四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

女性の安全対策 洗濯物の工夫

2010年02月01日 15時41分11秒 | 事件・事故・自殺
あまりニュースでは言わないが、ものすごく件数が増えているのが、千葉大学学生が殺害されたように、部屋に上がり込んで強姦する事件である。

これは通りすがりだけの事件ではなく、下見をされたり、たまたま町中や電車の中で目を付けられ尾行され様子をうかがって隙があれば狙うというタイプである。だいたいお忍び犯罪は知能犯が多い。特に洗濯物の種類を隈無くチェックする。

独身女性の一人暮らしは年齢に関係なく洗濯物を外に出す場合には注意しなければならない。下着類は一切出さないこと、必ず男物を干すこと、それもガテン系の服装で地下足袋やニッカズボンを吊すとよい。できるだけ大男が着そうなものが威圧感があってよい。そして玄関にも必ず男物の汚れた靴なども並べておくことである。ベランダには大きめの黒の長靴など常に置いておくと、ここは男が居るなと用心する。あるいは部屋のなかに男のマネキンを起き、電灯の影になるように窓側に立て、時々移動させてみるのも良い。分単位でオン・オフできるタイマーがあるので、それで夜中もランダムに電灯がつくようにセットするとか、外出するときも電気は点けてでるとか、いろいろに工夫しなければならない。赤外線監視装置が秋葉の秋月電子で売っているから電気回路に詳しくなくともビデオデッキに接続するだけで使えるものもある。

マネキンは融通性が低いので、ベニヤ板で人間の形をそれぞれ頭や腕や足が動くものを作り、それらを動かせると人形影絵のように少しリアリティーのある演出ができる。

とにかく、最低限自分の身は自分で守るようにしなければならない。世の中益々物騒になる。無縁社会では目の前で事件が発生していても、誰も守ってはくれない。わたしもかなりそういうことを経験している。

井上陽水の『曲がり角』の詞ような社会状況は常に曲がり角ごとに起こりえるのである。


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子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

紅梅がほぼ満開

2010年02月01日 15時16分08秒 | 自然
図書館の帰り公園の中を通ったら、梅が満開になっていた。昨日は1月31日であるから、随分早い開花である。そういえばここ何日もストーブ無しでも過ごせたのでいかに暖かくなっているかである。

これだけ気候が変化すると、今年は予期せぬ出来事が沢山おきるはずである。
世の中ではCO2削減やリサイクルを叫んでいるが、とにかく諸悪の根元は田中正造がいうように電気を使うことにある。

原子力発電所も水力発電所も電気を起こすために作られている。
電車を走らせるためや自動車を走らせるために電気は欠かせない。電車も自動車も工場で作られ、電気無くしては生まれない。

コンピュータにしてもテレビにしてもあらゆる機械が工場で生まれてくる。
そのためには莫大な電気が必要となる。いくらエコ表示されても作られる段階で莫大な電力を使って生まれてくるのである。

ビニール袋を減らしてエコバッグを使うにしてもそれらは電気をつかって最初に生み出される。

山間部の秘境といわれる旅館などに泊まると電気が来ていないところがある。
夜間の照明は灯油ランプが主役である。煮炊きものは薪を使う。冬の暖房は掘り炬燵に豆炭行火、練炭ストーブなどで間に合わせる。昔は火鉢や七輪で暖房をとっていた。ただし、密閉された今の鉄筋やプレハブ住宅は隙間風が入らないから一酸化炭素中毒の危険性がある。暖房効果が高いと使われるのはエアコンなどの電気暖房になってしまう。それだけ新しい熱効率の高い住宅は電気と密接に関係を持っている。

わたしのところは、魚と焼き肉は部屋に煙が充満するので耐火煉瓦を組み立てて中に炭を入れ秋刀魚を焼く。幾ら煙が出ても外であるから問題は無いが、屋根から濛々と煙が上がっているように見える角度では消防署に通報される場合がある。とにかく都会では秋刀魚は煮て食べなければならないようだ。

