「俺もすてたもんじゃないな、と思えた。」
これはあるホームレスの方が、ハープによる演奏と歌を聴いて、その感想を後から手紙でつづった中の一言です。彼は、おそらく生きることになんらかの絶望感を抱き、社会生活から身を引いて路上生活をされていたのだと思います。そんな彼が、たまたま山谷にある施設でのハープの演奏の会に飛び入りで参加し、心が癒されたのではないかと察します。
先日、リラ・プレカリア(祈りのたて琴)といって、病床にある方や、精神的な痛みを抱えている人のもとに訪問して、ハープの演奏と祈りを届ける活動をしている方の講演を聞きました。ハープの音色を聴くだけでも素晴らしかったのですが、演奏者の方々はラテン語の歌を歌います。それはあえて歌詞を理解できない曲を用いる、つまり思い出のある歌等を用いず、心を解放するためになじみのないケルト系の子守歌、テ-ゼ、グレゴリオ聖歌を、利用者の呼吸に合わせて歌を奏でるそうです。つまり、音楽を導くのは利用者自身だそうで、相手に合わせてハープを奏で、歌を歌い、沈黙の時間も持たれるそうです。その利用者に与える影響は、深く、大きく、そして静かにその人の魂の深いところに、言葉を超えた方法で届くそうです。
古代のイスラエルの王であったダビデは竪琴の奏者であり、シンガーソングライターでした。彼の歌は詩編という聖書の書簡にたくさん記されています。私たちは詩編を読み、その詩を神様への祈りとしてとらえることが出来ます。その内容は、悲しみ、怒り、恐れなども含み、正直な感情や思いを神様に訴えていますが、どんな状況にあっても助けて下さる神様への信頼、感謝が含まれています。人生に絶望的になっている方、心の病気で苦しんでいる方、身体の疼痛で苦しむ方がこのハープを聞いて癒されるのと同じように、私たちも聖書の言葉を読み、聞き、そして賛美の歌を歌うことで生活の様々な局面で、励まされ、助けが与えられ、そして慰められます。聖書のことばは、私たちの生きる力となります。そして、聖書の言葉を深く理解し、自分への言葉として受け止めるには、神様の霊(聖霊)が必要です。
この路上生活者の方は、それが直接の聖書のことばではなくとも、演奏者が祈りをもって届ける音楽を通して、神様の霊が彼の心に触れたからこそ、人生を捨てて生きる以外の、自分の道があると悟ったのではないでしょうか。神様が愛するために造られた人間を、神様は決して見捨てられません。私はハープは弾けませんが、神様の御言葉を機会があるごとに、一人一人に届けていきたいと願います。
「【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】
神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。
心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。
高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます」
詩編61編1-5節 (新共同訳聖書)