聖書箇所 ヨハネの手紙Ⅰ 1:1-4 タイトル 「喜びが満ちあふれるために」
ヨハネの手紙の著者は1節「初めからあったもの」イエス・キリストを証しし、伝えるといっています。この「初めから」という書き出しは、創世記1章1節「初めに、神は天と地とを創造された」及びヨハネによる福音書1章1節「初めに言があった」が反映しているとされます。そして初めから永遠に存在し、神と共におられる言であるイエス・キリストによってこの世にもたらされた「命の言」について、また「今」という時に、私たちは永遠の命を預かる恵みを得ている(5:13)ことを伝えるためにと序文で述べています。ヨハネにとって、永遠の命とは、この体が死んでから与えられるもの、将来天国に行ったときにいただくものではなく、キリストを信じた時から与えられている命であることを記しており、またそれはイエス様ご自身がヨハネによる福音書にて言われていることに基づきます(ヨハネによる福音書6:47)。現代に生きる私たちはキリストの福音を信じ、キリストを信頼することによって、新しく神から生まれた者として、御父と御子の交わりにいれられることで永遠の命を「今」経験できます。この交わりにおいて私たちの新しいアイデンティティ「自分は何者か、どこから来たのか」がわかり、神の家族として新しく生まれることになります。
この「交わり」とはつながっている、結ばれているとも言い換えられでしょう。キリストを信じれば御父と御子イエス・キリストとつながり、これを基に信徒同士のつながりを持つようになり、この交わりゆえにわたしたちの喜びが満ちあふれるようになると記しています。神との交わりを持ち、御言葉に従うよう歩めば誘惑と罪に負けないように、抵抗できるように神は私たちを変えてくださる、つまり、光の中を歩めば、罪を犯さないようになっていき、たとえ罪を犯したとしても御子イエスの血によって罪から清められる(7節)ことを記しています。
光の中を歩むことを具体的には兄弟を愛することと記し(2章10節)、互いに愛し合うことを何度もこの手紙の中で奨励しています。このことはイエス様ご自身がヨハネによる福音書15章で弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われ、木であるイエス様につながって、実を結ぶようにと話された箇所です。つまり、実を結ぶということは互いに愛し合うことであり、イエス様につながっているから可能となる、そして互いに愛し合えることでイエス様の喜びが私たちにも与えられるので、喜びで満たされるとイエス様は言われました(ヨハネによる福音書15章11節)。教会生活の交わりにより、私たちの信仰は支えられ、共に祈り合える兄弟姉妹がいかに大切であるかと実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、それによって永続する喜びが満ち溢れるという、恵みの体験を、他の人に伝えることができます。
先日、ドキュメンタリー映画を観ました。都内にある児童養護施設に入所している子供たちの、心の動きや語る言葉に焦点をあてたドキュメンタリー作品で、「人のつながり」について考えさせられる作品でした。施設という、血がつながらない人々との共同生活、しかし家族とも他人ともいえない「つながり」を持つ中で成長していく子供たちの一年を追った内容です。日本には施設等で暮らす社会的養護が必要とされる子どもたちが、4万2千人(2024年時点)もいるとのことです。
つながりは大切です。教会という共同体が、血はつながっていなくとも、自分たちを造られ神様を信じ、神様が天の父であるという、神の家族としての自分を認識し、互いに愛し合おう、お互いをケアし、支え合おうとする共同体となれたらと思わされました。私自身も教会生活での交わりにより私の信仰は支えられ、同じキリストを信じる信仰を持つ仲間とのきずながどんなに大切か実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、その交わりで喜びが満ち溢れるという恵みの体験を、他の人に伝えることができます。