あらゆる面で便利さは何かおもしろさを殺いでいくようなところがある。そして便利さはある反面で不便さを伴う。


紅梅開花

果たして本当に紅梅かと思い、昨日撮った携帯写真を見てみるとピンぼけである。
間違いかも分からないのでネットで「紅梅開花」を検索すると、筆頭に下野新聞の記事が上がってきた。田舎臭さがムンムンと漂っている地方新聞である。今時こんなださい紙面構成も珍しいのではないだろうか? そして記事も問題がある。「国指定史跡下野薬師寺跡」とはどこの事なのか他県から来た閲覧者には全く分からない。下野地区だけで記事を読むなら場所をくどくど書かなくとも良いのだろうが、これは世界に繋がっているインターネットで閲覧できるのであるから、どこの市町村かくらいは書いて欲しい。

それでも紅梅開花はかなり以前から始まっていることは確かめられた。


下野新聞

2、3週間早く、広場の紅梅開花 下野薬師寺跡
(1月14日 05:00)

 【下野】国指定史跡下野薬師寺跡のふるさと歴史の広場で、紅梅が例年より2~3週間も早くかれんな花を付け始めた。

 下野薬師寺の回廊の一部が復元されている約5千平方メートルの広場には、紅白合わせて約100本の梅が植えられている。花を咲かせているのはまだ数本だが、多くの木でつぼみが膨らみつつある。3月には満開の花の下で「梅まつり」が催される。

 年明け早々の開花に、市教委の担当者は「温暖化といった気象条件のせいだろうか」と首をかしげている。


子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

スポーツマンにはケガ・病気は致命傷 されどわれわれは!

2010年02月01日 09時29分47秒 | 日毎起こること
スポーツマンにはケガ・病気は致命傷ということはどの競技を見ていても、そのダメージの強さを知らされる。

千代大海の引退も相撲を取るための体力の限界だという。これはケガでも病気でもないが、老化であることは慥かだと思う。体力は30代になると激減する。さらに40代になるとプロスポーツでは活躍できないとも言われる。それでも40を超えてからでもプロをやっている人もいないことはない。

北京オリンピックはオープニングを半分ほど見たが太鼓の音がうるさいので消した。
アテネオリンピックは何一つ見ていないので、女子マラソンの野口選手が金メダルを取ったのも知らなかった。そもそも野口選手の顔さえ知らなかった。

北京オリンピックが近付くに付け、2連覇が期待されていたようである。
わたしもそれでは見てみようと、準備していた。ところが、北京オリンピック開催直前に故障で出場できないということになった。理由は良く分からないが、練習のやりすぎらしい。

真面目すぎて限度が分からなくなったのであろうか、日本的プレッシャーで調子を見損なったのであろうか。日本人はことの他期待を持ちすぎるところがある。本人のことなどは何も考えない。それに釣られて無理をすると故障に繋がり、ケガに繋がる。ついでに、ストレスで病気になったりする。そうなるともはやスポーツどころではない。その後、野口選手の風の噂も聞かなくなった。

スポーツ選手がケガ・病気に弱いのは他の選手たちが常に僅差で控えているからである。100分の1秒の調子がものをいう世界なのである。ちょっとしたコンディションが悪いだけで、タイムが狂い判断がねじれる。ものすごい重圧の中にいる。

ケガ・病気は人間に共通の悩みである。スポーツマンはケガ・病気が表面的なタイムや動きに出るが、厄介なのは一般人のケガ・病気はどんよりと効いている。時には他人には全く分からないことがしばしばある。このことゆえに、他人はケガ・病気を見誤るのである。あいつはやる気がない、さぼっている、給料泥棒だ! さまざまに罵られて、さらに病気になる。それでも精神的な疾患では表面に出ないから、補償もなく、いきなり首になりかねない。

企業の業績は今後よくなることはないであろう。自治体が借金を抱えインフラ整備ができない状態である以上、企業だけがよくなるはずはないのである。流通を担う、航空から貨物列車に道路に自動車がすでに危機的な状況にある。

