勝手に思うままに 榊原秀光のブログ

日頃 思っていることや感じたことを思うままに書きます。

夢ちがい観音 勝手に思うままに 110

2019-09-13 09:00:49 | 平和
知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において陸軍特別攻撃隊
(特攻)という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当
たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。

特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時
日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が
本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、
439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧
基地から出撃しています。

知覧特攻平和会館のロビー展示場入口正面に大きな陶板壁画(高さ3m
幅4.4m)があります。
「知覧鎮魂の賦」 紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を
6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したもの。
この絵を見ただけで目頭が熱くなってきます。

勝手に思うままに 110 夢ちがい観音

知覧町では、特攻勇士が身を以って示された崇高至純の殉国精神を顕彰し、
世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場跡に特攻平和観音堂を昭和30年
9月28日に建立し観音像を安置しています。

 この観音像は、大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」
(悪い夢を良い夢に変えてくれる)を特別のお許しを受けて謹鋳した一尺八寸
(54センチ)の金銅像で、この観音像の体内には千三十六名の特攻勇士の芳名
を謹記した巻物(9m以上)が奉蔵されており、毎年5月3日には知覧特攻基地
戦没者慰霊祭が厳粛に挙行されています。

ここにも、伊勢神宮に行ったとき持ち帰った五十鈴川の水を持っていき、観音
様の御前にお供えさせていただきました。

平和の大切さ忘れない。

今回の慰霊の旅は、太刀洗でも知覧でもたくさん涙しましたが、このブログ書
いているときのほうが泣いている。
いろんなこと思い出しながら、何だか涙もろくなったのかな~。  

勝手に思うままに 109

2019-09-12 09:12:02 | 平和
太刀洗をあとにして、博多へ戻り新幹線で鹿児島中央駅まで
翌日、レンタカーを借りて知覧へ
知覧に行くのは、今回で6度目です。
以前、このブログでも10年位前に藤井一中尉の遺書を紹介さ
せてもらった↓
https://blog.goo.ne.jp/shuwa123jp/e/45e9b86e626b08056da3fab1008535d7 

愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち

勝手に思うままに 109 只一筋に征く

「只一筋に征く」は、第七十二振武隊 荒木幸雄伍長(17歳)
の遺筆です
第七十二振武隊は、自分たちを「ほがらか隊」と名付け、底抜
けの明るさで出撃した少年飛行兵
展示されていた「ほがらか隊」の写真は、出撃を2時間後に控
えながらも17歳の少年飛行兵はあどけない笑顔を浮かべていた。
「俺たちが死んで日本を守る」 17歳~20歳の少年飛行兵の
その苦闘の現実と壮烈なる命の輝きを1枚の写真は教えてくれた。

その写真の中でも素敵な笑顔であった高橋峯好伍長(17歳)
出撃を前にしたある夜、隊員たちは宴会を開いた。最初は、賑や
かに酒を酌み交わしていたが、郷里への心残りを抱いたり、死に
直面して恐怖を感じたりして、涙する者もいた。高橋伍長もその
うちの一人であった。
いくら必死の特攻に志願したからといっても、いざ死を前にする
と誰だって怖くなるのは当たり前だろう。そんな恐怖心を乗り越
えて、多くの若者が出撃した。

展示されている遺書、手紙、日記の多くは母親への思いや感謝の
気持ちであった
生死を超越した若者の真の思いは、母親への感謝が多く感じられた

愛するものを護るため、崇高なる心で「特攻」に身をささげた若者たち 
                 
                          つづく

勝手に思うままに 108

2019-09-11 09:02:24 | 平和
台風の影響で、気温が上昇、暑い日になりました。

今、「戦争するしかない」と言う、国会議員もいますが、絶対に戦争はして
はならないと私は思う。
この平和の碑の前で、広島の原爆ドームの前で、長崎の平和祈念像の前で、
「戦争するしかない」なんて言えますか? 絶対に戦争をしてはならない

勝手におもうままに 108 かたりつぐ

「かたりつぐ」この言葉は、大刀洗平和記念館のパンフレットの真ん中に書
かれた言葉です。
大刀洗平和記念館のホームページ↓
http://tachiarai-heiwa.jp/

入場料を払い場内へ、入り口に立派な男性が立っていたので、なぜか会釈を
してしまいました。
すると、男性は私に近寄ってきて、「どちらからおみえですか?」と、声を
かけてきました。
私は、うれしくなり、平和の碑に行ったことや愛知県から来たことを伝えま
した。その男性は、館長さんでした。 会釈は偶然ではなく、必然だった?