一方で、教会の人数が多くなり、ただ礼拝に参加し食事をともにしているだけでは仲がよいのですが、奉仕を共にチームでしていくようになると、皆それぞれ個性があり、育ってきた環境や考え方が異なるため意見もぶつかることもあります。相手のちょっとした態度や発言に傷ついて、感情を害しもう関わりたくないと思うこともあるかもしれません。ひどい場合には、教会をさって別の教会にいってしまうという現象があります。しかし、神様は私たちに聖霊を通して、神の愛による平和を持ちなさいと、互いに愛し合いなさいと導かれます。わたしたちが御言葉を示されて、感情的には従いたくなくとも、それでも従おうとするのは、強制的ではなく、自分がどれだけ神様から愛されたか、忍耐してもらったかを思い返すからです。結局、赦せない相手が心の中にいると、その人に対する苦い思いが他のよいことや喜びを蝕んでいきます。
日常生活の中で、TVのニュースを見ていても愛せない相手が毎日のように現れます。先日TVのニュースを見ていて子を虐待をする親が、「自分は悪くない」と裁判で言っているのを聞いて思わず他人ながら「赦せない!」と言ってしまいました。ましてや当事者である虐待を受けて苦しんできた子が、虐待してきた親を赦せるようになれるのでしょうか。無差別に通り魔的に自分の子供が殺害されたら、その親は犯人を赦せるのでしょうか。一方、自分が発した言葉、態度が、まったく悪気がなくとも、相手が悪くとらえて傷ついてしまう場合もあります。人は人生において加害者にも被害者にもなり得るのです。関係がこじれると、こちらが謝っても赦してくれないことは多々あります。
しかし、神様はその赦せない思いに苦しむ、過去の傷で喜びが心にもてない人々のことも理解してくださる、憐れみ深い、やさしい方だと信じます。そして、加害者が悔い改めることを、神様は望んでおられる。両者とも同じ神様が創られた人間であるゆえに。そんな、加害者でも被害者でもすべての人が苦しんで悩んでいるこの世を、神様は憐れみの心を持って、御子イエス・キリストを通して救おうと決めてくださったのです。その愛がイエス様の十字架に現れています。
愛するとは赦すことです。教会内では主イエスを信じている者同士では、この同じ「互いに愛し合いなさい」とイエス様が言われたことをやろうとできますが、キリストを知らない人とは、キリストの言う愛をしらないので「互いに」が出来ません。それでも、イエス様は律法の中で大切な2つの戒めとして「主なる神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われたように、隣人がクリスチャンでなくとも、その人を愛するようにイエス様は求めておられます。これは、聖霊の助けが必要ですし、神様の愛が注いでいただく必要があります。もし愛せない相手が自分の前に置かれても、イエス様の名によって天の父に助けを願えば、何でも与えられるとの約束(ヨハネによる福音書15章16節)が、大きな励ましであります。現実的に他者を愛することをできない場面があって落ち込むこともあるかもしれません。しかし、出来ない私たちの為に、イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのです。自分の力で互いに愛せる人がいれば、イエス様の十字架の贖いは必要ないのです。たとえ赦せない相手がいても、相手が自分を赦しくれなくとも、諦めないで、いつか、神様が両者の心に聖霊を通して和解を導いてくださることを信じて、委ねていきたいと思います。相手の心を自分が変えることはできないですが、神様がこのことを取り扱ってくださると任せられたとき、心の重荷が軽くなれるのは幸いです。
「神に願うことはなんでもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心にかなうことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(ヨハネの手紙1 3章22-23節)御父と御子の交わりに自分自身も入れて頂くことで、私たちが御心に適うことを求めるように変えられます。すると、御心にかなった祈り、互いに愛し合えるように助けてくださいという祈りを神様は必ず答えてくださるとの約束を信じ、そして神様の愛が私たちを通して他者へ流れ出るよう、そしてキリストの内に喜びがあふれ続けるよう、共に祈り続けていきたいと思います。そして、今特につながりを求め、孤独でいる子供たち、大人たちがイエス様の愛に出会い、自分たちが愛されている神の子どもであることを御言葉に触れて知る機会がこの日本においてもなんとか与えられるよう願つつ、自分たちが何ができるか神様に祈っていきたいと思います。