深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

50歳

2013-08-05 11:50:23 | 一治療家の視点

私は2012年10月26日に50歳になったのだが、その1年くらい前から頃からずっと、頭の中に「もう50歳だから云々」という声が繰り返し繰り返し聞こえるようになった。

それまでは自分の年齢なんて気にしたことはなかった。例えば学生の頃、「ああ俺もう10代じゃなくなっちゃうよ~。どーしよー」などと騒いでいるヤツがいたけど、何でそんなことを気にしなければならないのか、全然理解できなかった。

会社員の頃に30になり、会社員を辞めて治療家になって40になったが、そんなことは自分にとって、ただ数字が増えたという以上の意味はなかった。──というか、何かを申し込む時、年齢を書く欄があると、少し考えないと自分が今、何歳なのか思い出せないくらい、歳を意識することがなかった。

それが50歳になる前後から、それまでの自分としては信じられないくらい、年齢というものを異常に意識するようになったのだ。

最初は「50年といえば半世紀だから、これだけ生きたという一種モニュメンタルな意味合いがあるからかもしれない」とも思ったが、それにしては頭の中に聞こえる「もう50歳だから云々」という声が一過性のものではない。

で、例によって仕事がヒマなので、つい先日ふと思い立って、その声が本当は何を訴えようとしているのかを探ってみることにした。


使ったのはフォーカシングというメソッド。シカゴ大学のユージン・ジェンドリンが、学生に対するカウンセリングや心理療法の様子を記録した膨大な録音テープを調べ、よい結果が出たケースと出なかったケースとの間にどんな違いがあるのかを抽出して、それに基づいて構築したメソッドだ。

フォーカシングでは、体に現れるかすかな感覚(これをフェルト・センスと呼ぶ)を感じ取り、それを言語化することで、その人の深層心理を読み解いていくく。

フェルト・センスが表していると思われるものを言葉で表現し、それが正しい解釈かを再び体に聞くのである。そうやって体との言葉のキャッチボールを繰り返していく中で、体がフェルト・センスを通じて訴えかけているものを上手く言い表す言葉を見つけ出すことができると、フェルト・センスが一瞬で消える「フェルト・シフト」と呼ばれる現象とともに、自分の中に「そうか、そういう意味だったのか!」という気づきが起こるのである。

もちろん、始めてすぐにそこまで行けるとは限らない。フェルト・シフトに至るまでには何日も、あるいはもっと時間がかかることも少なくない。


今回は、体に対して「自分の中で50歳になったことを気にしているのはどこだろう」と問いかけるところから始めた。すると両目とその周囲が黒ずんでズーンと重くなったような感覚が現れた。これがその問いかけに対する私のフェルト・センスだった。

で、その感じたものを言語化していく。

黒…、重い…、沈む…どれもフェルト・センスは変わらないので、50歳という言葉から連想されるものに更に広げていく。
死…、死が近い…、死ぬのが怖い…といった「死」のバリエーションでもフェルト・センスは変化なし。
歳を取った…、疲れた…といったものでも変化なし。
フェルト・センスが現れているのが目の周囲だったため、目が悪くなった…とすると少し変化あり。

そこから連想と直感を使ってさまざまな言葉/表現を作っては、それをもう一度、体に戻して、フェルト・センスの変化を見ることを繰り返していった結果、次第にわかってきたのは──

私は以前から乱視があったが、4年くらい前から急に遠視が加わって小さい字が読めなくなった。これまでも治療の練習を兼ねて、自分で自分の体の不具合を治してきたので、当然この目の問題についても、さまざまな治療を試みてきたが大きな改善はなく、むしろここに来て、その見えづらさが逆に増しているといった状況にある。

その、目を中心とした「自分で自分の体をコントロールできない(あるいは、できなくなりつつある)」ということへの恐れが、あの頭の中に絶えず聞こえる「もう50歳だから云々」という声が意味するところだったようだ。


もう少しつけ加えるなら、私が自分で自分を治療してきたのは、「治療法を勉強しても練習相手がいないので、自分自身を使って練習するしかなかった」という事情があったためでもあるが、同時に(他人を信用していないので)「自分のことは自分でやるし、自分でできなければならない」という「自己コントロール願望」の裏返しでもあったようだ。

そうした、ある意味「自己完結した世界」が、目を上手く治せないことによって崩れてきていることが、私にとって大きな恐れの感情を生み出しているらしい。


それがわかったことで、頭の中の「もう50歳だから云々」という声はずいぶん減った。といっても、まだゼロになったわけではなく、今朝もまた続きをやったりしている。


さて、この長い記事をここまで読んでもらった方には、せっかくなので最後に中島みゆきの『帰れない者たちへ』でも聴いてもらおうか。

帰れない者たちが 月に泣く十三夜
帰れない歳月を 夢だけがさかのぼる

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