クリスマスの季節、改めて聖書を読んで気づかされたことがあります。「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使のお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリザベトの家に出かけました。高齢で不妊であったエリサベトが、神様の奇跡で妊娠したということを聞いたからでしょう。マリアは予告なしに、エリサベトを訪問したわけですが、彼女はマリアから「おばさん、こんにちは!」(予想です)と挨拶を聞いた時、胎内の子が喜んで躍ったことを感じ、マリアが救い主イエス様を胎内に宿していることを聞く前に、「主のお母さまが来られるとは!」とマリアに与えられた恵を知っていったとは、驚くべきことだと思わされました。エリザベトはマリアに起こっていることを聖霊によって知らされて「わかってしまった」わけです。救い主イエス様が生まれることの喜びが、聖霊により、胎内にいる赤ちゃんにも、エリサベトにも伝えられたとは、不思議なことです。しかもマリアが「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)とみ使いに言ったことも、マリアが何もいわなくともエリザベトはわかって、「主なる神様が『こうなる』と言われたことを疑わずに実現すると信じたあなたは幸いだわ!」と感極まってマリアに言ったのでしょう(ルカ1・45)。
私たちも御言葉を通して、神様の約束は必ず実現すると信じる信仰が与えられているので、実は同じように幸いなのです。その約束は、主イエス・キリストを信じれば救われ、永遠の命が与えられるということ(ヨハネ3・16)、また信じると聖霊が与えられ(ヨハネ14・16)、上記のエリサベトのように理性や知識を超えた方法で、聖霊により示される(ヨハネ14・26)ということです。つまり個人的に神様から啓示されたことを、頭の知識としてではなく、自分の身に受け止められる(信じられる)ということを体験することができます。
また、この信仰により地上の生活が、困難であっても、いつか再びイエス様が来られ、完全なものが来るという希望が与えられ、励まされてこの世を生きていくことができます。この希望がクリスマスの喜びでもあります。クリスマスは、神様が神の子であるイエス様をこの世に人として送った出来事であり、その命を十字架上で犠牲にするほどに、神様が私たちを愛してくださっていることを表しています。その愛を受け取ると信仰が与えられ、希望が与えられるからです。そして神様とイエス様との霊の交わりに、与えられた聖霊によって私たちをも招いて下さります。この愛の中に、感謝と喜びを持って日々歩んで参りたいと思います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13・13)。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 ルカによる福音書1章45節