人々はさらに孤立し、行き場がなくなるであろう。
無縁社会を克服するには、今ロシアで起こっている現象を後追いするような形でやっていかなければならない。ロシアでは社会主義が崩壊するにつけ、かつてのロシア正教が頭角を現してきた。ロシア正教が主体となって、無縁社会をとりまとめ、貧しいものや病気のものには教会が面倒をみる。また、高齢化した一人暮らしのものの死後の世話もすべて教会が面倒を看る。そしてお金持ちたちは多額の寄付をして相互に支える地域社会を構成するというものである。しかし、これを日本のお寺や神社がやってくれるかというと、希望はもてそうにない。寺院も神社もそれらをとりまとめるゾシマ長老のような存在がいないのである。これこそがこの国の問題点である。

人々は病院へ行っても30秒治療にさらされ、医者に相談することもできない状態である。これほどまでに人間同士が疎遠化する中で一体孤独に成らずに生存できる日本人がいるだろうか? 地域社会が崩れる原因として道路と自動車がある。地方は道路が出来れば経済的に活性化すると考えたが、物資の多くは大都会に流れるだけで、ついでに人まで流出してしまった。今までの日本人は地域社会を基盤に生きてきた。最近、地産地消が叫ばれているが、言葉だけの音頭をとっても中々そうはならない。名産品は相変わらず大都会へ流れるのである。

日本人で病気やケガをしていない人を見つけるのさえ、困難に成ってきている。皆ストレスが溜まり、ノイローゼになり、怒りっぽくなって、何かに当たらずには済ませられない。親は子どもを殴り、子どもは学校でいじめをやり、教師は帰って嫁さんを殴る。連鎖連鎖で、巨大なネックレスを編んでいるようなものである。これはまさしく大リングである。その中で人々が格闘しているのである。




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歎きのアダムとイブ 楽園追放 知恵の実は何をもたらしたか?

2010年02月01日 07時54分33秒 | 事件・事故・自殺
楽園追放 (Cacciata paradiso terrestre) カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂
マザッチョ 画像

そもそも愚かな人間は食べてはいけない知恵の実を食べたが故に、羞恥心が芽生え、隠さなくともよい場所を隠すようになってしまった。大きいとか小さいとか比較し、争いの種をわざわざもたらしては、憎しみという余計なものを付属させてしまったようである。

いったん憎しみの炎が芽生えると、火を水で消すよりも厄介である。
何でも燃やす燃料のいらない厄介な炎である。

知恵の実は今では無いのかというと、今はさらに至るところに転がっている。
学校というところがそれである。どんどん知恵の実を入れては他人より大きくなり、驕り高ぶり、人を人とも思わなくなり、小さなことでも直ぐに腹を立て、自分よりも身分の低いものには容赦なく打擲を古い、足蹴りし、それでふんぞり返ることだけは一人前に成っていく。大学院の博士課程を出ると中卒や高卒はもはや人間ではない。

なんでも経団連とかいうところに入ると、他の人間は蟻よりも小さく見え、幾ら踏みつぶしても何の躊躇もためらいも起こらないという。さらに金の力で天国に行こうとする。「金持ちの天国に入るは駱駝が針の穴を潜(くぐ)るよりも難しい」と、言われても、金持ちは金にものを言わせて、駱駝がくぐり抜けることのできる大きな針をこしらえてしまった。

多くの人間はへこたれて、支えてくれる人もいなくなっている。
「バンコクの労働者よ団結せよ!」 の、シュプレヒコールはタイにしか届かなかったようである。

わたしはと言えば、山吹の花のごとしでございます。
「七重八重 花は咲けども山吹の 食べる実の一つだになきぞ悲しき」





子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

NHKスペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」 死因不明はさらに~

2010年02月01日 06時22分17秒 | 科学

NHKオンライン


自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。

また、取材を進めるうちに社会との接点をなくした人々向けに、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業」やNPO法人がここ2~3年で急増。無縁死に対して今や自治体が対応することも難しい中、自治体の依頼や将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などで需要が高まっていることもわかって来た。日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった「無縁社会」。番組では「新たな死」が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている私たちの国、そして社会のあり方を問い直す。



企業ブランドに命を削る人たち、頑強な精神と肉体をもち、頭のなかは”精神一到何事か成さざらん”戦中の日本軍の上層部はさぞかし上部であったのだろう。戦地で闘う兵士は、腹減った、鉄砲の弾もない、それでも進軍ラッパは高らかになり、さらに腹に応えて仕方ない。

