千曲川のうた

日本一の長河千曲川。その季節の表情を詩歌とともに。
人生は俳句と釣りさ。あ、それと愛。

鄭敬謨さんを悼む

2021年02月17日 | 千曲川とは無関係

今朝新聞を読むと、昨日(2021.02.16)鄭敬謨(チョン・キョンモ)氏がなくなったとの記事があった。96歳とのこと。

ご冥福をお祈りいたします。

鄭敬謨氏の波乱に満ちた経歴について要約してお伝えするようなことは私には到底出来ない。いつその名前を知ったのかさえはっきり覚えていないのだが、氏は1970年頃から日本に住んで文筆活動をしており、私は何かの雑誌に発表された文章を目にし、その後著書「ある韓国人のこころ」を読んだのだと思う。その後衝撃的なことが起こった。

1989年3月、韓国の文益煥(厶ン・イクファン)牧師が平壤を訪れ、金日成と会談したのだ。そしてこの会談の結果、文益煥と許錟(北の祖国平和統一委員会)による「4・2共同声明」が発表された。このとき鄭氏は文牧師に同行し、会談にも同席している。そして実は、鄭氏が事前に単身北へ渡り文牧師訪朝のお膳立てをしてきた上での平壌行きだった。

韓国の政権は、文牧師は「小英雄主義的、感傷的な統一主義者」で、北朝鮮に弄ばれて韓国外交にダメージを与えたとのイメージ作りに躍起となり、同行した鄭敬謨氏は「北朝鮮の工作員」だと主張した。そして、鄭氏は朝鮮戦争当時アメリカ国防総省の職員として勤務、板門店での休戦会談にも参加していた経歴があるため、逆に「アメリカのスパイ」ではないかという憶測も流れたようだ。私は鄭氏の謦咳に接したことはないが、少なくとも誰かの指令に従って謀略を行う人ではないと思う。

鄭氏の見識と人柄を慕う人々が「シアレヒム塾」に集って韓国語の学習などをしていたが、その塾生らによって1991年「シアレヒムの会」が結成され、会報となる小冊子「粒(RYU)」が発行されることとなった。私は会員ではなかったが購読することにした。

鄭氏の書かれたものを少しだけ引用してみる。

 終戦直後、必ずしも美しくはない己れを映し出す鏡として、多くの日本人が必読の書として、耽読したのがルース・ベネディクトの「菊と刀」である。日本人が敗戦直後の謙虚さを失っていくにつれて、主として体制側の人たちにより、次第にこの本の真価が格下げされてきているように思われるが、私は日本人社会を理解する上に、「菊と刀」が提示した「恥の文化」と「罪の文化」という前提的概念(パラダイム)は今日においてますますその説得力を増しているのだと思う。日本はこの本では「恥の文化」圏内に分類されているわけであるが、その日本においては幸せを祈る祈福の儀式は様々なものがあるが、しかし罪を贖うための贖罪の儀式はないという指摘は、鮮やかに日本人社会の特徴的一面を浮き彫りにしたものだと言わざるをえない。日本人が気にするのは「罪」というよりは「恥」であるが、「恥」とは人さまから後ろ指を指されるということにほかならない。人さまに知られていてもいなくても、そのために怖れおののく「罪の意識」とは違って、後ろ指を指される心配がないかぎり怖れるということがなく、とことんまで逃げを打つのが「恥の意識」だろうと思う。しらを切る、開き直る、行為の動機を美化する。そしてなお逃げられない場合でも、力関係如何によっては相手をねじ伏せ、後ろ指ないし糾弾の声を封じ込めることができるかぎり、「恥」は罪を罪として認めることをしないだろう。

鄭敬謨「韓日関係戦後五十年」(「粒」16号・1995年4月)

 


俳句は陰暦!?

2020年08月08日 | 千曲川とは無関係

俳句では陰暦を使います、と言われてびっくりしました。

かれこれ40年程俳句を作っていますが、陰暦を使っているなんて思ったことはありませんでした。

先生の言ってることが分かりません。おそらく「陰暦で秋の始まる日を現行の太陽暦に直すと8月8日頃になる」という意味なのでしょう。つまり二十四節気の立秋のことです。

歳時記における季節の秩序は二十四節気に拠っています。しかし二十四節気は陰暦(正しくは太陰太陽暦、一般に旧暦と呼ばれています)に支配されているのではありません。

「陰暦では秋は8月8日前後から」?????

