〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和三年(2021)10月27日(水曜日) 通巻第7094号 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
宮崎正弘の歴史シリーズ、新刊予告!(11月17日発売予定) 『歩いてみて解けた「古事記」の謎』(育鵬社) ↓ 予約募集を開始
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──戦後の古代史がいかに間違っていたか ──考古学の発見が左翼史観をすべて壊した(弥生が文明を運んだというのは嘘)。 ──稲作は縄文時代からあった。奈良盆地は湖だった ──鉄を求める派遣争奪が古代の戦争だった ──古事記研究の最前線は、いま。 ●神武天皇は実在した。崇神天皇と同一説が有力だが。。。。 ●「欠史八代」は、物部vs蘇我の戦いで省略された ●太安万侶は実在した ただし古事記の序文は後世の作文 ●ヤマトタケルの遠征は現場で立証される ●崇神天皇の四道将軍による統一の実態とは ●神功皇后の新羅遠征はあった ●ワカタケル(雄略)が統一国家の基盤を構築。信長の原形モデル ●志染の石室に二十年の話は作り話だ。
プロローグ 旅の始まりは神代から。イザナギ、イザナミの花屈神社(熊野)。 高天原を追放されたスサノオがなぜ主役に躍りでたのか、 「苛められっ子」オオクニヌシノミコトが出雲を治めていたのは何故? 天の岩戸=高千穂峡 八百神を集めた『天の安の河原』と高千穂神楽 河原に神々を集めて合議したのは神代から「民主主義」だった 霧島神宮もニニギ天孫降臨候補地。可愛岳はニニギ陵墓候補。 天照大神をまつるのは伊勢神宮。弟・スサノオは八俣大蛇退治 スサノオを祀る京の八坂神社、関東の総本山は大宮氷川神社だが。 出雲の国譲りの本当の理由って何? 鉄鉱山の取り合いでは?。 タケミカツジノミコト(フツヌシ)鹿島神宮と香取神宮は一対の軍神 高志国(高志紅ガニ、高志高校など)。信濃の諏訪大社の主神って誰?
第一章 「神武東征」のコースを歩いてみた ニギハヤヒ(饒速日命)が先に筑紫からヤマトへ「東遷」していたのでは? 神武誕生地と父親の生誕は鵜戸神社(日南市) 日向美美津(日本海軍発祥の地)から「おきよ丸」が船出 宇佐に上陸(宇佐神宮)、筑紫へと急ぐ神武天皇軍は一箇旅団くらい? 兵員、食糧、船団の規模? 兵食は、何を食べていたのか、武器は? 北九州(岡田宮)に一年、瀬戸内海を安芸(埃宮)に七年、吉備の「高島宮」に八年。伝承地の高島宮をみつけるのは苦労だった。 何故、これほど長期の滞在を余儀なくされたのか。出雲系との戦いだったのでは? ヤマトはニギハヤヒ、ナガスネヒコの葛城王朝がおさめていた 神武天皇は「外来政権」。ゆえに妨害されたのは当然だったのでは? 難波、生駒を越えられず紀州で兄イツセが戦死。宣長は「なぐさの浜津」と銘々 熊野の苦戦を救う神剣(十握剣)は石上神社に奉納。熊野の三社伝説。 熊野からは八尺鴉が導く。ナガスネヒコや土蜘蛛、葛城との決戦。橿原で即位 しかし、神武天皇陵より、ニギハヤヒを祀る東大阪の石切剣箭神社(通称「いしきり」さん)のほうが人気が高いのは何故? ナガスネヒコはなぜニギハヤヒに裏切られたのだろう? 「欠史八代」の謎は物部 vs 蘇我の歴史解釈争奪戦で稀釈されたからだ
第二章 ヤマトタケルの全国制覇の旅 悲劇の英雄に祭り上げられた背景に何があるか 熊蘇退治とは再度の西征(薩摩国分)。吉備、出雲遠征説。 常陸国風土記はヤマトタケルを「倭天皇」と記録している。 東征へ、伊勢から熱田、草薙、焼津、吾妻、橘樹神社から筑波、足柄、 三峯神社でイザナギ、イザナミを祭る三峯神社を創紀。 足柄をこえて酒折宮。そして熱田から伊吹山、加佐登、のびの、白鳥御陵 保田輿重郎は『戴冠詩人の御一人者』とヤマトタケルを絶賛した