「少し、案内させてもらっていいですか?」と、「ぜひお願いします」
(やったーラッキーマンツーマン)
案内された場所は、床に現在の大刀洗の大きな航空写真のある場所。
大刀洗飛行場は大正8年(1919)に完成し、戦争終結の昭和20年(1945)まで
の26年間、歴史的役割を果たし、昭和20年3月の大空襲で破壊され、終戦
で完全に消滅。
となりにある唯一の零戦を指さし海外で発見され、その帰還の話をしていただ
きました。

戦争末期、悪化した戦局を挽回するために海軍も加わり、陸海軍となったこと、
知覧特攻基地が大刀洗の分校であったこと、いろいろ教えていただきました。 
ありがとうございました
この記念館の天上にあるモニュメントはB-29の実寸台の機体のシルエット、
この当時では桁違いだったのでしょう

この旅のテーマ「絶対に戦争をしてはならない」その戦争という歴史の事実
を後世に伝える貴重な資料です。当り前のようにある今日の平和と繁栄は、
命をかけて国を守ろうとした人々の尊い犠牲、崇高な心があることを忘れない。
「特攻」に身を捧げた若者たちの死を覚悟しながら遺した言葉に触れることが
できました。 つづく

勝手に思うままに 107

2019-09-10 09:37:47 | 平和
久しぶりの書き込みです。
自然災害のニュースが後を絶ちません。その中でも「記録的な」というワードが
とても気になり、その数の多さも不安な出来事です。
今年は、夏季休暇を利用して、九州へ慰霊の旅を予定しましたが、台風10号の
接近で、交通機関がストップしてしまい行けませんでした。
そこで、9月7日と8日でリベンジの慰霊の旅に出かけました。
行先は、福岡県朝倉郡筑前町にある大刀洗と、鹿児島県の知覧です。
2か所とも特攻隊の基地の跡地として平和記念館があります。まずは、大刀洗から

勝手に思うままに 107 平和の碑

この日も台風13号が九州に接近。またかよ~
しかし、大きく西にそれていったおかげで無事に九州に到着。 到着駅は、甘木駅 
甘木鉄道の終着駅。 行先は大刀洗なのですが、小さな無人駅。タクシーを利用し
たかったので、その先の大きな駅(というほど大きくない)へ向かいました。 
少し待つとタクシーがやってきました。 少し強面のドライバーでしたが、やさし
い物腰に、あぁ~よかった。 
熊ヶ山にある平和の碑に行きたいとお願いしたのですが、場所がわからないとのこ
とで、無線で聞くのですが本社でもわからず調べている様子。タクシーを利用して
平和の碑に行く人がいないことがわかりました。

ここは、東洋一といわれた陸軍大刀洗飛行場があり、今から74年前の昭和20年
3月27日と30日、二度の米軍機の大空襲により、600余名の尊い命が奪われ
ました。後に行った平和記念館で映画の上映があり、そこで、空襲を体験された女
性の物語は、女性の孫との会話を通じて、その大空襲により多くの子供たちの命が
失われた「頓田の森の悲劇」を伝えます。 その木柱があった場所に「平和の碑」
が建立されました。

私は、平和の碑に、以前、伊勢神宮に行ったとき持ち帰った五十鈴川の水を持って
いき、碑の御前にお供えさせていただきました。
(この清水をお供えしたくてこの旅をしました)

毎年、平和の碑では3月27日の大空襲のあった日に、戦争の悲惨さを伝えながら、
平和を守っていくことを誓うための「平和の碑のつどい」が行われています。

平和ボケしている私の胸に突き刺さる戦争の悲惨さを、ここに来て心身に感じました。

タクシーに待っていていただき、平和記念館へ
タクシー乗車中にドライバーの方とたくさんお話をいたしました。
別れ際にドライバーから、たいへん勉強になりました、今度、自分も平和の碑に行く
と言って見えました。 つづく