千曲川のうた

日本一の長河千曲川。その季節の表情を詩歌とともに。
人生は俳句と釣りさ。あ、それと愛。

枯野(2) すがりつく生き方

2019年02月09日 | 千曲川の植物
衣服などに着く草の実を総称して「ひっつき虫」とか「バカ」
と呼ぶ。バカ代表はこの草だろう。
アメリカセンダングサ(栴檀草)。
水路の泥にも乾燥した路傍にも、お構いなしで生えてくる。



ひっつき虫はもちろん俳句の題材となっている。
 ゐのこづち人のししむらにもすがる 山口誓子
 おなもみを振りむく夫の胸に投ぐ  池松幾生
 藪虱著かむとすなり著かしむる   相生垣瓜人

こんな句はあるが、「(アメリカ)栴檀草」を詠んだ俳句は見掛けた覚えがない。
名前があまり知られていないこともあろうが、そもそも長過ぎる。

アキノキリンソウ   雲湧いて崩れて秋の麒麟草 行方克巳
スズメノカタビラ   爪切つて雀の帷子へとんで 佐々木六戈
ママコノシリヌグヒ  指に吸ひつきてままこの尻ぬぐひ 西村和子
セイタカアワダチソウ 湖西線背高泡立草に延び 京極杞陽
アメリカセンダングサの例句は管見に入らなかった。



「草の実」という季語に含めて詠むより仕方ないのだろうし、それで十分だ。

 草の実も人にとびつく夜道かな   小林一茶
 うらからきてくれて草の実だらけ  種田山頭火
 草の実をふりかむりたる小犬かな  村上鬼城
 矢鱈つく草の実どこに生きんとすや 大野林火
 したゝかに草の実恋の戻りなる   飴山實

飴山さんの句は犬か猫のことだろうが、ひょっとしてご自身の体験だったりして。



犬を飼う者には、馬鹿は困りものだ。特にセンダングサの実は毛に絡みついて取りにくい。
ヰノコヅチ(牛膝・猪子槌)も厄介で、最盛期には凄い量の実が着く。うちの犬は胡麻団子みたいになってしまう。

枯野(1)

2019年02月08日 | 千曲川の植物
木に絡んだ蔓から実が垂れている。アオツヅラフジと言うらしい。
この実も秋には綺麗な青い色で、実に可愛い。有毒なのだが、ちょっとつまんでみたい感じだ。


冬も深まるとこんな風に色が深まり、ドライフルーツ状態になっている。おそらく鳥も食べないのだろう。


アオツヅラフジを漢字で書くと青葛藤。どうも葛藤の2字は「かっとう」と読みたくなってしまう。
葛の字には「くず・かづら・つづら」の訓があり、それぞれ指すものが違うので厄介だ。


花は見過ごしてしまうような地味なものだが、実はとても魅力があるので俳句にしてみようかといつも思う。しかし「青葛藤の実」で9音使っても、それを思い浮かべてくれる人はごく僅かだろう。別名「かみえび」とのことだが、これも難しい。
どこかに例句はあるのだろうか。


椿落ち奔流に紅葛藤す 河野南畦

これはもちろん「かっとう」の句。

へび

2019年02月05日 | 千曲川の動物


ジムグリという蛇だろうと思う。
五月、車で河川敷の道を走っているとこいつがいて、もう少しで轢くところだった。ヘビ対応の自動ブレーキは装備していない。
真っ直ぐに伸ばせば90cmくらいありそうだったが、引っ張って計測するのはやめておいた。きっと蛇が嫌がるだろうからだ。(ああ、なんて優しいのだろう)。

安部公房が蛇ついて論じた文章に、イキモノの気味悪さは「擬人化のしにくさ」と相関するとあったように覚えている。たしかに蛇は、その日常生活を想像しにくく、擬人化しにくい。蛇が主役となる話は幾らもあるが、ほとんどは人間に変身して活動するものだ。蛇のまんまでは主役になりにくい。実に感情移入しづらいと思う。
ネズミもライオンも熱帯魚もカメもスーパースターになったが、蛇が主人公のディズニーアニメなんかは多分制作されないだろう。

スーパースターはともかくとして、蛇も俳句では立派な主人公になれる。

蛇逃げて我を見し眼の草に残る  高浜虚子
蛇穴を出て見れば周の天下なり  高浜虚子
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首     阿波野青畝
全長のさだまりて蛇すすむなり  山口誓子
蛇いでてすぐに女人に会ひにけり 橋本多佳子
草の根の蛇の眠りにとどきけり  桂 信子
蛇消えて唐招提寺裏秋暗し    秋元不死男
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢    赤尾兜子
若き蛇跨ぎかへりみ旅はじまる  西東三鬼
蛇遣いなかなか袋より出さず   田川飛旅子

蛇ばかりではない。ミミズもカエルもゲジゲジも蚊もゴキブリも、何でも来いだ。
俳句は面白い。

ふなうた

2019年02月02日 | 千曲川のくらし
その岡を東にめぐる千曲川茨野におこる欸乃のこゑ  太田水穂

随分難しい字を遣うものですが、欸乃はアイダイと読んで「舟歌」の意味なのだそうです。ここではフナウタと訓ずるのでしょう。
現在の千曲川は水量も多くなく、橋ありダムありで船の運航はできません。しかし昔は通船があって利用されていました。江戸時代に、越後の年貢米を江戸に運ぶルートとして千曲川水運の企図があったのですが、難所が多くてうまくゆかず、運行できたのは一部分だけでした。北信濃では飯山・須坂間を結んだ太右衛門船、松代藩の藩営船、善光寺町の厚連船などが就航し、主として米と塩を運んでいました。
明治になると民間の通船会社ができて飯山から上田の間で営業しましたが、明治21年に信越線が開通してからは次第に衰退してしまいました。島崎藤村「千曲川のスケッチ」には、藤村が豊野から飯山まで川船で旅したことが記されています。明治の末のことです。
水穂の唄は明治30年代の作。その頃の情景は想像してみるしかありません。

昭和の俳人に

春障子千曲欸乃満たしたる  加倉井秋を

という句があり、おそらく水穂の歌を意識して詠まれているのでしょう。
この作者も「千曲川の舟歌」を聞いたのでしょうから、今でも伝承されているものかも知れません。しかし私は地元にいながら寡聞にして知らないので、ご紹介できず残念です。





以前は川漁師さんが舟から投網を打ったりしていましたが、近頃ではとんと見掛けません。川舟はみな陸にあげられたままのようです。


溜まった水に氷が張っています。



捨舟のうちそとこほる入江かな 凡兆