2016年の立秋は8月7日、旧暦だと7月5日

2017年の立秋は8月7日、旧暦だと6月16日

2018年の立秋は8月7日、旧暦だと6月26日

2019年の立秋は8月8日、旧暦だと7月8日

2020年の立秋は8月7日、旧暦だと6月18日

「いつから秋なのか」という区切りは太陰太陽暦の日付とは別物です。太陰太陽暦の日付が季節とズレるので、別に二十四節気を併用していたのであって、二十四節気は原理的には太陽暦の一種なのです。ですから太陽暦である現行暦では、二十四節気はほとんど固定された日付になります。

明治の改暦により、明治5年12月3日が新暦では明治6年1月1日になってしまいました。この1ヶ月のズレのため、お正月・節分・お盆・七五三などをいつするのか混乱が起こりました。「旧暦の日付」で決まっていた年中行事などは、新暦移行・旧暦換算・月遅れのいずれかで対応することとなりました。

ですから、七夕のように「旧暦の日付」で決まっていた行事や忌日などを俳句に詠む際は暦の問題に留意する必要があります。現行暦の7月7日はまだ梅雨も明けていませんが、この日に七夕祭りをすれば、それを詠んだ句は秋季ということになります。たとえばこれが、夏井先生が「俳句は陰暦」という表現で言わんとしていることの一端なのかも知れません。

これに対し二十四節気はもともと「旧暦の日付」には依存していませんから、改暦によって立秋が1ヶ月早まったと言うようなことはありません。「立秋と言っても暑さの盛りじゃないか」という季節感のズレは、改暦とは別の問題なのです。旧暦を使っていた頃だって、立秋は暑かった。

1太陽年を冬至・立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬で8等分し、さらにそれぞれを3等分したのが二十四節気です。すごくすごく大雑把に言うと、地球の北半球にそそぐ太陽光の量は冬至で最小となり、次第に増えて夏至でピークとなってまた冬至に向かって減っていきます。しかしこの光量の変化が気温の変化に反映されるまでにタイムラグがあります。だから立春は未だ寒く、夏至は暑さの極みではなく、……ということになります。

歳時記の季節感、というか季節観の基礎である二十四節気は文化的・数学的なモデルであって、現実の気候から帰納されたものではありません。

 

  秋立つ日よめる  藤原敏行朝臣

秋きぬと目にはさやかにみえねども風のおとにぞおどろかれぬる

現実の季節感としての秋より先に文化としての秋が来ます。少しも秋めいてはいないけれど、今日は立秋なのだから歯を食いしばってでも「秋らしさ」を感じなければならない。そういう歌です。

 

さて

ラジオ体操歯抜けの判や夏深し です

この下五があまりよろしくないのは誰しも感じるところですが、当面の話題は「晩夏っていつ?」ということでしょう。

歳時記の秩序で言えば7月末から8月アタマくらい。しかし作者は夏休みの終盤くらいを考えていたようでした。ここには単に「不勉強」では済まされない、季語と季感を巡る重要な問題が含まれています。それは新暦と旧暦の問題ではなく、季語の機能の問題ですが、あまり風呂敷を広げても収拾がつきませんからまたいつか。

 


「健康十訓」を書いたのは横井也有ではありません

2019年11月28日 | 千曲川とは無関係
世に「横井也有が書き遺した健康十訓」というものが流布していますが、これは横井也有が書いたものではありません。なぜ也有と結びつけられているのか分りませんが、ともかくそれは間違いです。

ネットで検索すれば「也有の健康十訓」を紹介する文書がたくさんヒットしますが、その十訓とはこんな内容です。

      健康十訓
     一、少肉多菜
     二、少塩多酢
     三、少糖多果
     四、少食多齟
     五、少車多歩
     六、少衣多浴
     七、少煩多眠
     八、少念多笑
     九、少欲多施
     十、少言多行

これは一例で、多少順番が違ったり文字が違ったりしているものもあります。私は素人ですが、まあ健康訓としては常識的で穏当なものだろうと思います。
しかしこれを「江戸時代に横井也有が書いた」というのは間違いなのです。


横井也有像 東湖 筆



この「也有十訓」を紹介している方々は、誰ひとり也有が書いたという根拠を示していません。原典を明示している人もなく、確かめようとすらしていません。要するにみんな孫引き・又聞きで言っているだけなのです。
この「十訓」は少なくとも30年ほど前から知られていたようで、湯飲みや暖簾に印刷されたり、広報パンフレットに引用されたりしていたようです。

私なりにいろいろ調べてみましたが、そもそもの出典もなぜ也有と結びついたのかも良く分りません。関西方面の医療関係者の中でまず「也有の十訓」として知られるようになり、次第に広がったのではないかと思いますが、それも私の憶測に過ぎません。

