社民党は立憲民主党などとの合流について、29日に開かれる全国幹事長会議で出された意見を踏まえ、結論を得たい考えだ。「55年体制」の一翼を担った老舗政党がその歴史に幕を下ろすのかが焦点となる。
「末端の党員まで含め、共通認識に立って結論を出していく努力を重ねなければいけない」
又市征治党首は23日の記者会見で合流についてこう述べ、党内の意見を尊重する考えを強調した。
党内には賛否両論がある。地方からは「自然消滅しないためにも合流を進めるべきだ」との意見書が寄せられた。公選法は政党要件を「国会議員5人以上」か「得票率2%以上」としているが、社民の国会議員は4人。得票率でかろうじて要件を満たしている現状への危機感がある。
一方で、党内には「理念、政策が一致しないものはやれるわけがない」という反対意見も根強い。「党がなくなるのはごめんだ」という悲痛な声も聞かれる。
社民党の母体の「日本社会党」はいったん右派と左派に分かれた後、昭和30(1955)年に再統一し、東西冷戦時代を通じて自民党の対抗勢力として存在感を示した。平成元年の参院選では土井たか子委員長らが巻き起こした「マドンナブーム」で、改選議席数で自民党を上回る勝利を収めた。
6年には自民などとの連立政権で村山富市委員長が首相に就任したが、日米安保条約容認など、政策を大転換したことで旧来の支持を失った。8年に党名を「社会民主党」に変更したものの、同年発足した旧民主党に多くの議員が流出し、長い低迷期に入った。立民との交渉決裂で国民民主党が合流の枠組みから外れる中、生き残りをかけた社民党の判断が注目される。(中村智隆
過去の北朝鮮拉致事件の際の北朝鮮の擁護。北朝鮮は。拉致などしていないと。必死で北朝鮮を擁護して来た事実を。忘れて消し去ることは出来ない。土井たか子の。歴史に悪行が。足跡が大きいからね。その残党。消滅は当然の流れ。悪は、非日本人的な政党など不必要
中国北京大学社会学部元教授の鄭也夫(zheng yefu)氏(69)はこのほど、中国最高指導部である中央政治局の7人の常務委員に対して、反腐敗の一環として資産を公開するよう求めた。同氏は昨年末、中国共産党に対して「歴史から消え去れ」と発言し、注目されていた。
鄭氏は12月22日、中国語ネットメディア「縦覧中国」への寄稿記事で、2016年に世界153カ国および地域の政府は腐敗・汚職の対策として、公務員の「資産公開制度」を確立したと紹介した。「公正、平和、低コスト、イデオロギーに関わらない」というメリットを持つ同制度に対して、「中国当局は『粛清』という方法で汚職幹部を取り締まってきた」と指摘。
鄭氏は、中国当局の方法は「コストが高いうえ、公正さに欠け、マイナスの影響がある」とし、「摘発されていない幹部の精錬潔白を証明することができない」と批判した。
中国当局は1988年の両会(全国人民代表大会と全国人民政治協商会議)で、公務員の資産公開制度の立法について議論を行った。31年経った今も、まだ同制度の立法は進んでいない。
鄭也夫氏は、資産公開制度の立法が進まない理由は2つあるとの見方を示した。1つ目は、共産党政権が最初から同制度の立法の意思がないことにある。2つ目は、共産党が「資産公開制度」が反腐敗の有効対策と理解しながら、「危険な政策」と不安視していることにある。「取り締まりされていない大勢の汚職官僚がこの制度に反対するからだ」
同氏は記事の中で、チャイナ・セブンと呼ばれる中央政治局常務委員7人に対して、「率先して資産を公開せよ」と呼び掛けた。
昨年12月、鄭氏はインターネット上で評論記事を掲載し、「中国共産党政権が執政の70年間に、国民に多大な災いをもたらした」と非難し、「共産党政権は平和に歴史から去るべきだ」と主張した。鄭氏の主張に、国内の人権活動家や海外の中国の知識人らが共鳴した。
敢えてタブーに切り込みます。
身体障碍者のことはなかなか言いにくいのが今の世ですが、れいわ新選組の新国会議員の木村英子氏の記者会見を聞いていてとても違和感をいだきました。
私は小学校のころ両足まひの友人がいて一緒によく遊びました。両足マヒと言っても足を固定するギブスをすると自足歩行が可能だし、小学校低学年のころなので、思いやり何て言う気持ちはなかったので、M君と普通に遊んでいました。
走っても一所懸命は走ってちょっと待ってあげれば、息を切らしながら私たちについてくるのです。
鬼ごっこでも決して特別扱いはせず、普通にしていました。
何十年も経ってからM君のお母さんが母に言っていたのを聞いたのですが、「障碍者の我が子と普通に一緒に遊んでくれたのがとても嬉しい」といつも言われていたそうです。