企業に命を賭けるような人間は、自分は不死身であると考えている人間が多い。
番組の中で出てきた元三菱マンは死ぬすれすれまで仕事をしてご満悦であったという。
日本社会の象徴のようなサラリーマンである。40歳くらいに身体を壊したらしいが、バブルのころの働き盛りのサラリーマンは大抵に企業と社会に骨の髄までしゃぶられながら、それが快楽になっている人間が少なくなかったのである。金はあるが金を使う時間がない、という笑い話を至るところで聞こえ、金は投機の対象としての株に費やし、気が付いたらバブルが終わり、株価は底を付き、命を削って働いた資財は何も残っていなかった。こういう人間が利口というのかは分からないが、自ら炎に飛び込む虫に似ている。どれだけ虫の知性と違っているのだろうか?

企業のために廃人になっても、企業は使い物にならない人間はあっさりと切り捨てる。
大きなサーロインの固まりがあるが、端の方が腐ってくればその腐った部分をばっさりと切る。ブランドに命を賭ける人はまだまだ多い。トヨタの社員は今後どうなるか? この世の修羅場をわざわざ作り出してきた大都会に温情が残るはずはない。どんなに人間が大都会を作り、出て来る植物をコンクリートと塞ぎ、水も滴らぬ路面は雨とも成れば洪水を生み出すだけである。風も吹かぬ都会の真ん中で見上げれば高層ビルだけが揺れている。今は大都会の中では春は夏であり冬が書家となっている。四季の感受性に長けたはずの日本人が今は狂っているだけである。自分しか見えなくて他人は無価値の存在に思えてしまう。希薄な携帯電話の繋がりだけが人間関係を支えている。

自然から離れれば離れるほど人間関係が疎遠になる。

「あのとき同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今は通わないのである」

「野に咲く花の名前は知らない、だけども野に咲く花が好き。」

今は野に咲く花を見ることもない。夜明けと共にゲロの掃溜めを飛び越えながら、夜明けの停車場の電信柱にする小便の湯気立つぬくもりだけが確かである。


わたしは時間が来たら直ぐに帰る。自分の時間は命のように大事であった。つまりわたしの命はこの時間であると考えている。ヨーロッパでも、自分の時間を会社のために使うなどとは考えはしない。個人だけでなく政府もそう考えている。スイスなどは残業は禁止されていたし、残業は時給の3倍ほど支払うらしい。

だらだらしたつき合いは無駄である。以前、篠原凉子さんが「派遣の品格」の主役を演じていたが、休憩時間も退出時間もぴたりである。わたしもぴたりであった。1分たりとも超過すると超過分を請求した。ところがこの請求はまかり通す論法がある。論理的に正しければ規則は変更できるのである。結局、1分たりとも残業はしないということは、まわりが了承する。まわりの者の酒のネタにされているのは知っているが、どうせ値打ちのない奴らが自分を信じていないだけである。

天地がやけどをしてもわたしは焼けないだけの知恵を持っている。ただどんな修行の道でも人情を捨てることはなかった。

中学の剣道部の同級生とは朝までよく人生論をぶちまけていた。とにかく、ひとりでしゃべりまくり説教を垂れていたのである。これは小学低学年のころでも教師と論戦したから、わたしの天性なのだと思う。血がにじむまで考え込むことことがわたしの性分で、つまらぬ学校の教科書に反応することはほとんどなかった。

高校の一年の頃には、Sは気違いのように本を読んでるという噂が町中に広まっていたようである。天才の作品しか反応しないのは何故だろう。悲しいことに彼女が出来ても彼女をデイトに誘うこともなく、手紙だけは気違いのように書き続けた。

孤独には慣れているはずであったが、二十歳頃に急激な寂しさに襲われどうしようもなかったことがある。恐ろしい寂しさである。寂しさだけで死んでしまうかと思えるほど苦しかった。
詩人の西脇順三郎が「寂しさは美の本願なり」と、言っている。これだけ寂しいと何か生まれるのかもしれないと思った。


