NHKオンライン
自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。
また、取材を進めるうちに社会との接点をなくした人々向けに、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業」やNPO法人がここ2~3年で急増。無縁死に対して今や自治体が対応することも難しい中、自治体の依頼や将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などで需要が高まっていることもわかって来た。日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった「無縁社会」。番組では「新たな死」が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている私たちの国、そして社会のあり方を問い直す。
企業ブランドに命を削る人たち、頑強な精神と肉体をもち、頭のなかは”精神一到何事か成さざらん”戦中の日本軍の上層部はさぞかし上部であったのだろう。戦地で闘う兵士は、腹減った、鉄砲の弾もない、それでも進軍ラッパは高らかになり、さらに腹に応えて仕方ない。
企業に命を賭けるような人間は、自分は不死身であると考えている人間が多い。
番組の中で出てきた元三菱マンは死ぬすれすれまで仕事をしてご満悦であったという。
日本社会の象徴のようなサラリーマンである。40歳くらいに身体を壊したらしいが、バブルのころの働き盛りのサラリーマンは大抵に企業と社会に骨の髄までしゃぶられながら、それが快楽になっている人間が少なくなかったのである。金はあるが金を使う時間がない、という笑い話を至るところで聞こえ、金は投機の対象としての株に費やし、気が付いたらバブルが終わり、株価は底を付き、命を削って働いた資財は何も残っていなかった。こういう人間が利口というのかは分からないが、自ら炎に飛び込む虫に似ている。どれだけ虫の知性と違っているのだろうか?
企業のために廃人になっても、企業は使い物にならない人間はあっさりと切り捨てる。
大きなサーロインの固まりがあるが、端の方が腐ってくればその腐った部分をばっさりと切る。ブランドに命を賭ける人はまだまだ多い。トヨタの社員は今後どうなるか? この世の修羅場をわざわざ作り出してきた大都会に温情が残るはずはない。どんなに人間が大都会を作り、出て来る植物をコンクリートと塞ぎ、水も滴らぬ路面は雨とも成れば洪水を生み出すだけである。風も吹かぬ都会の真ん中で見上げれば高層ビルだけが揺れている。今は大都会の中では春は夏であり冬が書家となっている。四季の感受性に長けたはずの日本人が今は狂っているだけである。自分しか見えなくて他人は無価値の存在に思えてしまう。希薄な携帯電話の繋がりだけが人間関係を支えている。
自然から離れれば離れるほど人間関係が疎遠になる。
「あのとき同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今は通わないのである」
「野に咲く花の名前は知らない、だけども野に咲く花が好き。」
今は野に咲く花を見ることもない。夜明けと共にゲロの掃溜めを飛び越えながら、夜明けの停車場の電信柱にする小便の湯気立つぬくもりだけが確かである。
わたしは時間が来たら直ぐに帰る。自分の時間は命のように大事であった。つまりわたしの命はこの時間であると考えている。ヨーロッパでも、自分の時間を会社のために使うなどとは考えはしない。個人だけでなく政府もそう考えている。スイスなどは残業は禁止されていたし、残業は時給の3倍ほど支払うらしい。
だらだらしたつき合いは無駄である。以前、篠原凉子さんが「派遣の品格」の主役を演じていたが、休憩時間も退出時間もぴたりである。わたしもぴたりであった。1分たりとも超過すると超過分を請求した。ところがこの請求はまかり通す論法がある。論理的に正しければ規則は変更できるのである。結局、1分たりとも残業はしないということは、まわりが了承する。まわりの者の酒のネタにされているのは知っているが、どうせ値打ちのない奴らが自分を信じていないだけである。
天地がやけどをしてもわたしは焼けないだけの知恵を持っている。ただどんな修行の道でも人情を捨てることはなかった。