第三章 古事記はもっと素直に読もう 神功皇后の三韓征伐はあった。 度重なる新羅の裏切りが征伐の動機だった 御陵と八幡宮。神功皇后を「愚管抄」は皇統譜に算入している。 仲哀天皇陵は岡ミサンザイ古墳(藤井寺)。憤死したのは香椎宮の奧 香椎宮への参道は「勅使通り」。奥宮は神功皇后本陣だった。 別府の竈門神社(八幡様)は『鬼滅の刃』の仮託神社に 宇佐神宮も後世、神功皇后を祀る、宇美八幡(ここで応神天皇を出産) 応神天皇はなぜ敦賀へ禊ぎに出かけたのか(常宮神社。気比神社の謎) 神功皇后を戦後歴史家はなぜ「架空の存在」としたのか? その皇子、応神天皇はなぜ「八幡様」となったのか? 神功皇后は明治時代に一円札の肖像だった。GHQは、なぜ否定したか 日本のナショナリズムを危険視した象徴だったのだ
第四章 ワカタケル(雄略天皇)が大和朝廷を実質的に統一した 葛城 一言主神社(主神=雄略)。御所市森脇はやや小規模な神社 雄略が葛城朝衰退に決定的な力を発揮したが、葛城系は二世あとに復権している 執務したのは朝倉宮(近鉄大阪線、大和朝倉)。伝承地跡の石碑しかない やがて雄略系は断絶し、後継となるふたりの皇子はイチノヘオシハ系だ ふたりが二十年も隠れた「志染の石窟」(行くに苦労を伴った)。 現場を見れば、ここに隠れ住んだことは美談の作り話だと分かる 羽曳野の雄略天皇陵は一部が破壊された説もあるが、違う天皇陵では? 称制の女帝イヒトヨを祭る角刺神社(葛城市忍海「忍海駅」)と御陵 武烈天皇のあと、天皇空位時代を埋めた継体天皇は福井からやって来た 福井市足場山のいただきに鎮座する継体天皇の肥満な銅像をみると 継体天皇が都に入るに十九年も待ってホントの理由
第五章 「古事記が書かなかった歴史の闇 推古天皇の産まれた場所、聖徳太子が誕生したという橘寺 「乙巳の変」(大化の改新)の現場は板葺宮(飛鳥御浄原)。蘇我氏滅びる 蘇我入鹿 八木駅から西へ十分、入鹿神社。首塚は飛鳥、松坂などに。 なぜ『悪』の権化と言われた蘇我入鹿が祭られているのか? 石舞台は馬子の古墳造成中だったのではないのか 大化の改新。引き続く壬申の乱って軍事クーデターである。 天武天皇(古事記編纂の詔)は正妻・持統天皇との合同陵 中臣鎌足が本当は主役だった。鎌足を祭る談山神社を登った 鎌足は藤原姓を許され、明治時代には百円札(最高額紙幣)の肖像だったゾ 古事記が詳述を避けた歴史的事件は白村江に敗れ、大津遷都と天智天皇の事蹟 近江神宮と大津京遺蹟、山科の天智天皇御陵を歩いて分かったこと。
エピローグ よみがえる古事記の世界 功労賞の四人=天武天皇、稗田阿礼、太安万侶、そして本居宣長 稗田阿礼、太安万侶のふたりが古事記を完成させた 太安万侶墓(奈良市此瀬町)。茶畑の急な斜面を登った 稗田阿礼が主神の神社は「売太(めた)神社」は「語り部の郷」 古事記を評価した本居宣長の功績。宣長記念館 墓(松阪市) 宣長の奧墓も妙楽寺の裏山のてっぺん。墓参というより登攀だ かくして現場に立つと古事記の謎がどんどん解けた ○△□◇み◎○△□や○△□◇ざ◎○△□き△□◇◎
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プロローグ 旅の始まりは神代から。イザナギ、イザナミの花屈神社(熊野)。 高天原を追放されたスサノオがなぜ主役に躍りでたのか、 「苛められっ子」オオクニヌシノミコトが出雲を治めていたのは何故? 天の岩戸=高千穂峡 八百神を集めた『天の安の河原』と高千穂神楽 河原に神々を集めて合議したのは神代から「民主主義」だった 霧島神宮もニニギ天孫降臨候補地。可愛岳はニニギ陵墓候補。 天照大神をまつるのは伊勢神宮。弟・スサノオは八俣大蛇退治 スサノオを祀る京の八坂神社、関東の総本山は大宮氷川神社だが。 出雲の国譲りの本当の理由って何? 鉄鉱山の取り合いでは?。 タケミカツジノミコト(フツヌシ)鹿島神宮と香取神宮は一対の軍神 高志国(高志紅ガニ、高志高校など)。信濃の諏訪大社の主神って誰?
