エッセイ
耽美派の作家、蠏崎駿一郎の全集が、書庫にある。
蠏崎が古希を迎えた記念に、中央総論社が出版した、全27巻、函入り布装の立派な本である。
神保町の古書店で見つけたときは、嬉しくて、踊りだしたいほどであった。
お目当ての作品『春宵』は、第7巻に収録されている。
蠏崎の短編の中で、一番好きな作品だ。
この全集が喉から手が出るほど欲しかったわけは、各巻に色刷りの挿絵がついていることだ。
日本画の大家、小出秀人、安曇春菊、伊東瑞縁などが、腕を振るっている。
文豪、蠏崎の古希を祝って、日本画壇の重鎮たちが腕を振るった、豪華な企画であった。
特に、伊東が『春宵』のために描いた挿絵は有名である。
時代は、昭和の初期。
裕福な商家の嫁入り前の娘、千勢が、歌舞伎役者中村春駒に恋情を抱く。
それを知った春駒は、千勢を鴛鴦池わきの小さな町家に連れ込み、犯してしまう。
生娘をおんなにすれば終いのつもりであった。
娘のうつわは、春駒が味わってきた数々のおんなたちのどの持ち物よりも、名器であった。
家に帰りたがる千勢を手放すわけにはいかぬ春駒は、着物の紐で千勢を縛り上げる。
許しを乞う千勢に手ぬぐいで猿ぐつわをかませる。
目を潤ませ、すすり泣く千勢。
着物のすそがはだけ、ふくらはぎがあらわになる。
桃色の肌襦袢。
緊張して反り返っている足袋の先。
春駒は、足元に横たわる千勢の姿に欲情し、美しさに見とれながら、手淫をしてしまう。
伊東瑞縁は、畳に横たわる千勢を、痛々しく、儚げに、描いているのだ。
これほど美しい緊縛図を見たことがない。
伊東画伯は、蠏崎のために、さらに2枚、絵を描いたという噂がある。
その絵では、春駒の腕が、着物のすそを掻き分けて、太ももをむき出しにし、指を千勢の引き裂かれたばかり
の陰裂に挿しこんでいる。
指の付け根は、破瓜の名残の血で、赤く染まっている。
千勢の目元には、恥じらいと、かすかな悦びが現れているという。
あと1枚は、春駒の名に恥じぬ色白の肌に似合わぬ黒々とした巨根を、千勢の背後からぶっすりと挿入してい
る図である。
春駒の手は、はだけた着物からこぼれだした乳房をもてあそぶ。
千勢のほつれ毛が頬にかかる。
わずかに開いた唇からは、肉の悦びを知った娘のあえぎ声が聞こえてきそうだ、という。
蠏崎の遺族も、伊東画伯本人も、中央総論社も、この絵の存在を否定しているが、誰も信じていない。
もちろん、もっと以前に、緊縛図を見たことはある。
小学5年生か、6年生のころだった。
母親の書棚に、隠すようにしまってある、大人向けの大衆小説誌を見つける。
一目で隠微な読み物であることがわかる色使いの表紙。
巻頭に、色刷りの挿絵入りの短編小説。
東海道を江戸へ下っていく武家の妻と娘を、人気のない松林に連れ込んで、手篭めにする駕篭かきたち。
おびえる女、野獣のような駕篭かきたちの顔。
ふんどしの前が大きく膨らんで、陰茎がそそり立っているのがわかる。
4人の男が、かわるがわる母娘を犯す。
子供には、強烈な絵だった。
それが始まりだった。
きわどい挿絵、露骨な写真をたくさん見てきた。
なかでも、伊東瑞縁の絵は、心の奥底にしみこんだ。
色彩、構図、ディテールが、露骨な絵よりもはるかに想像力を掻き立てて、私をとりこにしてしまったのだ。
同僚の、国文学者、澤井源衛は、蠏崎の研究家で、上に書いた《幻の》2枚の絵を、蠏崎の未亡人に見せても
らったと自慢そうに話してくれたが、嘘だと思っている。
私が、『夜半の雫』のナマ原稿、『清滝交歓』『鍵』『夢の浮橋』の初版本を持っていることをやっかんでのこと
だ。
こういうことは、公表すべきではないが。澤井、許せ。
