よくキネシオロジーの体験会やセミナーなどでやられているのが、「術者が相手に何かを持たせたり体に乗せたりすると、それ以前は強かった筋肉が急に脱力してしまう」というパフォーマンスだ。「何かを持たせる/乗せる」以外にも、体のどこかをTLする/TLさせる(注1)ことで同じパフォーマンスを行うこともあるが、やられている相手にも、周りで見ている人たちにも、筋力の違いがハッキリわかるので、「キネシオロジーとはこういうものだよ」ということを理解してもらうのには重宝している。
(注1)セラピー・ローカライゼーション(Therapy Localization)の略。意味は「治療すべき部位を特定する」ということ。TLとして実際に行うのは手で体のどこかに触れることだが、問題のある部位に触れると筋力が落ちるので、筋反射テスト(筋肉反応テスト)と組み合わせることで治療すべき部位を割り出すことができる。
特に、物を持たせたり乗せたりして筋力の変化を見せると、「これだけで体に合う物と合わない物がわかるんだ」と感動してもらえるようで、その後、治療の時に薬やサプリメントなどを持ってきて「これ、合うかどうか診てください」と頼まれることが多い。
確かに「持たせる・乗せる」で、その物が合う・合わないをチェックすることはできるし、「キネシオロジーごっこ」のレベルならそれでいいのかもしれない。だが、実際の治療・セッションは、そんな「ごっこ」レベルではすまないことが多々ある。「キネシオロジーでは、結果は必ずYes/Noのいずれかで出る」みたいな誤解も一部にはあるようだが、体とはそんな単純なものではないのだ。
私は以前、重金属が使われていた歯の詰め物を樹脂に代える治療を受けた。受診した歯科の先生はキネシオロジーを使いこなせる人で、樹脂も私の体に合うかどうかチェックした上で使ってくれた(この時、私自身も一緒に確認していた)のだが、治療後しばらくして、本屋で猛烈な頭痛に襲われた。その日は日曜で歯科医院は休みだったため、その先生に連絡を取ることもできず、仕方なく本屋の中で半分倒れそうになりながら自分で自分を治療する羽目になった。今となってはいい経験だったと思うが、同じ経験をまたしたいかと聞かれたら絶対に御免こうむる。だがなぜ、そんなことになってしまったのか?
先生は樹脂を腹部に置いてチェックし、キネシオロジー的にはOKだった。だが実は、同じ樹脂を口に持って行くとNGになっていたのだ。つまり、その樹脂は体全体としては(あるいは腹部としては)OKだが、口ではNGだった。体は全体と局所とで全く違う評価を出していたのである。
同じことが薬でもサプリメントでも、あるいは一般の食品でも言える。体のどこに置いたかによって筋反射テストの結果は大きく変わるのだ。先の樹脂の例と同様、体全体としてはOKだが反対を唱える部分もある、といったことが普通に起こる。だから私のところでは、薬やサプリの評価を頼まれたら、必ず体全体の評価と局所の評価を診た上で、その結果を患者に話すようにしている。そう、単純に「その物を手に持っても筋力が変化しなかったからオッケー」では済まないのである。
体は決して単純な統一体ではない。さまざまな部分が利害関係を持ちながら緩やかにつながり合う複合体でもあるのだ。このunityとしての面とcomplexityとしての面を同時にとらえていかなければ、道を誤ることになる。ましてや体を「心身」として扱うとなれば、なおのこと。
最近では筋反射テストをスピリチュアル(注2)な方向に使っていこうという流れがあって、私もそれには非常に興味を持っているのだが、その反面「あなたの潜在意識はこう言ってます」「これがハイアーセルフの答です」みたいなものに対して、そういう潜在意識やハイアーセルフは本当に一枚岩なのだろうか、という疑問もある。例えば、術者自身が「こうであってほしい」という「声」や「答」をピックアップして、それがあたかも全体の意向であるかのように解釈しているだけ、ということはないのだろうか、と。
(注2)スピリチュアル(spiritual)には日本語で「精神的な」と「霊的な」の2つの訳語があるが、ここではその両方の意味で使っている。
そういう疑問に対しては、あるいは「肉体→精神→…と上位の階層に行けば行くほど『神』の領域に近づくので、complexityとしての面が消えてunityとしての面が残るから、問題ない」という答が用意されているのかもしれない。西洋のキネシオロジストなら、そう言いそうだ。唯一絶対神を頂く一神教を信奉する限り、その説明はとても明快に感じられるだろうが、そうした一神教的宇宙観そのものに疑いを持つ私としては、その答には納得できかねる。
「おそらくスピリチュアルなレベルもunityとcomplexityの両方の面があって、それを同時にとらえていかなければならない」というのが私の考え方で、だからツールもそれに耐えうるようなものとして作っていかなければならない、と思う。が、それはまだこの先の話。
