これから述べるのは『エヴァ』の話ではなく、クラニオの話だ。
以前(というかもう10年も前だ!)に「ATフィールド展開!」という記事を書いた。その時はチャールズ・リドリーの『スティルネス』(注1)の訳書を出した後で、自己流解釈版リドリー風(笑)クラニオについて述べた。
今回はその続き、というより、その後10年かけて変化した私のクラニオの現在地について述べたい。
(注1)その『スティルネス』は版元の事業廃止によって現在は絶版になっている。復刊を希望する人は産学社エンタプライズに要望を出そう。ただし、この本かなり難解なので覚悟されたし。
チャールズ・リドリー、フランクリン・シルズなどが提唱しているクラニオセイクラル・ワークが、バイオダイナミックなクラニオ(あるいはクラニオセイクラル・バイオダイナミクス)と呼ばれるものだ。そして、そのバイオダイナミクスの基礎となるのが「無為の為(=何もしない、ということをする)」である。
この「無為の為」についてはクラニオの施術者の間でも「どこまでが無為と言えるのか?」ということを巡って意見の隔たりがある(例えばリドリーはシルズ的なバイオダイナミクスを完全否定している)が、「相手の身体に対して物理的操作を行わない」という点では一致している。
さて、フランクリン・シルズは『クラニオセイクラル・バイオダイナミクス』の中で「知覚場(perceptual field)」という言葉を頻繁に用いている(例えば「治療の流れの中で大きな知覚場を構築する」といった具合に)。だが、それだけ頻繁に用いながらシルズは「知覚場」とは何か明確にしていない(この辺りがシズルの文章の“なってない”ところだ)。
リドリーの『スティルネス』でも、施術者が心臓の同房結節を中心とする「心臓場(heart field)」(注2)に留まることの重要性が繰り返し述べられているが、シルズの「知覚場」とリドリーの「心臓場」とはどうも別物のようだ。
(注2)「心臓場」の代わりに「心臓知覚」という言葉が使われている箇所もある。
私はシルズからもリドリーからも直接クラニオを学んだわけではないので、どちらの肩を持つ義理もないし、誰にも気兼ねすることなく自説を展開することができる。で、私が用いるのが認識-思考場(awareness-thought field)、略してATフィールドである。
先の記事「ATフィールド展開」ではリドリー風にATフィールドを作る話を述べたが、今はどちらかというとシルズ風にATフィールドを作ることが多い。といっても上に述べたように私はシルズから直接話を教えを受けていないので、あくまで自己流解釈版シルズ風(笑)だが(その具体的な方法はセミナーで説明しているので、興味のある方はセミナーにどうぞ)。
で、私の行うクラニオとは、構築したATフィールドに相手のシステム(この「システム」というのはクラニオ独特の表現だ)の状態を映し出すこと、がほとんど全てである。スタイルはバイオダイナミクスなので、バイオメカニカルなクラニオのような身体への物理的操作は一切行わない。
では「相手の身体に対して物理的操作を行わない」のならば、そもそも相手の体に物理的に接触している必要はないのではないか?
私は過去記事「キネシオロジーの『風景』」の中で、
私たちのいるこの世界は「もの」であれ「こと」であれ、全て「情報」に還元される。つまり世界とは、それ自体が情報の集合体である。そして数学ではしばしば「集合」を「空間」と読み替えるので、それにならえば、世界の実相とは突き詰めれば巨大な情報空間だ。
そして筋反射テストとは、世界という名の情報空間にアクセスするためのツールの1つだと考えられる。
と書いたが、情報空間にアクセスするのは何もキネシオロジーの専売特許ではなく、クラニオでも可能なのではないか? そしてキネシオロジーでは、相手の情報空間にアクセスするのに相手に物理的に接触している必要はない。
──そこで考えたのが、物理的な接触を用いずにATフィールドを使って情報空間にアクセスする、「非接触型クラニオセイクラル・ワーク」である。
といっても治療室では、患者が目の前にいるのにわざわざ手を触れないで施術するというのもおかしな話なので、臨床する上で非接触型という部分の用途はあまりない。このメソッドの本当のキモは「ATフィールドを使って情報空間にアクセスする」という部分にこそある。
それについては「3」で述べよう。
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