深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

聖家族

2014-03-16 22:20:39 | 趣味人的レビュー

この記事は劇場版アニメ『イノセンス』のOSTから「傀儡謡 陽炎は黄泉に待たむと」とともに行こう。
 

このところマインドが小説を受け付けないモードになっていたのだが、古川日出男の『聖家族』上下巻合わせて1330ページを1日約200ページずつ(最終日は約130ページだが)、まるで行のように7日間かけて読んだ。

そう、それはまさに行という言葉がふさわしい7日間だった。『聖家族』という作品は、小説と呼ぶには全く異形の存在だったから。

古川日出男という小説家については、この本を読み終えた今もほとんど何も知らない。そもそも『聖家族』を買うまで、そんな作家がいることすら知らなかった。この本は本屋で本に“呼ばれ”て買ったものだ。


『聖家族』は、死刑が確定し、拘置所でその執行の日を待つ狗塚(いぬづか)羊二郎の話から始まるが、これはいわゆる普通の小説ではない。では何か、と問われると上手く答えることができないが、書かれているのは「記憶」だ。

それは狗塚と冠木(かぶき)という2つの一族の血の記憶であり、都の鬼門にあり、“みちのく”と呼ばれた東北という地の記憶であり、日本の歴史の裏側で連綿と引き継がれてきた知の記憶、…この『聖家族』に描かれているのは、そういった「記憶」の集積に他ならない。

そうした記憶と記憶と記憶の果てに立ち上がってくる、物語ともつかない物語──それが『聖家族』だ。


古川日出男は「あとがきに代えて」の中で、この作品がライバル視したのはA.ガウディのサグラダ・ファミリア(「聖家族」贖罪教会)だと書いている。

そうして脱稿した拙著『聖家族』にはガウディのサグラダ・ファミリア同様に

1.そこには真っ直ぐな線はない。
2.どの挿話もグネグネしている。
3.しかし、時に文体は鋭角さを極めて、だから(いわば)ネオ・ゴシックとアール・ヌーヴォーの混沌が生じる。
4.細部は見つめ続けると増殖する。
5.モチーフに溢れている。

このような“形”が備わったはずです。

と。

けれども私は、これを読みながらサグラダ・ファミリアとは全く別の作品を思い出していた。それは夢野久作の『ドグラ・マグラ』である。


『ドグラ・マグラ』もまた「記憶」をテーマにした物語だった。胎児の夢、生と死の記憶、、あるいは記憶の遺伝──その『ドグラ・マグラ』が九州という風土の中で生み出されたものだとするなら、『聖家族』は東北という地と風土が生み出した、もう1つの『ドグラ・マグラ』だ。そう感じる。

その証拠に、『ドグラ・マグラ』は

胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか

という一節で始まるが、それはまるで『聖家族』の冒頭

そしてお前たちは順番に生まれる。
そしてお前たちは三兄弟妹(きょうだい)となる。
(中略)
お前たちは狗塚の三兄弟妹としてこの世に生まれる。

と呼び合っているようではないか。

『ドグラ・マグラ』は奇書と呼ばれているが、そういう意味では、この『聖家族』もまた通常の小説の範疇から大きく逸脱した「奇書」の類である。


ところで『聖家族』は青森秋田山形岩手宮城福島──東北という地の記憶を描いているが、そこに抜け落ちているものがある。震災、の記憶だ。それは『聖家族』が書かれたのが震災前の2005年から2008年にかけて、であったからである。

それはつまり、『聖家族』という物語はこれで終わったわけではなく、現在進行形で今も続いている、ということに他ならない。一族の血の記憶も、東北という地の記憶も、日本の歴史の裏側で連綿と引き継がれてきた知の記憶も、異形の物語として今なお続いているのである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 観客席 | トップ | ものがたり »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

趣味人的レビュー」カテゴリの最新記事