中学の剣道部の同級生とは朝までよく人生論をぶちまけていた。とにかく、ひとりでしゃべりまくり説教を垂れていたのである。これは小学低学年のころでも教師と論戦したから、わたしの天性なのだと思う。血がにじむまで考え込むことことがわたしの性分で、つまらぬ学校の教科書に反応することはほとんどなかった。
高校の一年の頃には、Sは気違いのように本を読んでるという噂が町中に広まっていたようである。天才の作品しか反応しないのは何故だろう。悲しいことに彼女が出来ても彼女をデイトに誘うこともなく、手紙だけは気違いのように書き続けた。
孤独には慣れているはずであったが、二十歳頃に急激な寂しさに襲われどうしようもなかったことがある。恐ろしい寂しさである。寂しさだけで死んでしまうかと思えるほど苦しかった。
詩人の西脇順三郎が「寂しさは美の本願なり」と、言っている。これだけ寂しいと何か生まれるのかもしれないと思った。
年寄りや病人を捨てる時代
昔は山へ年寄りを捨てに行ったが、今では車に乗せて街角に捨ててくる。
捨てに行くのが病院の関係者であるだけに背負ってる話である。
わたしはかなり好きなことをしながら生きていたから、のたれ死には覚悟をして生きてきた。
わたしのようにわざわざ孤独にならなくとも、多くの人は孤独に成らざるを得ないようである。
せっかく一生懸命やってきても、多くの人たちはビニール袋のように捨てられるのである。気の毒だ。しかしね、こんな大した値打ちのないものばかり作っていると人間もビニール袋に成ってしまうのである。だれが、ビニール袋を後生大事にしまっておくであろうか? よくわたしは言うのだが、息の長いものを作らなければならない。そうでなければ自分自身が値打ちのないものになる。息とは書いて字の如く自らの心である。せめて半世紀持つものを作ることを目指さなければならない。そうすれば作っている会社も人も大事に思えてしまう。ほっとけないである。モンブランの万年筆なら優に50年は持つ。いや、もっともつであろう。使えば使うほど愛着が湧くものを作ることも持つことの喜びである。このパソコンもせいぜい5年で粗大ゴミとなる。
無縁社会は人のこころから来るものである。心を変えるしか無縁社会を変えていく方法はない。
まず携帯メールを出来るだけ使わないようにする。お友達には手紙で文通をする。わたしは小学校の修学旅行で出合った別のクラスの女の子が好きになり、中学では同じクラスになるかと願っていたが、彼女は違う中学へ行ってしまった。中学3年の夏ぐらいまでずうっと文通していたが、その頃手紙の書き方を研究したし、おしゃれな便せんを差がしては200通以上も書いていた。3日に一度は出していたことになる。その後も手紙は何でもカンデも書き続けたものである。つまり、手紙では極めて良心的な内容に成らざるを得ないのである。自筆で嘘を書きまくることはほとんどない。その日の出来事考えたこと、とにかく書くことで集中でき、心も落ち着いてくる。
その後も近代文学の書簡集は良く読み、面白くてしようがなかった。
手紙を出しても返辞が直ぐに来るとは限らない。待たなければならない。ラブレターなどの返辞は永遠に来ない場合もある。手紙で待つことも覚える。頂いた手紙は何ともうれしい。たぶん携帯メールどころではないだろう。手紙にはその人の姿が投影されている。わたしは長い間電話も付けていなかったし、時計も持っていなかった。もちろんテレビも持っていなかった。ただし、ステレオは音楽を聴くためにそこそこ良いものを持っていた。音楽は即効性のある妙薬である。疲れ切った身体も心も癒してくれる。まるで恋愛をしているような気持ちにさせてくれるから不思議である。
シューベルトの『アヴェマリア』はわたしの頭の中で勝手に流れてくる。この歌いの曲は梅酒ではないが、とろんちょにしてくれる。10代半ばから夢中になって聞いたものは、頭の中にストックされ勝手に流れてくる。とりわけ外部からの音楽が流れなくとも頭の中ではいつも音楽が響いている。
ついでに言うなら、詩集もむさぼるように読み、多くの詩を暗記したが、その暗記した詩が鳴り響くことがあった。詩は音楽だとよく言われるが、頭の中で詩が鳴り響く、大太鼓を耳元で叩かれるように、耳を押さえなければならないほど、響いてくるのである。そのすごさは肌で感じて知っているので、詩も人々に薦める事にしている。
