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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

脳と意識

2016-01-24 09:16:31 | 一治療家の視点

「意識」とは何か?──その半ば哲学的とも言えるその問い対して、過去20年の認知科学、神経生理学、脳画像研究の成果を元に、思索的にではなく徹頭徹尾、検証可能な実験的アプローチによって迫ったのが、スタニスラス・ドゥアンヌの『意識と脳』である。


なぜ「意識」を実験的に調べることができるのか? それは「意識」というものの定義による。

「意識」に関する言葉は日常生活でもよく出てくるが、多くの場合、言葉の使い方は非常に雑で、意味は巧妙にぼかされている。例えば、潜在意識と無意識とは全く違うものでありながら、しばしば同じもののように扱われ、ほとんどの人はそれを疑問に思わない(恥ずかしいことに私自身がそうだった)。

この本では、コンシャスアクセスのみを純粋な意識と定義する。このコンシャスアクセスとは、外部から押し寄せる、あるいは内部で生じる、圧倒的な量の情報への脳のアクセス(あるいはアクセス形態)、とでも言えばいいだろうか。この情報へのアクセス(形態)は非常に選択的であり、その選択(あるいは選択システム)が意識と無意識という2つのものを作り出している。同時に、どこに注意を向けるかで選択される情報は容易に切り替わるので、意識される領域と意識されない領域(つまり意識と無意識)もまた非常に短い時間の中でめまぐるしく切り替えられることになる。

また、(目に映った時間があまりにも短いため)本人がそれを全く認識できていなくても、脳自体はその視覚情報をきちんと捉えていて、その情報が本人の行動 判断に影響を及ぼしている、ということが現実にあることがわかった(これが今や都市伝説と化しているサブリミナル効果に対する実験結果だ)。そして例えば、その情報が「○○するな」といったようなものであると、その人は自然にそうしたことを避けるような行動パターンを取ることも。

このことから、スピ系でよく言われる「無意識は否定形を理解できない。だからアファメーションは必ず肯定形にしなければならない」などというのは、全くのウソであることがわかる。

こうした実験主体による意識の研究は、「意識」というものに我々が漠然と抱いている特権性、特殊性、神秘性を根こそぎ奪い去っていく。実際、彼らの立場はこうだ。

ウィリアム・ジェイムズが提起する有機体(オーガニズム)という概念の基盤には、この考え方が存在する。彼は、「〈脊髄がいくつかの反射作用を備えた機械 であるのと同じように、大脳半球はそれを数多く備えた機械だ。違いはただそれだけだ〉となぜ言えないのか?」と修辞的に問い、次のように答える。進化した脳の回路は「不安定な均衡状態の一つに置かれることが自然であるような組織」として機能し、それによって「その所有者が、環境のごくわずかな変化に自らの行為を適応できるようにする」。


だからこそ、「意識」を数学モデル化してコンピュータ上に構築することができると考えていて、実際それが今進行している。

それに対して、(私もまた「意識」とは特殊で神秘的なものだという思いがあるからだろう)そんな実験で意識のどれほどが掴めたと言えるのか、という反発も感じないではないし、脳によって脳を調べる、ということがどこまで可能なのか?という議論もある。ただ、一度こういった唯物論的な立場からの「意識」の研究に触れておくことは、「意識」に対する凝り固まった見方が木っ端微塵に突き崩される、という意味で非常に刺激的だ。

その上でなお、「意識」とはこの本に書かれているような単純で機械的なものではない、というなら、改めて以下の問いに彼らとは違う明確な定義で答えなくてはならない。

ならば、意識とは一体何なのか?

※「本が好き」に投稿したレビューを加筆修正したもの。


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