(注1)セラピー・ローカライゼーション(Therapy Localization)の略。意味は「治療すべき部位を特定する」ということ。TLとして実際に行うのは手で体のどこかに触れることだが、問題のある部位に触れると筋力が落ちるので、筋反射テスト(筋肉反応テスト)と組み合わせることで治療すべき部位を割り出すことができる。
特に、物を持たせたり乗せたりして筋力の変化を見せると、「これだけで体に合う物と合わない物がわかるんだ」と感動してもらえるようで、その後、治療の時に薬やサプリメントなどを持ってきて「これ、合うかどうか診てください」と頼まれることが多い。
確かに「持たせる・乗せる」で、その物が合う・合わないをチェックすることはできるし、「キネシオロジーごっこ」のレベルならそれでいいのかもしれない。だが、実際の治療・セッションは、そんな「ごっこ」レベルではすまないことが多々ある。「キネシオロジーでは、結果は必ずYes/Noのいずれかで出る」みたいな誤解も一部にはあるようだが、体とはそんな単純なものではないのだ。
私は以前、重金属が使われていた歯の詰め物を樹脂に代える治療を受けた。受診した歯科の先生はキネシオロジーを使いこなせる人で、樹脂も私の体に合うかどうかチェックした上で使ってくれた(この時、私自身も一緒に確認していた)のだが、治療後しばらくして、本屋で猛烈な頭痛に襲われた。その日は日曜で歯科医院は休みだったため、その先生に連絡を取ることもできず、仕方なく本屋の中で半分倒れそうになりながら自分で自分を治療する羽目になった。今となってはいい経験だったと思うが、同じ経験をまたしたいかと聞かれたら絶対に御免こうむる。だがなぜ、そんなことになってしまったのか?
先生は樹脂を腹部に置いてチェックし、キネシオロジー的にはOKだった。だが実は、同じ樹脂を口に持って行くとNGになっていたのだ。つまり、その樹脂は体全体としては(あるいは腹部としては)OKだが、口ではNGだった。体は全体と局所とで全く違う評価を出していたのである。
同じことが薬でもサプリメントでも、あるいは一般の食品でも言える。体のどこに置いたかによって筋反射テストの結果は大きく変わるのだ。先の樹脂の例と同様、体全体としてはOKだが反対を唱える部分もある、といったことが普通に起こる。だから私のところでは、薬やサプリの評価を頼まれたら、必ず体全体の評価と局所の評価を診た上で、その結果を患者に話すようにしている。そう、単純に「その物を手に持っても筋力が変化しなかったからオッケー」では済まないのである。
体は決して単純な統一体ではない。さまざまな部分が利害関係を持ちながら緩やかにつながり合う複合体でもあるのだ。このunityとしての面とcomplexityとしての面を同時にとらえていかなければ、道を誤ることになる。ましてや体を「心身」として扱うとなれば、なおのこと。
最近では筋反射テストをスピリチュアル(注2)な方向に使っていこうという流れがあって、私もそれには非常に興味を持っているのだが、その反面「あなたの潜在意識はこう言ってます」「これがハイアーセルフの答です」みたいなものに対して、そういう潜在意識やハイアーセルフは本当に一枚岩なのだろうか、という疑問もある。例えば、術者自身が「こうであってほしい」という「声」や「答」をピックアップして、それがあたかも全体の意向であるかのように解釈しているだけ、ということはないのだろうか、と。
(注2)スピリチュアル(spiritual)には日本語で「精神的な」と「霊的な」の2つの訳語があるが、ここではその両方の意味で使っている。
そういう疑問に対しては、あるいは「肉体→精神→…と上位の階層に行けば行くほど『神』の領域に近づくので、complexityとしての面が消えてunityとしての面が残るから、問題ない」という答が用意されているのかもしれない。西洋のキネシオロジストなら、そう言いそうだ。唯一絶対神を頂く一神教を信奉する限り、その説明はとても明快に感じられるだろうが、そうした一神教的宇宙観そのものに疑いを持つ私としては、その答には納得できかねる。
「おそらくスピリチュアルなレベルもunityとcomplexityの両方の面があって、それを同時にとらえていかなければならない」というのが私の考え方で、だからツールもそれに耐えうるようなものとして作っていかなければならない、と思う。が、それはまだこの先の話。
治療と同じでしょう、これ1つだけで事足りる…という事はありえぬはずです。
もちろん各人各様の好みはあるでしょうが、色んなモノが影響しあってそのモノになっているはずです。
ヒーリングにしろ成功哲学にしろ、巷にあふれているものの多くは一神教的世界観をベースにしています。もしそうした世界観が誤りであったというようなことになったら、現在のヒーリングや成功哲学の体系はどうなってしまうのか──考えただけでワクワクしてしまう自分がいます。
そんな考えを持つようになりました
でも今まで以上に自分の考えにまとまりがつかなくなったのが悩みの種なんです(笑
>「一元論」というのは人間の横着に起源するのでは?