年寄りや病人を捨てる時代
昔は山へ年寄りを捨てに行ったが、今では車に乗せて街角に捨ててくる。
捨てに行くのが病院の関係者であるだけに背負ってる話である。

わたしはかなり好きなことをしながら生きていたから、のたれ死には覚悟をして生きてきた。
わたしのようにわざわざ孤独にならなくとも、多くの人は孤独に成らざるを得ないようである。
せっかく一生懸命やってきても、多くの人たちはビニール袋のように捨てられるのである。気の毒だ。しかしね、こんな大した値打ちのないものばかり作っていると人間もビニール袋に成ってしまうのである。だれが、ビニール袋を後生大事にしまっておくであろうか? よくわたしは言うのだが、息の長いものを作らなければならない。そうでなければ自分自身が値打ちのないものになる。息とは書いて字の如く自らの心である。せめて半世紀持つものを作ることを目指さなければならない。そうすれば作っている会社も人も大事に思えてしまう。ほっとけないである。モンブランの万年筆なら優に50年は持つ。いや、もっともつであろう。使えば使うほど愛着が湧くものを作ることも持つことの喜びである。このパソコンもせいぜい5年で粗大ゴミとなる。

無縁社会は人のこころから来るものである。心を変えるしか無縁社会を変えていく方法はない。
まず携帯メールを出来るだけ使わないようにする。お友達には手紙で文通をする。わたしは小学校の修学旅行で出合った別のクラスの女の子が好きになり、中学では同じクラスになるかと願っていたが、彼女は違う中学へ行ってしまった。中学3年の夏ぐらいまでずうっと文通していたが、その頃手紙の書き方を研究したし、おしゃれな便せんを差がしては200通以上も書いていた。3日に一度は出していたことになる。その後も手紙は何でもカンデも書き続けたものである。つまり、手紙では極めて良心的な内容に成らざるを得ないのである。自筆で嘘を書きまくることはほとんどない。その日の出来事考えたこと、とにかく書くことで集中でき、心も落ち着いてくる。

その後も近代文学の書簡集は良く読み、面白くてしようがなかった。
手紙を出しても返辞が直ぐに来るとは限らない。待たなければならない。ラブレターなどの返辞は永遠に来ない場合もある。手紙で待つことも覚える。頂いた手紙は何ともうれしい。たぶん携帯メールどころではないだろう。手紙にはその人の姿が投影されている。わたしは長い間電話も付けていなかったし、時計も持っていなかった。もちろんテレビも持っていなかった。ただし、ステレオは音楽を聴くためにそこそこ良いものを持っていた。音楽は即効性のある妙薬である。疲れ切った身体も心も癒してくれる。まるで恋愛をしているような気持ちにさせてくれるから不思議である。

シューベルトの『アヴェマリア』はわたしの頭の中で勝手に流れてくる。この歌いの曲は梅酒ではないが、とろんちょにしてくれる。10代半ばから夢中になって聞いたものは、頭の中にストックされ勝手に流れてくる。とりわけ外部からの音楽が流れなくとも頭の中ではいつも音楽が響いている。

ついでに言うなら、詩集もむさぼるように読み、多くの詩を暗記したが、その暗記した詩が鳴り響くことがあった。詩は音楽だとよく言われるが、頭の中で詩が鳴り響く、大太鼓を耳元で叩かれるように、耳を押さえなければならないほど、響いてくるのである。そのすごさは肌で感じて知っているので、詩も人々に薦める事にしている。

安いレストランで食材が既に工場でできあがったものを、客に出すところが増えているが、店の中のものが自分たちでしっかり調理をやらないことには、人間ができあがらないし、同じ職場の人間も相手がどのような仕事が出来るかも分からないままである。電子レンジでチン、それで料理を出して人間に興味を持つことができるだろうか? ジャガイモの剥き方一つにしても、巧い下手があり、賢い剥き方、早い剥き方がある。それぞれ違うところに会話が生まれたり、興味が出たりする。そういう小さな繋がりを金儲けと効率のためすべて排除しようとしているのである。住宅まで工場で作り、現場では組み立てるだけでは、大工は必要がなくなる。大工の巧みな手さばきは見るものを驚かせる。通りすがりに大工の仕事を見る子どもはその大工からまったく学校では習えない学習をするのである。

