浮舟物語には、夕顔の巻の情景が重なることが多い。
東屋、浮舟の巻を書いているときの紫式部は、
明らかに、源氏の書き初めのころの夕顔とは、
なんのために書くか、という作家魂、が違ってきている、
宇治十帖をじっくり読んでいくと、そう感じます。
でも、情景そのものの描写、物語の主人公たちの魅力、となれば、
それはもう、正編ですねー。
それはともかく、
浮舟の造形にあたっては、式部は意識的に夕顔を思い浮かべるように、
いろいろに仕掛けをしているのです。
夕顔の運命で書ききれなかったところを、熟成させてきた、
ということなのでしょう。
浮舟が匂宮に抱かれて、小舟で対岸の隠れ家でしばしの逢瀬をすごすのも、
夕顔が源氏に抱くようにして車に乗せられて、なにがしの院に連れていかれる、
のを思い起こさせるように、なっているのです。
そして、雪ならぬ霧も深い露けきに、しっとり濡れるなか、
夕顔は心細く、
山の端の心もしらでゆく月は
うはの空にてかげや絶えなん
と死の不安をうったえます。
浮舟のうたと同じです。
源氏はただ、をかしく思す、だけです、気づかない。
夕顔の花の白、源氏に差し出した白き扇
白い扇は夏のもので、捨てられる運命、ということになるらしい。
はかない、死を予感させる、白、
浮舟の白の五衣もそうですね。
夕顔と浮舟の似ているところ、似てないところを思い浮かべて、
読み進める読者、それを意識している作者、
これは浮舟を読んでいくときそういう振り返る読み方、をしてください、というメッセージなのですね。
ほんとに恐ろしいほど、何重にも物語を紡いである、奥深さ、です。
源氏物語を題材にしたお能、多いです。
「半蔀」は夕顔の霊と花を供養した能です。
能「半蔀」写真出処↑
東屋、浮舟の巻を書いているときの紫式部は、
明らかに、源氏の書き初めのころの夕顔とは、
なんのために書くか、という作家魂、が違ってきている、
宇治十帖をじっくり読んでいくと、そう感じます。
でも、情景そのものの描写、物語の主人公たちの魅力、となれば、
それはもう、正編ですねー。
それはともかく、
浮舟の造形にあたっては、式部は意識的に夕顔を思い浮かべるように、
いろいろに仕掛けをしているのです。
夕顔の運命で書ききれなかったところを、熟成させてきた、
ということなのでしょう。
浮舟が匂宮に抱かれて、小舟で対岸の隠れ家でしばしの逢瀬をすごすのも、
夕顔が源氏に抱くようにして車に乗せられて、なにがしの院に連れていかれる、
のを思い起こさせるように、なっているのです。
そして、雪ならぬ霧も深い露けきに、しっとり濡れるなか、
夕顔は心細く、
山の端の心もしらでゆく月は
うはの空にてかげや絶えなん
と死の不安をうったえます。
浮舟のうたと同じです。
源氏はただ、をかしく思す、だけです、気づかない。
夕顔の花の白、源氏に差し出した白き扇
白い扇は夏のもので、捨てられる運命、ということになるらしい。
はかない、死を予感させる、白、
浮舟の白の五衣もそうですね。
夕顔と浮舟の似ているところ、似てないところを思い浮かべて、
読み進める読者、それを意識している作者、
これは浮舟を読んでいくときそういう振り返る読み方、をしてください、というメッセージなのですね。
ほんとに恐ろしいほど、何重にも物語を紡いである、奥深さ、です。
源氏物語を題材にしたお能、多いです。
「半蔀」は夕顔の霊と花を供養した能です。
能「半蔀」写真出処↑
ここで聴けます→www.myspace.com/koohim
韓国の四季
というブログも書いていますので、
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