第一章 「神武東征」のコースを歩いてみた ニギハヤヒ(饒速日命)が先に筑紫からヤマトへ「東遷」していたのでは? 神武誕生地と父親の生誕は鵜戸神社(日南市) 日向美美津(日本海軍発祥の地)から「おきよ丸」が船出 宇佐に上陸(宇佐神宮)、筑紫へと急ぐ神武天皇軍は一箇旅団くらい? 兵員、食糧、船団の規模? 兵食は、何を食べていたのか、武器は? 北九州(岡田宮)に一年、瀬戸内海を安芸(埃宮)に七年、吉備の「高島宮」に八年。伝承地の高島宮をみつけるのは苦労だった。 何故、これほど長期の滞在を余儀なくされたのか。出雲系との戦いだったのでは? ヤマトはニギハヤヒ、ナガスネヒコの葛城王朝がおさめていた 神武天皇は「外来政権」。ゆえに妨害されたのは当然だったのでは? 難波、生駒を越えられず紀州で兄イツセが戦死。宣長は「なぐさの浜津」と銘々 熊野の苦戦を救う神剣(十握剣)は石上神社に奉納。熊野の三社伝説。 熊野からは八尺鴉が導く。ナガスネヒコや土蜘蛛、葛城との決戦。橿原で即位 しかし、神武天皇陵より、ニギハヤヒを祀る東大阪の石切剣箭神社(通称「いしきり」さん)のほうが人気が高いのは何故? ナガスネヒコはなぜニギハヤヒに裏切られたのだろう? 「欠史八代」の謎は物部 vs 蘇我の歴史解釈争奪戦で稀釈されたからだ
第二章 ヤマトタケルの全国制覇の旅 悲劇の英雄に祭り上げられた背景に何があるか 熊蘇退治とは再度の西征(薩摩国分)。吉備、出雲遠征説。 常陸国風土記はヤマトタケルを「倭天皇」と記録している。 東征へ、伊勢から熱田、草薙、焼津、吾妻、橘樹神社から筑波、足柄、 三峯神社でイザナギ、イザナミを祭る三峯神社を創紀。 足柄をこえて酒折宮。そして熱田から伊吹山、加佐登、のびの、白鳥御陵 保田輿重郎は『戴冠詩人の御一人者』とヤマトタケルを絶賛した
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第四章 ワカタケル(雄略天皇)が大和朝廷を実質的に統一した 葛城 一言主神社(主神=雄略)。御所市森脇はやや小規模な神社 雄略が葛城朝衰退に決定的な力を発揮したが、葛城系は二世あとに復権している 執務したのは朝倉宮(近鉄大阪線、大和朝倉)。伝承地跡の石碑しかない やがて雄略系は断絶し、後継となるふたりの皇子はイチノヘオシハ系だ ふたりが二十年も隠れた「志染の石窟」(行くに苦労を伴った)。 現場を見れば、ここに隠れ住んだことは美談の作り話だと分かる 羽曳野の雄略天皇陵は一部が破壊された説もあるが、違う天皇陵では? 称制の女帝イヒトヨを祭る角刺神社(葛城市忍海「忍海駅」)と御陵 武烈天皇のあと、天皇空位時代を埋めた継体天皇は福井からやって来た 福井市足場山のいただきに鎮座する継体天皇の肥満な銅像をみると 継体天皇が都に入るに十九年も待ってホントの理由
第五章 「古事記が書かなかった歴史の闇 推古天皇の産まれた場所、聖徳太子が誕生したという橘寺 「乙巳の変」(大化の改新)の現場は板葺宮(飛鳥御浄原)。蘇我氏滅びる 蘇我入鹿 八木駅から西へ十分、入鹿神社。首塚は飛鳥、松坂などに。 なぜ『悪』の権化と言われた蘇我入鹿が祭られているのか? 石舞台は馬子の古墳造成中だったのではないのか 大化の改新。引き続く壬申の乱って軍事クーデターである。 天武天皇(古事記編纂の詔)は正妻・持統天皇との合同陵 中臣鎌足が本当は主役だった。鎌足を祭る談山神社を登った 鎌足は藤原姓を許され、明治時代には百円札(最高額紙幣)の肖像だったゾ 古事記が詳述を避けた歴史的事件は白村江に敗れ、大津遷都と天智天皇の事蹟 近江神宮と大津京遺蹟、山科の天智天皇御陵を歩いて分かったこと。
エピローグ よみがえる古事記の世界 功労賞の四人=天武天皇、稗田阿礼、太安万侶、そして本居宣長 稗田阿礼、太安万侶のふたりが古事記を完成させた 太安万侶墓(奈良市此瀬町)。茶畑の急な斜面を登った 稗田阿礼が主神の神社は「売太(めた)神社」は「語り部の郷」 古事記を評価した本居宣長の功績。宣長記念館 墓(松阪市) 宣長の奧墓も妙楽寺の裏山のてっぺん。墓参というより登攀だ かくして現場に立つと古事記の謎がどんどん解けた ○△□◇み◎○△□や○△□◇ざ◎○△□き△□◇◎
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