子供ですから、そんなことは全く知りません。でも、普通に一人の仲のいい友達として遊んでいただけのことです。
その後、M君は両足を手術してギブスなしで歩けるようになったそうですが、私が学校を転校したのでその後の消息は知りません。
でも、その時のことが今でもずっと残っています。特別視せずに普通の友達として接するのが当たり前だと今でも思っています。
それが私の身体障碍者に接する原体験です。
M君は両足に重いギブスを装着しながらも、一所懸命に走って私たちと一緒に遊ぼうとしていました。時々待ったりしてあげたこともあります。でも、他の友達と全く変わらずに接していました。
学生時代に国際障碍者年(1981年)というのがあって、そのスローガンが「完全参加と平等」でした。英語でFull Participationと書いてあり、その意味を調べました。すると健常者と一緒に障碍者も普通にいろんなことをすることだと定義されており、なんだ私が昔していたことかと納得したことがあります。
その時に、英語で宣言を読み、アメリカ人のボランティア活動をされていた人に聞いたのです。
のちに日本語で読み、日本人の関係者に聞いたのと違うというのがとても心に引っかかっていました。
アメリカ人のキリスト教関係者から聞いた時は、「自分たちは全く特別扱いをされるのではなく、普通の人として扱ってもらうことを望んでいる」という意味だと教えてもらいました。
でも、日本の障碍者団体の人からは、障碍者の人がどこにでも行けるように健常者が手助けすることだと言われたのです。
アメリカ人や日本人の違いではなく、その人たちの個人的会社の違いかもしれません。
高校生の時、ちょっとあこがれの女子大生からさそわれて、脳性麻痺の子供たちがいる施設にボランティアに行ったことがあります。ちょっとスケべ心がありました。しかしそこでとてもショックを受けました。
年齢的には同じくらいですが、知能の発達が遅れている人たちだったので、今考えれば話したいことがたくさんあるのに話せないもどかしさがあったのでしょう、急に大きな声を出したり、興奮したりしてちょっと正直な話怖かったです。
15前後の女の子が同年代だった私をとても気に入ってくれたらしく、途中からずっと手を繋がれていました。当時は今より20キロもやせていて、髪の毛もふさふさだったので、結構モテた時期でした。
帰る時間になっても手を放してくれませんでした。ほかのボランティアの学生さんから、「〇〇子はとても井上君のことを気に入っているね」とからかわれた経験があります。
ただそこから大学でのクラブ活動が忙しくなり、そういう施設へのボランティア活動は一切していません。
そういうボランティア活動をしている人たちを見るとその大変さが少しわかるので、いつも頭が下がります。
予備校時代に通っていて教会のバイブルクラスにいた脳性麻痺の女性から 「好き好んで障碍者に生まれたのではない。普通に生まれたかった」と涙ながらに話しを聞いたこともあります。私より年上でしたが、体は中学生くらいしかありませんでした。
その人と親しい人から、その人は以前自殺未遂をしたこともあると聞いて心が痛みました。テンポよくいっしょに会話できないので、心の片隅で邪魔だなと思ったことがあったからです。
でも、それから40年以上、困った人がいたら自分のできる範囲で助けてあげようと心に決め、いつも行動しています。
大学時代に一つ上の先輩に両足マヒの女性がいました。とても気が強く、頑張り屋さんで、とても尊敬していました。
福岡市内の西南大学から郊外の福岡教育大学でのスピーチコンテストがあり、一緒に行きました。当時は今のようなバリアフリーなどなく、国鉄は階段の上り下りが健常者でも大変でしたが、両足がマヒされて、ギブスと松葉杖のその先輩はとても大変そうでした。
それでも、気丈についてこられるので、最低限の気遣いだけしていましたが、電車の発車時刻に間に合いそうになくなりました。
「先輩、俺がおんぶするから乗って!」というと、「私は次ので行くからいい。置いていって」と言われましたが、田舎の国鉄です。次の電車までゆうに30分はありました。
「早く乗って」と言って、松葉杖や荷物を他の人に持ってもらい、おぶって階段を降り、事なきを得ました。
その女性の先輩は、とても恥ずかしそうに、でも嬉しそうに「ありがとう、たすかった」と言ってくれました。私は小学校のころの体験があるので、特別なことをしたなんて思いもせずに、でも嬉しそうに言ってくれる尊敬する先輩の顔を見てうれしかった思い出があります。その後、その先輩は結婚をされたところまで知っています。
