎に着いたのが申の上刻、午後四時のことであるから8月上旬ではまだ明るい。宿に着いた芭蕉は行水でも浴びた後、食事までの時間に浜辺から眺めた佐渡を思い起こし、「銀河の序」という文章を残している。
「北陸道に行脚して越後の国出雲崎といふ所に泊る。
かの佐渡がしまは海の面十八里、滄波を隔てて、東西三十五里によこほりふしたり、みねの瞼難谷の隅々までさすがに手にとるばりな
りあざやかに見わたさる
 むべ此の島はこがねおほく出でてあまねく世の宝となれば限りなき目出度き島にて侍るを大罪朝敵のたぐひ遠流せらるるによりてただおそろしき名の聞こえあるも本意なき事におもひて
窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど
日既に海に沈んで月ほのくらく銀河半天にかかりて星きらきらと冴えたるに、
沖のかたより波の音しばしばはこびてたましひけづるがごとくた腸ちぎれてそぞろにかなしびきれば草の枕
も定まらず、墨の袂なにゆ
えとはなくて、しぼるばかりになむ侍る
 あら海や佐渡に
横たふあまの川 」
 北陸道は現在の国道四〇二号線である。この街道を十月初旬にドライブした人の紀行文を読むとうっすらと佐渡島が見えたと書いている。十月より八月の方が景色は曇っている。それなのに芭蕉は「みねの瞼難谷の隅々までさすがに手にとるばりなりあざやかに見わたさる」と書いている。今から三百年前は空気が澄んでいたのかもしれい。
 浜辺に寄せる波音が枕元
に響いてくる。太陽が海に沈み、月がほの暗く銀河の半天にかかる。星がきらきら輝くのを見ながら佐渡島の歴史に芭蕉は思いをよせる。佐渡島は本来宝を産する目出度き島であるはすなのに時の政権に叛旗を翻した朝敵である大罪人を流刑にした島である。島流しにあった世阿弥や文覚上人のことを思うと哀しみに腸が千切れるような旅愁にかられた。
 「荒海や」、この言葉には本土から切り離された島に生きる人の哀しみが表現されている。その哀しみに生きる人に対する架け橋が「天の川」である。「天の川」に籠められた意味は肉親や友人・知人から切り離されて生きる人への思いになっている。
 荒海に佐渡が横たわっている。夜空には天の川がかかっている。「荒海に佐渡横たふや天の川」。この句は実景である。この実景の句を「荒海や佐渡に横たふ天の川」と捻った。「荒海に」を「荒海や」と変え、「佐渡横たふや」を「佐渡に横たふ」と変えた。このように捻ったことによって雄大な宇宙と歴史を表現することができたのだ。

醸楽庵だより  744号  むざんやな甲の下のキリギリス(芭蕉)  白井一道

2018-05-29 14:36:18 | 日記


  むざんやな甲の下のキリギリス  芭蕉


 石川県小松市にある多田神社で芭蕉が詠んだ句である。初めてこの句を読んだとき私は何も感じなかった。
何も感じない私に対して久富哲雄は「じつに痛ましいことであるよ。あの実盛が白髪染めの頭にかぶって奮戦したという兜をみるにつけ、往時がしのばれてならないが、今はその兜の下で、実盛の亡霊の化身かと思われるこうろぎが、か細い声で寂しく鳴き、秋のあわれを誘うことである。」とこのように鑑賞している。どうしたらこのような鑑賞ができるようになるのか、少し実盛について調べてみた。
「奥の細道」には「太田(ただ)の神社に詣(もうづ)。実盛が甲・錦の切(きれ)あり」とある。きっと芭蕉は実盛に思いを込めて詠んでいるに違いない。
 源平合戦中の篠原合戦に平氏側の将軍の一人として斉藤実盛は参戦している。対戦側の源氏の将軍は木曽義仲である。実盛は越前の人であった。初め、源義朝に仕え、骨肉相食む大蔵合戦では義朝の異母弟源義賢
を討った。義賢の血縁の者すべてを殺すよう命令されたが義賢の子、後の源義仲(木曽義仲)をまだ幼児であったため、不憫に思い木曽に実盛は逃がした。その後、保元・平治の乱で義朝が平氏側に敗れると実盛は平清盛の三男、宗盛に仕えるようになり、長井荘(熊谷・深谷の一部)の別当に任じられる。
 源義朝滅亡後、伊豆に流されていた義朝の三男、頼朝が兵を挙げ、源平合戦が再び始まと、実盛は平氏側に立って参戦する。倶利伽羅峠の戦いは圧倒的な強さ
を源氏側の木曽義仲軍はみせ、平氏側の軍勢は雪崩を打って散り散りとなってしまう。その後の篠原合戦では部下を失った将軍、実盛は将軍の出で立ち、龍頭を飾った兜を被り、錦の直垂を着け一人、源氏側の軍勢と向かい合った。実盛の故郷の地、篠原合戦に錦を飾ったのである。
 実盛は幼児であった義仲を救った人間であることを隠すため白髪染めをし、名を名乗れといわれても、名乗らず、組み伏せられて止めを刺される。実盛は平宗盛への忠義を尽くす。
 実盛は武士道を貫いた人として平家物語の中で物語られている。この物語は謡曲となり、元禄時代には広く江戸庶民の中に普及した。謡曲は「あなむざんやなー」と「実盛」を語り始める。元禄の頃の俳諧を嗜む人々にとっては「むざんやな」という言葉を聞くと謡曲「実盛」を思い浮かべた。「むざんやな甲の下のキリギリス」と読むとこの甲は実盛の甲、故郷に錦を飾った兜であると想像することができた。五百年前の兜が今に伝えられているのは命の恩人、実盛を討った木曽義仲が懇ろに葬れと部下に命令した願状があったればこそとは思うが、兜や錦の鎧の無惨な姿に芭蕉は心を痛めたのであろう。
 武士道の鑑(かがみ)として崇められている実盛の甲が野ざらしにうち捨てられてたように飾られている。その兜の下ではコオロギが鳴いているではないか。あー何と無惨なことであるかと、芭蕉は嘆いた。このコオロギが鳴く声は実盛の亡霊が泣く声のようだ。このように感じて詠んだ句なのだろう。この句は人生の無常を嘆いているのだ。