種山壮(shuzanso)NY

ラスベガス編

人望 

2011年11月17日 | 徒然

人が人を信じるという場合、かなり限定なのですが、これで私達の信頼関係は成り立っています。

 

例えば「あの職人は飲む、打つ、買うの仕様がない男だが、仕事だけは絶対に大丈夫」。この職人の全人格に信用を置いてるわけではなく、この人の職人としての技量、職業的倫理感に信用を置いてることになります。

 

私達は全能でなく、善の結晶でもないのです。「様々欠点があるが、こういうことは絶対にしない」。これが人望というものです。

 

またまた、良識や、常識もない、愚かな人間を見てしまいました。羞恥心もない、一体こういう――(彼)を何と呼んだらいいのでしょうか。

 

幾ら考えの違いがあっても礼を失すること許されません。一体この――(彼)の何を信じたらよいのですか。全人格的に否定されてもしょうがないでしょう。

 

早く日本の中枢から消えてなくなって欲しいものです。

 

ここで思い出されるの山本七平さんの言葉

 

 

階級でもなく、出身でも血縁でもなく、もちろんアクセントでもなく、人を評価する場合、「人望」が絶対条件の基準となるいう日本の伝統は、民主主義とは関係のない昔からの基準である、法や制度の変革によって変わらない文化的価値観だと考えねばならない。 (昭和58年『人望の研究』山本七平)

 

 

――(彼)は1117日の参議院予算委員会で自民党の宇都隆史議員から追及され、陳謝したようだが、謝って済む問題ではない。

 

 

参議院予算委員会はここから

 

http://www.youtube.com/watch?v=MMI3MCCWbUE&list=HL1321580212&feature=mh_lolz

 

 

私達はブータン国王ご夫妻の人柄にひかれました。ご夫妻とも英語堪能でいらっしゃる。若い国王夫妻に導かれるブータンという国の将来が輝いて見ます。

 

 

 

 

 


大阪ダブル選挙

2011年10月25日 | 徒然

今、大阪で日本の近代政治史上大きな変化に成り得る、力が動き始めたようです。

 

大阪にはこんにち、日本が抱える数々の問題が凝縮されてるようです。

 

そのひとつが教育問題です。

 

橋本知事はある府民との会合で下記のように発言してます。

 

僕が考えている学力というのは、子供たちがちゃんと社会に出て壁にぶつかった時に、自分の頭で考えて その壁をのり越えるだけの能力、これが絶対に必要なんです。そのためには子供たちに分かる、できる、自分は分かるんだ、自分はできるんだということを繰り返し、繰り返し積み重ねをして、子供たちにその体験をさせることがどうしても必要なんです。

 

子供たちが途中で自分は分からない、自分はできないとなった途端に自分の将来に夢や希望は持てなくなります。

 

大阪の子供たち、夢や希望を持ってない子供たちの率がものすごく高いんです。大阪ものすごく高い、やっぱりちゃんとね子供たちにはしんどいかもわからないけど、最初に基礎中の基礎の部分は積み重ねないといけない。

 

これが小学校4年、5年、6年、中学校になって学校にいきたくなくなる。大阪の中学生、犯罪率一番高いです。学校にいきたくない、ドロップアウトしてしまう それは途中で自分はできないんだ、わからないんだということで自暴自棄になってしまう。

子供たちに夢や希望を捨てさせないためにも僕は必ず学力から真正面に取り組んで今のこのような教育のね--------

 

 

昭和期の文芸評論家の故亀井勝一郎氏をご存知の方は多いと思いますが、1965年発行の「人生と幸福について」に人間の価値の条件の第一は自分の頭でものを考えることだと言ってます。

 

様々の事件に対しても他人に対しても、分からない点があったら、どこまでも疑問をもつことだ。「何故か?」という問いをいつまでも失ってはならない。そして、わからないことは、わかりませんと、はっきり言うことが、人間の価値をかめる第一歩である。人間として価値を低める第一歩は,盲従である。或いはあっさりレッテルをはって、それで理解したように思いこむとき、人間は実は動物にひとしい。考えることが、人間の価値を決定する。

 

 

府知事として橋本さんが幾ら頑張っても、指令都市という名に阻まれ、何の改革も出来ない状態です。二重行政の問題は何も大阪だけではないようですが。

 

教育行政

地方教育行政の組織及び運営に関する法律には、指定都市に関する特例が定められている。指定都市の県費負担教職員の任免、給与の決定、休職及び懲戒に関する事務、並びに研修は、当該指定都市の教育委員会が行う。

 

ここで思い出されるのが司馬遼太郎の「歴史の世界から」(中公文庫)の一節。

 

大阪城をとって天下を得た徳川氏は、大阪城をすてて天下をうしなった。

 

この巨城は、信長以来、つねにあたらしい権力者の目標となり、史上数度もその総攻撃の前にさらされた。しかも、武力によって堕ちたことは一度もなく、つねに政治情勢の変化のために前時代の主権者は、この城を、出ざるをえなかった。

 

この城が開城するとき、日本史はそのつど、つねに一変した。ふしぎな城ではないか

 

 

上はいささかこじつけの感がありますが、橋本氏が投じた一石の波紋の広がり、大阪市民がどのように判定を下すか大いに興味深いことであります

 


歴史に見る人の光明 

2011年10月22日 | 徒然

Aの数字は数字の後に記した人々の享年です。達磨と老子ははっきりしてないみたいです。

 

Bの数字は後に記した時代の平均寿命です。古代におけるそれらは専門家が遺骨などを科学的に調査した結果だそうで、大体このとおりと見て間違いないみたいだそうです。ヨーロッパ19世紀と日本の明治以降は確実な記録に基づいてます。

