この問題は、ホリエモンや村上ファンドの頃によく問われたが、会社はだれのためのものなのか?
これは簡単な答えではあるが、皆それぞれ自分が何ものであるかということを忘れているのである。
それでは自分とは何かを簡単に考えてみる。
ただし、考えるのはわたしではない。
皆様である。
わたしは学がないのでこのような問答法を使う。
自分とは豚であろうか? 否。
自分とは猿であろうか? 否。
自分とは傘であろうか? 否。
自分とは靴であろうか? 否。
自分とは鞄であろうか? 否。
自分とは服であろうか? 否。
自分とは鳥であろうか? 否。
自分とは筆であろうか? 否。
自分とは鼻であろうか? 否。
自分とは腸であろうか? 否。
自分とは顔であろうか? 否。
自分とは足であろうか? 否。
自分とは手であろうか? 否。
自分とは屁であろうか? 否。
自分とは歯であろうか? 否。
自分とは胸であろうか? 否。
自分とは本であろうか? 否。
自分とは空であろうか? 否。
自分とは火であろうか? 否。
自分とは水であろうか? 否。
自分とは氷であろうか? 否。
自分とは鉄であろうか? 否。
自分とは心であろうか? ?。
自分とは人であろうか? ?。
企業の中では経営者もいれば労働者もいる。
株主もいれば商品を購入する消費者もいる。
それらをひっくるめてなんというのか?
私:「達磨尊師よ。いったいそれを何と呼ぶのですか?」
達磨尊師:「『ウパニシャッド』というインドの教典には真理の問答が載っている。」
子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?