千曲川のうた

日本一の長河千曲川。その季節の表情を詩歌とともに。
人生は俳句と釣りさ。あ、それと愛。

千鳥

2019年01月11日 | 千曲川の鳥


千曲川右岸。
ついさっきまで、この写真のちょうど中央の位置に千鳥が一羽いた。千鳥も、人が近寄るのをぼんやり待って写真に撮られるほど間抜けじゃないので、ここには写っていない。声も立てずに飛び去って瀬波に紛れてしまった。どうか平凡な護岸工事の写真と見ず、「不在の千鳥」の写真と思っていただきたい。
しかし写っていたところで、どうということもない。私には、それほどの魅力のない鳥である。(千鳥愛好家のみなさん、すいません)。
小さくて特に美しいわけでもなく、鳴声も平凡。だが日本文化はこの鳥を不釣合いなほど珍重しており、さまざまな意匠にこの鳥のモチーフが使われている。そして文芸の世界ではメジャーバードだ。なにしろ最初に千鳥を詠んだのはニニギノミコトだそうで、それから紀貫之の「川風寒み」を経てサトーハチローの「目ン無い千鳥の高島田」に至る。当然、誹諧時代から夥しい千鳥の句があり、また秀句も多い。

 星崎の闇を見よとや啼千鳥  芭蕉

私が最も心惹かれるのは下に掲げる青畝の句である。

 いりあひの鵆なるべき光かな  阿波野青畝


川鵜

2013年07月22日 | 千曲川の鳥
夕暮れ時に千曲川の上空を川下方向へ飛んでいく鳥の群を見掛けるのだが、何の鳥か分からなかった。数羽から十数羽の小さな群であることが多く、はじめは鴉だと思っていた。だがカラスとは明らかにシルエットが違い、飛び方も違う。



V字型の編隊はガンの渡りみたいだが、梅雨時にガンが飛んでるわけもない。




私が毎日千曲川の河原を歩くのは犬の散歩のためなのだが、どうも気になるのである日双眼鏡を持参して見てみた。真っ黒な鳥だが顔の辺りが黄色っぽい。あれれ、カワウだ。



翌日からはカメラを首に下げて行き、何枚か撮ってみた。




最近は千曲川でもカワウはすっかりお馴染みで、中州や水面に出た石の上に止まっているのを毎日のように見ているし、川筋を飛んでいるのにもよく出会う。しかしあの編隊が同じ鳥だとは気付かないでいた。
彼らはねぐらに戻る時には群を作り、高いところを飛んで行くのだという。



この辺は鮎釣りの名所だった。つい何年か前まで、友釣りの解禁日といえばこの画面の両岸に竿がぶつかりそうなくらい釣り人がいたものだ。ここでスポニチの鮎釣り大会も行われていた。
しかし今年はまったく釣り人を見ない。すでに解禁から三週間経っているが、私はまったく見ていない。
釣り人がいないのは釣れないからなのだろう。
実際更埴漁協のサイトで釣果情報を見ると、釣れていない。釣果情報というより放流情報しかない。5、6年前のと較べてみるとびっくりする。

鮎が釣れないという話題になると、水環境の悪化・ウィルス感染(冷水病)・カワウとバスの食害が三題噺みたいに出てくるのだが、むろん私のような素人には判断が付かない。



とはいえカワウが相当量の鮎を食うのは確かなことだろう。
鵜は水中で魚を捕るプロである。養魚場育ちの鮎が川に放され、流れの緩いところにかたまって茫然としてたりすれば、ゴッツァンでーすということになる。
それは食害と言えば食害だが、鵜の方は人間が放流するようになるよりずっと前から鮎を捕って食っていたのだから、害鳥扱いはかわいそうにも思える。

鵜は夏の季語。俳句で詠まれるのは主に鵜飼いであり、それに次ぐのが海岸の岩礁にいる鵜だ。川鵜の例句は乏しいようである。

  きさらぎの水に影曳き川鵜とぶ  松栞

鵜飼いは夏だが、鵜自体は通年見られる。これは晩冬の千曲川。川面すれすれを飛ぶ鵜を堤防から見下ろしている。