私はむしろ、怖さゆえではないかと思います。
人はさまざまな価値基準の中で気持ちが揺らぐじゃないですか。何が正しく何が間違っているのか、とか。
多様な価値基準を認めれば認めるほど、人はブレていってしまう。その怖さに耐えられなくなると、ほしくなるのが「絶対的な何か」であり、そのための方便が「唯一絶対なもの」、つまり一神教的な神だったのではないか、と私などは思ってしまうのです。
恐怖心の方が上位的な心理状態ですからおっしゃるとおりかもしれませんね
身体の軸も大切ですが、心の軸も必要なわけですね
アフターフォローしかも完全公開!!!!!
>体のどこに置いたかによって筋反射テストの結果が変わるのだ。
なんと恐ろしい御言葉
普通は気付かないか、恐ろしくて言えない。
早く使いこなせる様にならねば!!!
ありがとうございます!
昨日、ウル@俺の家さんが、色紙に
sokyudo先生の似顔絵を書いてくれました!
みんなで書き込むまでお待ちください。 笑
考えてみると、これまでの文明は
ギリシア→ローマ→イスラム→ヨーロッパ→アメリカ
とシフトしてきたワケですが、皇帝がキリスト教に改宗したローマ時代末期からずっと、一神教を頂く民族が文明の担い手のなってきたことがわかります。つまり、現代文明は一神教的なあり方の上に構築されているのです。
その文明が行き詰まりを見せている、というのは、すなわち一神教的世界が終焉を迎えつつあるのではないか、と。そしてマヤの暦に基づく「2012年に世界が終わる」というのは、そういうことを言っているのではないか、というのが私の個人的な考えです。
本文のテーマから大きく外れてしまいましたが…。
>nanahoshi先生
>普通は気付かないか、恐ろしくて言えない。
だから、あえてここに書いたんです。
物質でも波動でも、二者択一的にYes/Noで結果が出るわけではなく、体の各部分の下す評価を細かく診た上で判断しなければならない、ということは、やはり知っておかなければならないことだと思います。
>昨日、ウル@俺の家さんが、色紙にsokyudo先生の似顔絵を書いてくれました!
>みんなで書き込むまでお待ちください。 笑
ををっ! ありがとうございます。>皆さん
楽しみにしています。
それならば一神教を頂く民族から見たら、八百万の神を崇める日本(あるいは東アジア)はさぞかし神秘的に映るでしょうね
その奥行きの深さに少し鼻を高くしてみたくなります(笑
すいません、つい調子に乗りまして
>一神教を頂く民族から見たら、八百万の神を崇める日本(あるいは東アジア)はさぞかし神秘的に映るでしょうね
むしろ、彼らの頭の中には
多神教(アニミズム) ⇔ 原始人、未開人
一神教 ⇔ 文明人
みたいな構図があるようです。だから、例えば宣教師がキリスト教を布教するとは、「未開人に文明を授ける」みたいな意識があったのではないかと思われます(余計なお世話ですよね)。
もし、この手の議論に興味があるようでしたら、『一神教の闇』(安田喜憲著、ちくま新書)などはいかがでしょう?