有名な、ボストン美術館、ワルシャワ日本美術館の浮世絵のコレクションも見てきたが、私には、この伊東瑞
縁の『春宵』に勝る絵はなかった。
SM愛好家には、独特のこだわりを持つ傾向が強いように思われる。
偏狭といってもいいほどのこだわりを感じることがある。
ある種の行為に傾倒する一方で、別の行為は激しく嫌悪する。
SMに関心がないひとからすれば、五十歩百歩なのだろうが、当人にすれば、紙一重の違いは、千歩の違いな
のだ。
私は、鞭にこだわりがあって、仕上がりが美しく、適度な重みがあって、手になじみ、私の身体の一部分とし
て、M女を打ち据える悦びを与えてくれる、工芸品のごとき作品を求め続けている。
欧州旅行の際に、必ず求めてくるのだが、なかなか、これというものに出会えない。
気に入らなければ捨ててしまうので、コレクションには、わずか3本しかない。
ローソクは、パートナーが最も怖がるものであるが、やがて、彼女から求めてくる日も来ると確信している。
体と、そして心の訓練には、時が必要なのだ。
焦ると、苦労が水泡に帰す。
愛情を示さない男から責められても、ただ苦痛なだけだろう。
サディズムの語源になっているサド侯爵は、しかし、暴力のひとだった。
あくなき情熱で、暴力的セックスを追及した。
《ジュスティーヌ(悪徳の栄)》、《美徳の不幸》、《閨房哲学》など澁澤龍彦の翻訳で目を通した。
あの饒舌には、正直、うんざりした。
長い間の監獄生活の間に執筆したのだから、時間はたっぷりあったわけで、あの膨大な作品群に仕上がったの
だろう。
率直に言って、付き合いし難い。
ただ、サディズムの行き着く先をはっきり示してくれていることは、見落とすわけにはいかない。
耽美派の作家、蠏崎駿一郎の全集が、書庫にある。
蠏崎が古希を迎えた記念に、中央総論社が出版した、全27巻、函入り布装の立派な本である。
神保町の古書店で見つけたときは、嬉しくて、踊りだしたいほどであった。
お目当ての作品『春宵』は、第7巻に収録されている。
蠏崎の短編の中で、一番好きな作品だ。
この全集が喉から手が出るほど欲しかったわけは、各巻に色刷りの挿絵がついていることだ。
日本画の大家、小出秀人、安曇春菊、伊東瑞縁などが、腕を振るっている。
文豪、蠏崎の古希を祝って、日本画壇の重鎮たちが腕を振るった、豪華な企画であった。
特に、伊東が『春宵』のために描いた挿絵は有名である。
時代は、昭和の初期。
裕福な商家の嫁入り前の娘、千勢が、歌舞伎役者中村春駒に恋情を抱く。
それを知った春駒は、千勢を鴛鴦池わきの小さな町家に連れ込み、犯してしまう。
生娘をおんなにすれば終いのつもりであった。
娘のうつわは、春駒が味わってきた数々のおんなたちのどの持ち物よりも、名器であった。
家に帰りたがる千勢を手放すわけにはいかぬ春駒は、着物の紐で千勢を縛り上げる。
許しを乞う千勢に手ぬぐいで猿ぐつわをかませる。
目を潤ませ、すすり泣く千勢。
着物のすそがはだけ、ふくらはぎがあらわになる。
桃色の肌襦袢。
緊張して反り返っている足袋の先。
春駒は、足元に横たわる千勢の姿に欲情し、美しさに見とれながら、手淫をしてしまう。
伊東瑞縁は、畳に横たわる千勢を、痛々しく、儚げに、描いているのだ。
これほど美しい緊縛図を見たことがない。
伊東画伯は、蠏崎のために、さらに2枚、絵を描いたという噂がある。
その絵では、春駒の腕が、着物のすそを掻き分けて、太ももをむき出しにし、指を千勢の引き裂かれたばかり
の陰裂に挿しこんでいる。
指の付け根は、破瓜の名残の血で、赤く染まっている。