安いレストランで食材が既に工場でできあがったものを、客に出すところが増えているが、店の中のものが自分たちでしっかり調理をやらないことには、人間ができあがらないし、同じ職場の人間も相手がどのような仕事が出来るかも分からないままである。電子レンジでチン、それで料理を出して人間に興味を持つことができるだろうか? ジャガイモの剥き方一つにしても、巧い下手があり、賢い剥き方、早い剥き方がある。それぞれ違うところに会話が生まれたり、興味が出たりする。そういう小さな繋がりを金儲けと効率のためすべて排除しようとしているのである。住宅まで工場で作り、現場では組み立てるだけでは、大工は必要がなくなる。大工の巧みな手さばきは見るものを驚かせる。通りすがりに大工の仕事を見る子どもはその大工からまったく学校では習えない学習をするのである。
すべて人間に対する興味が殺がれて、いつのまにか人間に興味を持つ必要がないと考えるように成っているのではないだろうか? 文豪ゲーテは他人とは常に自分と一緒にいるものだと言う。「たとえば今着ている衣服は他人が作っている。作るのも他人なら、その材料を集めるのも他人である。たった一枚の肌着を作るのにどれほどの人が関わり、どれだけ自然の恩恵に浴しているか、食卓に上る一匹の魚を取るのに漁師がどれほどの苦労をし、ひょっとしてその魚一匹のために命を落としているかも知れない。また、それをはぐくむ自然の営みがどれほどの時間を掛けて魚一匹を育てて来たか、想像力を駆使して様々に思考を巡らして見るとよい」と、いうような事を言っている。子どもに文章を書かせる場合にはわたしも「今身につけているものの関わりをすべて書け」という。どれだけ自分以外の人間がそれに携わっていることであろうか?
感謝すると言う言葉も使われなくなっている。「ありがとう」や「ありがとうございました」は言いにくいのかも知れない。
親身になるという言葉も無くなっているのであろうが、寂しさを味わったことがないのであろう。寂しくなると携帯に頼ってメールするか電話するのだろう。つまり寂しさをとことん味わうことで人懐かしさを覚えるのであろうし、その寂寥感が深い繋がりを感じさせてもくれる。まさに静かな湖をひとり静に潜っていくような感じである。
目の前で人が殴られていても知らぬ顔をすることが出来る時代はいままでになかったのではないだろうか?
たとえばJR西日本の社員たちは福知山線事故の時に、同じ電車に乗り合わせていたが、救助活動もしないでそのまま出社したという。その後も山崎というバカ者(こいつは社長をやっていた)が、事故の捏造に情熱を燃やしていたという。これが日本の現実である。企業に温情がないのは、経団連のお手洗いを見ても分かるのである。よくぞあれだけの碌でなしを会長にして、平気でいられる。人でなしの集団であるのはコムスンの折口も理事をやっていたことで証明されるであろう。
碌でもない、NTTやKDDIは一体どれだけ儲けているだろうか?
ガス会社や電力会社はもっとも給料が高いというが、東京電力は未払い1ヶ月で強制的に送電をストップする。
最近、学習院の篠沢教授が車いす生活のため、奥さんも一人で世話をするのに身体が持たないため、一日一時間のヘルパーの時間を長くして貰いために、身体障害者の申請を新宿区役所にやったが却下されたという。身体障害者の数はどんどん増え続けているという。栄養不足や交通事故や自殺未遂で身体が不自由な状態になっているのである。
自宅で療養し、電気代やガス代が払えなくなっても、確実に送電をストップすると言うのだから、「東京電力も、ええ度胸しとるのぉ~」とついつい松浪健四郎のように言いたくなる。
落選議員松浪健四郎【一時恥ずかしさのあまり閉鎖していたが再開されている。今度は参議院選に出馬するらしい。愛人の山口久美さんも応援にいくらしい!】
NTTやKDDIの儲けはものすごいが、そのほとんどは社員の賭博に消えていくことも事実である。
携帯で繋がる人々は人間は電波で繋がると信じているのだろうか?
こちらは書きかけの項目です。
大手町(NTT KDDI 読売 日経 産経 経団連 気象庁)がやられると世界の通信は大混乱する。
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