すべて人間に対する興味が殺がれて、いつのまにか人間に興味を持つ必要がないと考えるように成っているのではないだろうか? 文豪ゲーテは他人とは常に自分と一緒にいるものだと言う。「たとえば今着ている衣服は他人が作っている。作るのも他人なら、その材料を集めるのも他人である。たった一枚の肌着を作るのにどれほどの人が関わり、どれだけ自然の恩恵に浴しているか、食卓に上る一匹の魚を取るのに漁師がどれほどの苦労をし、ひょっとしてその魚一匹のために命を落としているかも知れない。また、それをはぐくむ自然の営みがどれほどの時間を掛けて魚一匹を育てて来たか、想像力を駆使して様々に思考を巡らして見るとよい」と、いうような事を言っている。子どもに文章を書かせる場合にはわたしも「今身につけているものの関わりをすべて書け」という。どれだけ自分以外の人間がそれに携わっていることであろうか?


感謝すると言う言葉も使われなくなっている。「ありがとう」や「ありがとうございました」は言いにくいのかも知れない。

親身になるという言葉も無くなっているのであろうが、寂しさを味わったことがないのであろう。寂しくなると携帯に頼ってメールするか電話するのだろう。つまり寂しさをとことん味わうことで人懐かしさを覚えるのであろうし、その寂寥感が深い繋がりを感じさせてもくれる。まさに静かな湖をひとり静に潜っていくような感じである。

目の前で人が殴られていても知らぬ顔をすることが出来る時代はいままでになかったのではないだろうか?

たとえばJR西日本の社員たちは福知山線事故の時に、同じ電車に乗り合わせていたが、救助活動もしないでそのまま出社したという。その後も山崎というバカ者(こいつは社長をやっていた)が、事故の捏造に情熱を燃やしていたという。これが日本の現実である。企業に温情がないのは、経団連のお手洗いを見ても分かるのである。よくぞあれだけの碌でなしを会長にして、平気でいられる。人でなしの集団であるのはコムスンの折口も理事をやっていたことで証明されるであろう。

碌でもない、NTTやKDDIは一体どれだけ儲けているだろうか?
ガス会社や電力会社はもっとも給料が高いというが、東京電力は未払い1ヶ月で強制的に送電をストップする。

最近、学習院の篠沢教授が車いす生活のため、奥さんも一人で世話をするのに身体が持たないため、一日一時間のヘルパーの時間を長くして貰いために、身体障害者の申請を新宿区役所にやったが却下されたという。身体障害者の数はどんどん増え続けているという。栄養不足や交通事故や自殺未遂で身体が不自由な状態になっているのである。
自宅で療養し、電気代やガス代が払えなくなっても、確実に送電をストップすると言うのだから、「東京電力も、ええ度胸しとるのぉ~」とついつい松浪健四郎のように言いたくなる。
落選議員松浪健四郎【一時恥ずかしさのあまり閉鎖していたが再開されている。今度は参議院選に出馬するらしい。愛人の山口久美さんも応援にいくらしい!】

NTTやKDDIの儲けはものすごいが、そのほとんどは社員の賭博に消えていくことも事実である。

携帯で繋がる人々は人間は電波で繋がると信じているのだろうか?

こちらは書きかけの項目です。


大手町(NTT KDDI 読売 日経 産経 経団連 気象庁)がやられると世界の通信は大混乱する。

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橋の老朽化で交通が遮断される時代が来る

2010年02月01日 00時00分46秒 | 事件・事故・自殺
近代建築の大多数は鉄筋コンクリートで作られている。

ビルも高速もダムも橋も空港もそうである。

これらは50年経過するものも少なくない。そろそろ寿命である。
コンクリートは100年持つと言われていたが、それは真っ赤な嘘だった。
鉄筋を良く見ると、真っ赤に染まってさび付いているではないか?


群馬県は危険な橋の数が多いらしい。
桐生市の橋を見ていると慥かに今でも落ちそうな橋が沢山ある。

パチンコ屋で儲けているのだから、古くなったパチンコ玉で橋を架けるとみんな桐生市に集まるだろう。





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その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?