お医者さんが市民向けに講演したり、雑誌や広報紙などに健康エッセイを書くような場合、手頃な話題としてこの「十訓」を枕に使うのですね。すると、これに感心した別の医療関係者が「○○大学の医学博士××先生が推奨した横井也有の健康十訓」として引用し、これをまた誰かが紹介する。こうしてだんだんひろがり、やがて新聞に載ったりしてもう既定の事実のようになってしまいます。
話のとっかかりとして手頃だというだけですから、誰も「本当に横井也有が書いたのだろうか」と検証したりしないわけですね。

江戸時代に車で移動する人などなかったのですから「少車多歩」はおかしいし、肉の食べ過ぎや糖分の過剰が当時の健康問題だったとは考えにくいのですが、追究はしないで「現代にも通ずる健康術」とか「先見の明」とかいうことにしてしまいます。

私は也有愛好家で長年也有のものを読んできましたが、「十訓」あるいはそれに似たような文は見たことがありませんでした。それである時調べてみたのですが、也有の作品として刊行されているものの中にはありませんでした。
もちろん「私に見つからなかったからそれは存在しない」というのは傲慢な話です。私は野田千平先生に尋ねてみました。野田先生は金城学院大学名誉教授、横井也有研究の第一人者で名古屋叢書「横井也有全集」の編著者です。先生に「健康十訓について調べているのですが分りません、ご存じですか?」とお聞きしたところ、「そういうものがもしあるなら是非教えて下さい」とのことでした。

私も申上げます。もし也有が書いたという根拠をご存じの方は、どうか典拠を示して教えて下さい。それが確認できた時は、上記の文章を取消して平謝りに謝ります。でもそれが出ないうちは、声を大にして言い続けます。

也有が「健康十訓」を書いたというのは間違いなんです!

わたしはこの健康訓の内容についてとやかく言う気はありません。
ただ、ちっとも面白くない。なんのひねりもない。
こんなつまらん、非俳諧的な文章を也有が書いたなんて、ひどい濡れ衣だと思うのです。

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以上の文章は私のサイト「俳句の森」に掲載していたものに少し手を加えたものです。
Yahoo!ジオシティーズのサービス停止により「俳句の森」は消滅しましたが、現在再建作業中です。
横井也有に関心のある方は、まだ不細工な状態ですがこちらへ。


だいこんずし

2019年01月11日 | 千曲川とは無関係


北陸は発酵食品の宝庫だが、なかでも有名なのが金沢の蕪鮓(かぶらずし)。塩漬にした蕪に鰤の薄切りを挟み、麹に漬けたものである。蕪の漬物でもあるけれど、鰤の方に注目すれば熟れ鮨の一種ということになる。季語で言うと鮓は夏のものだが、蕪と鰤は冬で、当然蕪鮓は冬季である。
材料にはヴァリエーションがあり、写真のものは大根と鯖で作られている。これは金沢市粟崎町の割烹「あすなろ」自家製で、とてもおいしい。

  蕪鮓一箸つまみ廓町  沢木欣一

吉田健一の「金沢」は幻想小説とでも呼べば良いのだろうか。読始めてすぐ退屈だなあと思うけれど、これがやめられない。退屈の種類が違うのである。話の内容はどうでもよくて「吉田健一の『金沢』を読んでいる」という状態そのものが心地良いのだ。だから何度も読返した本だけれど人に内容を伝えるのは難しい。
この小説に、金沢の人は日々の暮しに「手を掛けることを嫌わない」という話が出てくる。しかし手を掛けた跡が残るのはいけないのだともいう。きっと、この大根鮓だって随分な手間暇が掛っているのだろう。

私が捧げたその人にあなただけよとすがって泣いた

2013年08月30日 | 千曲川とは無関係
今朝の新聞に「天皇に捧ぐ憲法改正」という本の広告が載っていた。
中身には全く関心を持てないが、このタイトルは大いに気にかかる。「捧ぐ」はガ行下二段活用だから、連体形は当然「捧ぐる」でなくてはならない。

あえて「天皇に捧ぐ憲法改正」とした理由を考えてみると、

1,文法の誤り。つまり作者と編集者の無知。
2,「天皇に捧ぐ! 憲法改正」って感じで、切れている表現。
3,「捧ぐる」が正しいことは分かっているが、現代人の語感に「ぐる」はマッチしないという商業的配慮。

いずれにせよ、三島由紀夫が生きていたらご立腹のことだったろう。
ムカシの右翼は真面目に万葉集研究などしたものだったが……。


捧ぐるものなし墓前にて日傘たたむ 津田清子