江戸時代末期の1866年の1月21日、薩摩藩(現在の鹿児島)と長州藩(現在の山口)との間で、政治的・軍事的同盟が結ばれた。
ペリーの黒船が浦賀に来航してから10年。幕府の権威は地に落ち、強い影響力を持った藩である薩摩藩と長州藩は倒幕の思想では共通していたが犬猿の仲であった。西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年、会津藩と組んで長州を京都から追放するクーデタを起こしたり(八月十八日の政変)、これに対して反撃した長州を大敗させたり(禁門の変)、第一次長州征伐で薩摩が長州を屈服させたりするなどし、両藩は感情的に対立していた。
そこで薩摩・長州双方に縁のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎が間に入る形で、双方の実力者の会談をあっせんし、手を握らせようと考えた。下関での会談を西郷隆盛が直前に拒否するという事態もあったが、1866年1月21日に、京都の薩摩藩邸で薩摩の西郷隆盛と家老の小松帯刀、長州の桂小五郎(木戸孝允)が、倒幕運動で幕府との開戦・非開戦および勝敗いずれの局面においても両藩が協力すべきことで協力するなど6か条の同盟が成立した。
双方のしこりと疑念をなんとか晴らそうとした龍馬は、長州藩の「武器」、薩摩藩の「米」という、互いに不足しているものを贈りあうという、独創的な仲介によって、最も険悪な仲であった両藩が高い垣根を越え手を結ぶこととなった。
私、小魔人もかつて訪れたことがあるが、東山の急な登り坂を突き進んだところに霊山歴史館がある。ここには多くの幕末関係物が展示されており、新選組関連の展示もある。また、この博物館に隣接する所には、京都霊山護国神社という、幕末から明治維新にかけて、国事に紛争した志士たちを祀る神社がある。山の斜面におびただしい数の墓がある。中でも特に目を見張るのは、銅像のすぐそばにある標坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓だ。ファンからの千羽鶴やお供え物がいつも絶えないようで、龍馬の根強い人気が感じられた。
世の人は 我を何とも 言はばいへ
我が成すことは 我のみぞ知る
これは坂本龍馬が19歳のときに詠んだと伝えられる歌だ。
「他人に何と言われようが関係なく、自らが信じるところを成す」・・・自分の可能性を信じて、精一杯に生きる、龍馬自身の生き方を物語っている歌だといえる。
たしか、『その時、歴史が動いた』でも、この歌で締めくくってたなあ…。(^▽^)ゞ