粗碾き蕎麦の美味しさを求めて

地元箕輪町上古田産石臼碾き「信濃1号」が主体の蕎麦屋です。

開店休業

2012-07-22 13:30:42 | 雑感
だましだまし何とか使っていたミニコンポがどんなことをしても作動しなくなってしまった。一燈のBGMはジャズに始まり有線放送、ヒーリングミュウジックと移り現在ではギター演奏だ。

古賀メロディーを今では亡くなってしまった「山本丈晴」さんがギター演奏したものだ。お客さんからの反応も良いし、スタッフみんなも気に入っている。何とも蕎麦屋の雰囲気にピッタリだ。

BGMがここ1週間ほど流せない。何とも寂しい店内の雰囲気。お客さんからも「あのギター演奏がないと寂しいなァ」との声も聞かれるし、お客さんが居ない時など、まるで開店休業のようである。聞けなくなって初めて知ることができる。何でもそうだ。当たり前のことだが、無くしてみて初めてその有り難さに気づくことが出来る。

来週は新しいミニコンポで聞くことが出来るかな?物はまだイイ。お金さえ払えば手に入るから。問題はお金では買えないものを失った時だ。大事にしよう。

大したこたァーねェ

2012-07-18 12:53:23 | 雑感
先日、財布がなくなり大騒ぎ。私にすれば大金?入りの大事な財布。ゴルフ場の割引券、温泉の割引券と、会員券、診察券、各種カード類。大したことはないのだが私にとっては一大事。何処を探しても出てこない。

毎度のことで女房もあまり騒がないでいる。外食をしたお店に電話を入れるも「そのような落とし物は無かった」とのこと。長い財布をスラックスの後ろポケットに入れてあり、女房にも言われていた。「気を付けないと落としちゃうよ」。そうだ、何処かへ落としたんだ。とも思った。車の中もくまなく探してみたが出てこない。

朝、今日はみんなで温泉だ。お気に入りの健康ランド。でも、財布は出てこない。その中に健康ランドの会員券と、ポイントカードも入っている。女房が娘に車の中を探してみるように言ってみたが「無いよ」とのこと。

冷や汗が出てきたりして少々気が重い。少々どころではない、だいぶ気が重い。そこへ娘から電話。「ゴルフの鞄の中に財布らしき物があるよ」とのこと。嬉しかった。

俺も「大したこたァーねェ」タカが財布無くしたくらいで冷や汗かいて、顔も引きつっていた。一週間もすれば中に入っている一万円札も自分の財布からは無くなっているのに。「一切の法の仮有なる中に於いて実有の執をなすを虚妄執と名ずく」なんちゃって。

尺物

2012-07-12 11:06:03 | 雑感
このところ雨の日が続き畑にあまり出ることが出来ない。その為かキュウリの棚を見ると尺もあるキュウリがぶる下がっていた。それも2本。今朝女房が糟揉みにして出してくれた。そういえば、今朝のみそ汁、美味かったなァ。自家栽培の新ジャガだった。甘味があってとろけるような食感。なんといっても自分で育てた野菜には愛着があり、ツイ評価も甘くなる。葉っぱがテントウ虫にやられてしまい、穴だらけですっかり枯れてしまってはいるが、よく採れたものだと嬉しくなってくる。

今朝、一燈へ山ちゃがホワイトセロリと共に昨日獲れた天然イワナを届けてくれた。それも、一本はキュウリと同じくらいの尺物である。あとの2本も見事な型で日曜日の昼にみんなで塩焼きにして戴くことになった。有り難いことだ。

それにしても虫を殺すのがイヤで、テントウ虫を放っておいたのがまずかった。来年はシッカリと対策を立て立派なジャガイモ畑にするぞ。木酢液散布だ。

仮有への執著

2012-07-07 09:51:39 | 釣り
先日、「ヒッグス粒子」発見に王手という凄いニュースが飛び込んできた。素粒子物理の世界の進歩、発展には目を見張るものがある。もしかしたら自分の生きている間に暗黒物質やダークマターの存在などが少しは解ってくるかも知れないという期待も夢ではない。

どうしても我々普通の人間は、自分の今、目で見えている世界、お金や物しか信じることが出来ないということに慣らされている。無理もない。マスコミ、特にテレビ情報を通して我々の脳にそのようにプリンティングされてしまっている。

今回のヒッグス粒子を始めとする素粒子等ミクロの世界や、広大で果てしない宇宙空間等のマクロ世界など自分の感覚では理解できない。また、時間的な遠い過去の世界、まだ来ぬ未来のことなど、猛爆としていてとても理解など出来たものではない。

でも、何かその目には見えないものの中に大切なことが隠されていないか等と思ってしまう。思い・優しさ・愛・命・祈り・・・・・

金子みすヾさんの詩「星とたんぽぽ」の中に

  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えないものでもあるんだよ。という詩がある。

今、この時代、本当に大事なものは何かを問う時ではないのかとフト思う。

死ねば無か?

2012-07-03 16:02:48 | 釣り
好きな作家の一人である渡辺淳一さんが先日の新聞記事で言っていた。人間は死んだら「無」になると。整形外科医でもあった渡辺さん。作家として才能を発揮され、数々のヒット作品を生んだ。私などは「失楽園」で主人公になりきってしまうほど当時ははまったものであった。

でも、死んだら「無」になるという言葉にはチョット如何なものかと首を傾げたくなる。科学者や、少し高等教育を受けた方々はほとんど、死ねば「オール・ナッシング」と言う。それが科学を学んだ証でもあるかのように。もちろん最近では死後の世界を肯定する人たちが増えているという見方もあるが。

仏法に「空」という捉え方がある。「有」でも無く、「無」でも無い。「空」で在るという捉え方。概念等ではない。反省判断である。その、「空」でも、単空、析空、待空、相対空、絶待空等が説かれている。その「空」でさえも今度は「有」でもあり「無」でもありと再度反省遮照判断をして「中」と捉えるという。その「中」も「但中」・「不但中」等という反省判断があるという。「円融中道三諦」アー難しい。しかし、仏法は凄い。唯・唯「信・行」あるのみ。