 

A: 80 - 釈迦, 70 - ソクラテス, 160(?) - 達磨, 200(?) - 老子, 70-孔子, 61-空海, 55 - 最澄, 87- 一休, 79 - 法然, 90 - 親鸞, 54 - 道元, 107 - 天海,  73 - 良寛

 

B: 18 - 古代ギリシャ, 20 - 古代ローマ, 35 - 17世紀ヨーロッパ, 40 -19世紀ヨーロッパ, 14.6 - 縄文時代, 15.2 - 室町, 20.3 - 元禄, 44 - 明治, 50 - 昭和15年

(「親鸞の大瞑想」1996年)

 

Aに上げた人々はその時代の平均寿命を考えると大変長生きであります。きっと類い稀なる頑強な肉体の持ち主だったのでしょう。

 

親鸞は席を暖める暇もないほどの伝道師と言われるほど、あちこちと飛び回っていたようで、肉体的にも、精神的にも並はずれたパワーの持ち主であったようです。

 

徳川家康も享年75才で亡くなってます。当時としては大変な長生きであります。あの戦乱を生き抜き、日本の覇者になりました。

 

故土光敏夫氏と故松下幸之助氏は時を同じく明治生まれで、明治、大正、昭和の三時代を生きた偉大は実業家と経営者です。ほぼ同時期、土光氏が昭和63年、92歳 松下氏が平成元年、95歳で亡くなってます。

 

「空気の研究」で知られる山本七平氏は(「にっぽんの商人」昭和50年)で次のように書いてます。

 

現在日本で活躍している大商人たちは、みな大学者に相違ない。この人たちは常に「私はこう思い、こう実行します-----。これはマルクスも言っておりませんし、ケインズも言っておりませんし、西欧の大経営学者も言っておりません」-----

 

写真で見ると大商人松下幸之助氏などは、まさに大学者如き柔軟な思考力を示す風貌である。

 

 

類い稀なる頑強は肉体の持ち主は精神活動もまた頑強であることは間違いないようです。そして世の中からはみ出すだけの勇気と実行力を持った人間のほうが確立として光明に近いと言えるのかもしれません。

 

 

 

 


この数字何?

2011年10月19日 | 徒然

ちょっと数字の問題です。これらの数字は何だと思われますか?

 

人生とは何ぞや? 何年生きられる? いやはや、難しい問題です。沢山の偉い人たちが考えました。

 

A: 80, 70, 160(?), 200(?), 70, 61, 55, 87, 79, 90, 54, 107, 73, 73

 

B: 18, 20, 35, 40, 14.6, 15.2, 20.3, 44, 50

 

 

答えは次回のブログエントリーで。

 


復興をなしとげる精神

2011年10月15日 | 徒然

 

復興を支える若者の起業 2011 10.03 産経

 

東日本大震災からの復旧復興をめぐる政府や国会の対応は議論ばかりが続き、実行がなかなか伴わない。そんな政治を尻目に、市民から少額の投資を募る「市民ファンド」の広がりや若者らの起業が、民間の自律的復興を支えている。

 

 ――――中略――――

 

それに比べて、政府が省庁横断と銘打って雇用調整助成金の拡充などを柱に震災直後から始めた「しごとプロジェクト」はどれだけ具体的な新規雇用を生み出しているのだろうか。

行政に望むのは地域の核となる民間の自助努力の動きを柔軟に支援していく発想への転換である。

 

 

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111003/biz11100307530000-n1.htm

 

 

 

ここで思い出されるのが故松下幸之助氏の「日本と日本人について日本の伝統精神人間を考える - 1982年」

 

戦後の復興をなしとげた精神

 

 

終戦当時の日本においては、多くの日本人は住む家もなく、着るに服なく、又その日の食べ物にさえ事欠くと言った状態でした。日本人は、焼け野原に立ちつくし、瓦礫の山を前にして、呆然としてなすすべを知らないような有様でした。けれど、やがて日本人は気をとりなおし、勇気をふるいおこして、わが家を、わが町の、そして日本の復興、再建にとりかかったのです。

 

その復興をおし進めるにあたっては、もちろん、幾多の困難な壁というべきものがありました。しかしそれらの壁を一つひとつのり越え、一歩一歩再建ををすすめてきたのです。その結果、一面において、世界の人々がおどろくほどの立派な姿にまで、日本を復興発展させることができたわけです。

 

そのような復興発展をおし進めてきた力といいますか、原因はどういうものだったかといいますと、考え方はいろいろありましょう。日本の教育水準なり、教育の普及度が高かったこともあるでしょうし、また、アメリカはじめ諸外国の援助によるところも、非常に大きなものがあったにちがいありません。その他さまざまの原因が考えられると思います。

 

けれども、いちばん大切な、忘れてならないことは、復興に取り組んだ当時の日本人自身の心の中に、お互いをしてふるい立たしめる何ものかがあったということではないでしょうか。困難にもめげず、歯をくいしばって奮起し、努力せしめる何かが、日本人自身の心の中にあったからこそ、戦後のわずかかに間に世界がおどろくような復興再建がなしとげられたのだといえましょう。現に、戦後の政界において、日本と同じように外国の援助を受けた国は多くありますが、そういうものを日本ほど生かし得た国はないと思います。その姿一つをみても、そうしたことがいえるのではないでしょうか。

 

そして、その日本人の心の中にあったものこそ、これまで述べてきたような、長い日本の歴史を通じつ培われ、いつの時代の人びとの心の中にもあったとおもわれる、日本人としての伝統の精神、いわゆる日本精神ではないでしょか。