犬。
犬と遊びました。
大阪の高校で、卒業式で教師が君が代を起立斉唱しているかどうか、校長だか教頭が、教師の口元をチェックしていたということがニュースになっていた。
また、別の高校の卒業式では、来賓の府議(維新の会)が挨拶で、斉唱していない教員批判を始めて、保護者から苦情が出たとか。
教育委員会は、歌ってなかった教師に処分を下す方針だとかで。
気持ち悪いと思いました。
冷静に他人事と思って客観的に言うと、はっきり言ってばかばかしい。
どっちでもいい。
別にそこまでしなくても、先生たちも歌えばいいし、そこまでして縛るほうも異常。
教育委員会側は「そういう条例だから」と理由付けたが、その発言自体が稚拙でくだらなすぎた。
高校生のほうが大人なんじゃないだろうか。
条例だから歌うのだろうか。
法律で決められているから、人殺しをしないのだろうか、われわれは。
なぜそのような法律や条令があるのか、その理由を知ろうとはしないのだろうか。
「国歌歌え条例」の目的は、愛国心を定着させるためとか、そんなところのはずだけど、
まぁ百歩譲ってそれは良いとして、
だからといって、その国歌を歌わなかったところで、急に誰かに迷惑がかかったり混乱が生じる種類のルール違反じゃないのだ。
そういう種類のルールで、罰則を与え始めることは、ちょっと暴走しすぎじゃないのか、って思うよ。
国歌斉唱が必要かどうかをここで議論するつもりはありません。
ただ、少なくともそこには何十年にもわたる議論がさまざまに行われていて、思想とか捉え方・解釈の仕方にがたくさんあって、研究も進められてて、
そういうものについて、命令し、監視し、処罰を下す、というやりかたは急激で、異常で、急に受け入れることが出来ないものだな、と思ったのです。
橋下市長は、これを「踏み絵」という表現も使ったといいます。
どうなんでしょうね。
ところで踏み絵といえば、ガレキ処理の問題は、今後どうなっていくでしょうか。
最近では、ガレキ受け入れをするかどうかが話題で、受け入れそのものよりも、受け入れ表明できるかどうかが「踏み絵」のように使われていると思いませんか。
ガレキ受け入れ容認可否が、踏める踏めないのふるいにかけられているかのよう。
でも、本当はこの問題はもっと難しい問題で、放射性物質の拡散を防ぐべきという意味では、もっと慎重になるべきだと思うのだ。
心情的には、被災地のためにガレキを受け入れたいとは思うけど、それがどの程度の影響を持つのか、本当は専門家でもまだまだ未知数な部分を多く残すと思うのです。
そりゃ、ほとんどのガレキは大丈夫なのだろう、とは思う。
岩手県宮古市のガレキが、放射線を多く含むとは考えずらい。
遠いからね。
じゃあ、宮城県気仙沼市だとどうなのか。まぁ大丈夫だろう。
でもじゃあ、仙台より南の、名取市のガレキはどうなのか。
福島県相馬市のガレキはどうなのか。
政府が、放射線レベルは規定数値内といえば、それで全部ひとくくりにOKなのだろうか。
相馬市や南相馬市のガレキが、数値がギリギリセーフだったとして、そのガレキも受け入れられるだろうか。
そこまで本気の痛みわけを受け入れる覚悟は、あるだろうか。
難しいんじゃないかな、って思う。
また一方で、岩手県などの放射線の問題がほとんど無いと考えられる地域では、そのガレキは大量で、現地での処理は不可能ということだけど、
だからといって、それを本当に東京や静岡まで運ぶ必要はあるのだろうか。
岩手県の内陸の地域に、それをやれるところはないのだろうか。
放射線の問題を無視して考えるとすれば、過去の災害時のガレキをそうしてきたように、基本的に近場で処理することが、もっともシンプルでお金のかからない方法だと思うのだが。
そういう発言さえ、「踏み絵踏まない行為」みたいに思われそうなのが、今の風潮だと思う。
もちろん「近場で」という意味では、北海道も含まれてしかるべきだと思う。
わざわざお金かけて、遠くの静岡や大阪まで運ぶ必要はないと思ったからだ。
国歌歌えなくも処分、ガレキ受け入れないのも非国民。受け入れ表明しても猛反発。
もうね、なんか、嫌ですね。