個人的には今期のアニメは不作だったなと。で、録画してた『まど☆マギ』の最終回を見返したりしていたんだけど(なぜ最終回かというと、それ以外の回は消してしまったから)、そんな中、今、治療家、セラピストが見るべきアニメは何だろう、と考えてみたところ、それは西尾維新の「物語」シリーズだろうという結論になった。
『化物語』から始まる西尾維新の「物語」シリーズは、もともと発表を前提とせず、ただ作者が気の向くままに書いていたものらしいのだが、それがセカンド・シーズン、サード・シーズンとどんどん広がっていってしまっている。原作はまだ完結していなくて、『終(おわり)物語』の中巻まで発売されている。
その「物語」シリーズを『まど☆マギ』の制作も手がけたシャフトがアニメ化し、2013年末までにセカンド・シーズンまでの放送を終えたのが、アニメ「物語」シリーズである。
「物語」シリーズの全体を通しての主人公は阿良々木暦(あららぎ こよみ)で、彼はもちろん物語に深く関わっていくが、どちらかというと語られる物語の全体を見届ける狂言回し的な役なのではないかと思われる。実際、原作ではそれぞれの物語に阿良々木暦は登場するものの、物語ごとに語り手が変わっていく。
その彼、阿良々木暦は高校2年から3年に上がる春休み、吸血鬼に襲われ、彼自身も吸血鬼になる。その暦を救ったのが、学習塾跡に勝手に住んでいるアロハシャツ姿のゴースト・バスター、忍野(おしの)メメ。結局、暦は忍野によってほぼ人間に戻ることができたのだが、吸血鬼の特性が残っていて、ほとんど不死身なほど傷の治りが早いのだ。
で、『化物語』からは、そんな阿良々木暦の高校3年の日々が描かれる(ちなみに上に書いた前日譚は『傷物語』の中で語られていて、これだけは劇場版として制作されるようだ)。
物語は、足を滑らせて落ちてきた少女、戦場ヶ原ひたぎを暦が受け止めたことから始まる。暦の腕の中に落ちてきた彼女には、およそ体重と呼べるようなものがなかったのだ──。
その出来事があった後、同じクラスで、成績優秀であったにも関わらず話もしたことがなかった戦場ヶ原が突然、暦の前に現れ、彼の口にカッターの刃とホチキスを突っ込んで、あのことは誰にも口外せず、自分にも関わるなと言い置いて去るが、暦は怪異がからんでいると見て、忍野に相談する。
かくして、もう関わるなという戦場ヶ原の言葉を無視して暦が彼女を学習塾跡に誘い、そこで忍野が彼女に取り憑いた怪異を払う儀式を執り行うことになる…。
この「物語」シリーズの中で阿良々木暦は、体重を奪われた戦場ヶ原ひたぎ、決して目的地にたどり着くことのできない八九寺真宵(はちくじ まよい)、他人から呪いを受けたという仙石撫子(なでこ)、暦に対して突然、獣性を発揮する神原(かんばる)駿河、夜になるともう1つの人格が現れる羽川(はねかわ)翼など、怪異に憑かれた者たちと出会っていく。
…といった話はこの手の物語として、特に目新しくもない。ではなぜ、それを私が「今、治療家、セラピストが見るべきアニメ」だと思うのか? それには2つの理由がある。
1つには、この物語は怪異という存在を取っ払って考えると、彼女たちはある種の症状を抱えた者たちであり、彼女たちの病気=彼女たちの憑かれた怪異は、その生きてきた過去や作ってきたアイデンティティ=彼女たち自身の物語と不可分なものだからだ(それがどういうものかは、実際に原作を読むかアニメを見てほしい)。
そう、「病気とは物語」なのだ。
おのころ心平さんは
病気は決してマイナスではなく、むしろ病気やカラダの不調は、その人の「いまだ発現されていない才能」とみることができる
という考えから、『病気は才能』という本を書いたが、私はむしろ「病気はその人の物語の所産」と見る。
とすると、治療とはその人の物語に介入する行為、に他ならない。
そう考えると、固いところを緩めるとか、可動域が狭いのを広げるとか、動きが均等でないのを調整するとか、そうしたこと自体に何か本質的な重要性があるわけでない、という結論に達する(誤解しないでほしいのだが、そうしたことを行うのが無意味だといっているわけではない。ただ、そういうことを行うのが治療の本質なのではない、と言いたいだけだ)。
私個人としては、「病気は物語」ということを明確に意識できたことで、今年2014年はもう他に何も得ることがなかったしても十分満足できるくらいにホクホクしているのだが、まだ2つめの理由を述べていなかった。
阿良々木暦と彼女たちの物語は『化物語』(と『偽(にせ)物語』)の中で一応の完結を見るのだが、実際にはその物語はまだ終わっていなかった。羽川に対しては怪異(病気)が現れるのを一時的に抑えただけだし、仙石に至ってはその本当の物語には触れてさえいなかった。その続きがその後の『猫物語(黒)』以降で語られる。そう、物語はそう簡単には終わらないのである。
これを今、治療家、セラピストが見るべきだと私が思う理由のもう1つは、つまりそういうことだ。
世の中には、非常に高い効果をうたうメソッドがたくさん存在している。例えばキネシオロジーにもクラニオにも、(上で書いた言葉を使えば)わずかな時間でその人の物語を素晴らしいものに書き換えられる、というメソッドがあり、実際にそれで救われたという人たちもいる。
私はそのことを否定するつもりはないが、しかし(少なくとも私個人は)「物語はそう簡単には終わらない」ということだけは決して忘れたくない。
何より、この「物語」シリーズがまだ終わっていないのだから。
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