東京で勤務している時、電車によく乗りました。すると目の見えない人が階段を降りようとされている時は、声をかけ、必要なら私の二の腕をつかんでもらって私が先にゆっくり下りていくようにしたりしていました。
これが私の障碍者に対する基本的な姿勢です。それを知ってもらいたくて長々と書きました。
しかし、これが国会議員となるとちょっと違うのです。
国会議員は私たち国民のために寸暇を惜しんで働いてもらわねばなりません。全国比例ならば、全国を問題意識を持つ事柄のために東奔西走して少しでも同じ悩みを持つ人たちのために働いてもらわねばなりません。
八代英太元議員のように、ちょっとの手助けがあれば自分の目で見て、自分の頭で考え、そして国会議員がここが大事なのですが、自分の言葉で語らねばならないと思っています。
だからこそ、年間一億もの諸経費を払って国会議員をしてもらうのです。
野党の議員を始め、その歳費に見合うだけの動きをしていない議員も散見されますが、一応発信力はあり、それを支持している人もいるので、仕方ないと思っています。
れいわ新選組が得た票は228万票です。山本太郎が99万票も集めて落選しました。
調べてみるとALSの船後さんは4165票、そして木村さんは5211票しか入っていません。
特定枠という特別な制度があったから、この二人は国会議員になりましが、介助人制度がなければ、8月1日に登院ができないと記者会見をしていてなんかもやもやしたので、これを書いています。
重度の障碍者なので日本国民の一人として健康に生きる権利があります。これには全く否定もしませんし、わが国にそういう方を助けることができる制度があることを誇りに思います。
しかし、それが国会議員となって家の外に出るとなれば、話が変わるそうです。つまり収入のない重度の障碍者が経済的活動をするときには、この制度は適用されないとのことです。
記者が質問していましたが、自費でそれをすると一か月に百万ほどかかるそうです。
木村さんはその答えに「私は払えません、低収入ですから」と答えていました。
????今後は国会議員として普通の人以上の給料をもらうのに、なぜそれを言うのか不思議に思いました。
今までは無理にしても今からは払えるならば、自分で払うべきでしょう。
自分で進んで国会議員になろうと思ったのなら、そういうリスクも負うべきではと思ったのです。
それを進んでしながら、同じような病気を持った人のために国会議員としての仕事をこなしていれば、普通の日本国民は「助けてあげよう」という気持ちが起きると思います。
でも、自分で国会議員になるという選択をしておきながら、そういう制度を今切られたら、登院できないというのは、おかしな理屈ではないでしょうか。
たまたま私の周りの障碍者の人たちが、自分で何とかするという独立不羈の精神を持った人ばかりだったので、そう思うのかもしれませんが、この人たちは甘えているように思えてなりません。
その時の記者会見の席上、船後さんへの記者からの質問に答えたのは、介助人でした。
「船後さんの目が「はい」を見ていました」と介助人が言ったのです。それは本人の意思と違っても誰も文句を言えません。
それでも、この二人が10万票とかの応援する票を取ってからの当選なら仕方ないと思いますが、4165と5211と二人足しても1万票も行かず、山本太郎に入れた99万票の死に票のおかげとルールの意図的な目的での悪用で当選したのです。
私はどうも納得できません。
私は障碍者差別を言っているのでしょうか?
人間は生まれてきたからには幸福を追求する権利があると思います。特に日本という世界でも恵まれた国の国民ですから、当然のことだと思います。
でも、この二人の当選、そして登院をする前からこんな具合では、国会議員としての資質を疑います。
もちろん、他の国会議員にも精神的に資質がないと思われる人もたくさんいますが、それ以前のものだと思います。
山本太郎という国会議員のアドバイザーとしてれいわ新選組という党から顧問料をもらって、障碍者のための意見を言い、それを山本太郎が実現していくというのは普通の形態だと思います。
それなら、私も山本太郎は大嫌いですが、船後さんと木村さんの役割は十分に認めることができると思います。
でも、自分の世話もできない人間がどうして他人のことをお世話することができるのでしょう?
私はこの二人の障碍者の人格や存在を否定しているわけではありません。国会議員としての資質に疑義を抱いているだけです。
私は国会に厳格な法の運用と、そしてこのお二人の国会議員としての日々の行動をきちんと見守っていきたいと思っております。
私は障碍者差別をしているでしょうか?