千勢の目元には、恥じらいと、かすかな悦びが現れているという。
あと1枚は、春駒の名に恥じぬ色白の肌に似合わぬ黒々とした巨根を、千勢の背後からぶっすりと挿入してい
る図である。
春駒の手は、はだけた着物からこぼれだした乳房をもてあそぶ。
千勢のほつれ毛が頬にかかる。
わずかに開いた唇からは、肉の悦びを知った娘のあえぎ声が聞こえてきそうだ、という。
蠏崎の遺族も、伊東画伯本人も、中央総論社も、この絵の存在を否定しているが、誰も信じていない。
もちろん、もっと以前に、緊縛図を見たことはある。
小学5年生か、6年生のころだった。
母親の書棚に、隠すようにしまってある、大人向けの大衆小説誌を見つける。
一目で隠微な読み物であることがわかる色使いの表紙。
巻頭に、色刷りの挿絵入りの短編小説。
東海道を江戸へ下っていく武家の妻と娘を、人気のない松林に連れ込んで、手篭めにする駕篭かきたち。
おびえる女、野獣のような駕篭かきたちの顔。
ふんどしの前が大きく膨らんで、陰茎がそそり立っているのがわかる。
4人の男が、かわるがわる母娘を犯す。
子供には、強烈な絵だった。
それが始まりだった。
きわどい挿絵、露骨な写真をたくさん見てきた。
なかでも、伊東瑞縁の絵は、心の奥底にしみこんだ。
色彩、構図、ディテールが、露骨な絵よりもはるかに想像力を掻き立てて、私をとりこにしてしまったのだ。
同僚の、国文学者、澤井源衛は、蠏崎の研究家で、上に書いた《幻の》2枚の絵を、蠏崎の未亡人に見せても
らったと自慢そうに話してくれたが、嘘だと思っている。
私が、『夜半の雫』のナマ原稿、『清滝交歓』『鍵』『夢の浮橋』の初版本を持っていることをやっかんでのこと
だ。
こういうことは、公表すべきではないが。澤井、許せ。
有名な、ボストン美術館、ワルシャワ日本美術館の浮世絵のコレクションも見てきたが、私には、この伊東瑞
縁の『春宵』に勝る絵はなかった。
SM愛好家には、独特のこだわりを持つ傾向が強いように思われる。
偏狭といってもいいほどのこだわりを感じることがある。
ある種の行為に傾倒する一方で、別の行為は激しく嫌悪する。
SMに関心がないひとからすれば、五十歩百歩なのだろうが、当人にすれば、紙一重の違いは、千歩の違いな
のだ。
私は、鞭にこだわりがあって、仕上がりが美しく、適度な重みがあって、手になじみ、私の身体の一部分とし
て、M女を打ち据える悦びを与えてくれる、工芸品のごとき作品を求め続けている。
欧州旅行の際に、必ず求めてくるのだが、なかなか、これというものに出会えない。
気に入らなければ捨ててしまうので、コレクションには、わずか3本しかない。
ローソクは、パートナーが最も怖がるものであるが、やがて、彼女から求めてくる日も来ると確信している。
体と、そして心の訓練には、時が必要なのだ。
焦ると、苦労が水泡に帰す。
愛情を示さない男から責められても、ただ苦痛なだけだろう。
サディズムの語源になっているサド侯爵は、しかし、暴力のひとだった。
あくなき情熱で、暴力的セックスを追及した。
《ジュスティーヌ(悪徳の栄)》、《美徳の不幸》、《閨房哲学》など澁澤龍彦の翻訳で目を通した。
あの饒舌には、正直、うんざりした。
長い間の監獄生活の間に執筆したのだから、時間はたっぷりあったわけで、あの膨大な作品群に仕上がったの
だろう。
率直に言って、付き合いし難い。
ただ、サディズムの行き着く先をはっきり示してくれていることは、見落とすわけにはいかない。
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