深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

押井守の話を聞きに行く

2016-01-29 19:23:46 | 趣味人的レビュー

私は埼玉県草加市の在住だが、北千住にある足立区の中央図書館は草加市立図書館に比べて専門書類が充実していて、よく調べ物にも行くので、足立区立図書館の貸し出しカードも持っている。

その足立区の中央図書館が15周年の記念イベントとして、1/24に東京電機大のホールで『押井守の世界観』というトークイベントを行った。年末に図書館に行ったら参加希望者を募っていたので、ダメ元で申し込んだら抽選に通って、この日、最大級の寒気の南下で沖縄を含む全国で雪が降る中にあって関東だけ青空の下、いざ北千住へ。

ちなみに、私が押井守の名を初めて知ったのは映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だったと思う。この映画、公開時は吉川晃司のデビュー作で主演作『すかんぴんウォーク』と2本立てだったが、その世界観の凄さに打ちのめされた。アニメという枠を超えて、見てあれだけ衝撃を受けた映画というのは、そうない。

とはいえ、それからすっかり押井フリークになった、というわけでもなく、私が最後に見た押井作品は『攻殻機動隊』の続編、『イノセンス』だったというわけで、全然押井ファンではないのだが、どんなのを作っているのか常に気になる人ではあった。

せっかくなので『イノセンス』のOPを添付しとこう。



さて、今回のトークイベントは図書館が主催ということもあって、押井守の図書館や本との関わりが話の中心だった。以下、私のメモをもとに押井守の語った内容をまとめてみた。

普段は伊豆の山のてっぺんに住んでいるので、全国的に雪という天気予報を見て、今日ここに来られるかどうか一瞬心配した(関東は晴れると言っていたが、自分は伊豆の山の上なので、そこから降りられなければ行けない)が、「行けなければ、それまでだ」と思って、今朝までゲームして過ごし、それからここに来た。荒川あたりはロケでよく使うが、足立区に来るのはこれが初めて。

父親は法律家を志しながら紆余曲折あって探偵業を営むことになった人。とにかく本が嫌いで本を買ってくれなかったので、子供の頃は図書館小僧だった。小学校では『ファーブル昆虫記』、中学校では北杜夫にハマった。高校時代は図書委員のなり手がいなかったので、自分が立候補して図書委員になった。当時は学園紛争が真っ盛りの時期で、図書委員になると学校の図書室に入れる本を自分で決められるので、ここぞとばかり全共闘関係の本とSFを買わせることに心血を注いだ。また作家訪問で光瀬龍のところに行って親しくなり、ご飯まで出してもらうようになったりして、一時SF作家を志した。

ただ、自分はこうして映像作品を作っているが、作品を書いてどこかのコンクールに出して賞を取って…といった手順を踏んでいたら、絶対SF作家にはなれなかったと思う。

大学では古本屋に入り浸る。当時、教科書は売ると定価の7掛けで買い取ってもらえたので、授業中は他の人に見せてもらうことにして、できるだけ新しいうちに売り飛ばしてカネを得ていた。何しろ、本は誰かに買わせてそれを借りるものと思っていて、自分で本を所蔵するという考えはなかったから。

自分が本を持つようになったのは宮崎駿に言われて。監督として使う本はとにかく高価なのでローンを組むしかない。そのローンから自由になったのはここ5,6年のこと。

映画を撮る時はダンボール7,8箱の本を買い込み、撮り終えるまではこれ以外の本は読まないと決める。そして、その買い込んだ本を整理するところから始める。棚の前に立って手に取った本が自分の道筋を決める。

今、所蔵していた本の断捨離をしていて、マンガなどは8割を捨てた。残っているのは諸星大二郎といしいひさいちで、最後まで残るのは諸星大二郎だけか。それから『SFマガジン』が残っている。一時バックナンバーまで探して買い揃えたが、ここ30年くらいコンテナの中で、一度も出していない。だが捨てられない。

本を整理していって、最後に残った本がその人の正体なのだと思う。

テキストと書籍は違う。テキストとはデータであり、所有することはできないが、書籍はものであり、所有することができる。不運にも消えていく本もあるが、本という形で出る限り、誰かがどこかで持っているものだ。だから書籍は文化だ。そもそもダウンロードできるものを文化と言えるのか?

最後まで残る/残すべき映画(動画)は?と考えると、機材がなければ見られない映画(動画)は残らないんじゃないだろうか。所詮は映画は(機材のいらない)本には勝てない。映画というのは儚い形式で、だからこそ愛おしい。

自分は普遍的な、引用されるような映画を撮りたい。

言葉とつき合う、本とつき合う、映画とつき合う、というのは実は全部同じこと。本にしろ映画にしろ、人間の知的活動の産物であり、それを「つまらねえ」の一言で片付けるな。


以下、Q&A。

―映像化したい作品はあるか?
ない。依頼があれば何でもやる。

―映画での音楽の付け方は?
自分の好きな音楽はあるし、好みの音をつけていたこともあるが、映像から音作りをする川井憲二と出会って変わった。ただ楽器のセレクトだけは気をつけている。

―映画の中に犬がよく出てくるが、お気に入りは?
よく動物や子供を泣かせて客を引きつける映画あるが、そういうのは大嫌い。犬は大好きでよく飼っているが、死に別れることが一番つらい。動物といると人間がいかにダメかということと、命を慈しむことを学べる。動物は飼うべき。

―日常生活の中で感性を磨く努力は?
感性と言えば聞こえはいいが、要するに感覚だ。それだけを取り出してきて価値を与えることに意味はない。それから他人の感性が理解できるなんて思うな。それに感性なんて磨いてどうにかなるものでもない。

―SFが日常になりつつあるが、それについてどう思うか?
よく「未来を予見してる」なんて言われるが、そんなことはない。そもそも未来を語るのは、現在を語るための方便に過ぎない。現在にあって現在を語ることは難しいので、それを未来に仮託して語っているだけ。SFに限らず時代劇だってファンタジーだ。現在をダイレクトに語らないのは、そこに普遍性を持たせるため。

―アニメを撮る時と実写を撮る時の違いは?
実写の場合は生身の役者が相手なので接し方が違う(朝早く起きるとか、暑いとか寒いとか)。アニメは実写よりギャラはいいが監督はどんどん不健康になる。アニメを撮っている時は酒が不味い。

―アニメ業界の今後は?
言いたいことはありまくりだが、言うと悪口になるのでやめておく。アニメに関してはダメだろう。アニメ映画をつくるには絶対的にお金が必要だが、今は制作費は1~2億、がんばっても3億ぐらいしか出ない。その上、見る人もいなくなってきているから、それも回収できない。かつての疾風怒濤の時代は二度と来ない。もう峠は超えた。

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