アメリカでは大統領選に合わせて公開され、トランプ陣営が公開差し止めに動いたとされる『アプレンティス ドナルド・トランプの創り方』は、いろいろな意味で興味深い映画だった。
父、フレッド・トランプの営む不動産業を手伝いながらも、入居者からの家賃の徴収さえ難儀する20代の無名の青年、ドナルド。それでも将来を見据えた人脈作りのため有名人が数多く加盟するクラブの会員になると、そこでニクソン大統領などの顧問弁護士を務めていたロイ・コーンに声を掛けられる。勝つためには手段を選ばない悪名高い冷酷な男、ロイはなぜかドナルドを気に入り、
ルールその1:ひたすら攻撃、攻撃、攻撃
ルールその2:決して自分の非を認めるな
ルールその3:自分の勝利を主張し続けろ
という〈勝つためのゴールデン・ルール〉を授ける。そしてドナルドはロイのアプレンティス(apprentice:見習い、弟子)として彼の全てを身につけ、いつしか師であるロイをも超えた“怪物”へと変貌していく。
ドナルド・トランプについての徹底的なリサーチに基づくとされるこの作品の、どこまでが事実で、どこからが映画的な誇張あるいは虚構なのかは私には分からないが、この作品が観客に示すものは、単なる「ドナルド・トランプの一代記」に留まらない。私にとって印象深かったものを以下に挙げると…
1つは師と弟子の関係。タイトルが如実に示す通り、これは何より師弟関係を描いた作品である。見ていて
「みだりに人を師とすべからず。みだりに人の師となるべからず」
という吉田松陰の言葉が何度も頭をよぎった。そもそも師弟関係は、単なる教師と生徒の関係や同志の関係ではない。例えば禅の世界では「師弟は仇敵の間柄」とも言われ、時に一方が他方を死に至らしめるほど、その修行は苛烈を極める。その意味で、ロイとドナルドは最高の師弟関係だったとも、最悪の師弟関係だったとも言えるが、人を師とすること、人の師となることの運命にも似た不思議さが、今も頭から離れない。
そしてもう1つが、老いについて。あまり表立って語られないが、この作品のもう1つの大きなテーマが老いである。私が考える「老い」とは、「これまで得たものを失っていくこと、あるいはその過程」だ。誰であれ、死に向かっては、これまで手にしてきたものを手放さざるを得ない。財産も、地位も、名声も、権力も、墓場まで持って行くことはできないのだから。ドナルドがロイから学んだ最後のことがそれだが、それに逆らおうとしたことが、ドナルド・トランプが“怪物”へと変わる最後の1ピースとなったのかもしれない。
映画ではドナルド・トランプが大統領を目指すところは描かれない(その動機につながる、いくつかのことがほのめかされるだけで)。なので以下は映画の内容を離れて、私はこう思う、というだけのことに過ぎないが…
トランプが大統領を目指した理由は、もちろん愛国心とか権力欲とか社会を変えなければならないという問題意識もあったのだろうが、何より一番は「カネでは買えないものがほしかった」のだと思う。嘘とハッタリを弄したとはいえ、アメリカを代表する大実業家に上り詰め、有り余るカネを手にした彼は、自分の存在意義を(何より自分自身に)示すには「カネ(だけ)では手に入らないもの」を手にする必要があったのだと私は見る(映画と絡めるなら、それが「ロイを超える」ことの1つでもあったのかもしれない。ロイは「大統領の顧問弁護士」ではあったが、大統領ではなかったのだから)。
では、トランプが再び大統領を目指した理由は? 自身の訴追を免れるためかもしれないし、2期目を目指しながらバイデンに敗れたことを覆すためかもしれない。ならば大統領に返り咲いた彼が真に目指すものとは何か? これまで誰も手にしたことのないもの、手にできなかったものを手にすることかもしれない。それが例えば合衆国永世大統領の座だとしたら、その後に起こるのは内戦(シビル・ウォー)だろうか?
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