とばすべき鳩を両手でぬくめれば
朝焼けてくる自伝の荒野
──寺山修司
演劇実験室◎万有引力の新作『幻想音楽叙事詩劇 書物の私生児-自叙伝の荒野を記述する試み、あるいは自作詩朗読の鉄仮面-』を観に、新宿に行った。万有引力の舞台を観たのは『レミング』以来だ。だが『レミング』を観たのはいつだろう。思い出せないほど前だったワケでもないのだが、思い出せない。だが、とにかく『レミング』以来だ。いや、『奴婢訓』以来だったか──? おかしいな。よく思い出せない…。
劇団・演劇実験室◎万有引力は、寺山修司の主催した劇団・演劇実験室◎天井桟敷の流れをくむ。それゆえに寺山作品の再演や改作を数多く上演しているが、新作もまた極めて「寺山的」である。どこまでも寺山修司に呪縛され、またそのことにレゾン・デートル(存在意味)を持つような劇団──それが万有引力だ。
かつてアングラ演劇の雄として天井桟敷と覇を競ったのが、唐十郎(から じゅうろう)率いる状況劇場だった。唐は李礼仙(現・麗仙)との離婚を機に状況劇場を解散。新たに唐組を立ち上げ、そこを拠点に演劇活動を行っている。だが、同じアングラの流れをくむものでも、唐組的なるものと万有引力的なるものとでは、そのありようが全く異なっている。
唐組の舞台は、唐十郎の紡ぎ出す言葉と物語の力、そしてそれを体現する俳優陣の力によって、観る者を異界へと連れ去ろうとする。しかし万有引力の舞台は、観客が場内に一歩足を踏み入れた瞬間、そこは既に異界なのだ。劇団、特に小劇団の舞台とは多かれ少なかれ異界なのだが、入った瞬間からそこが異界であることをこれほどまでに実感させる劇団は、万有引力を置いて他にはない。
万有引力の舞台には、いつも血の匂いがする。それも生々しい血の匂いではなく、どこかすえたような血の匂いが。それは久しぶりに観る今回の『書物の私生児』も例外ではなく、そのことがまた妙にうれしかった。
ところで『書物の私生児』は、全てのセリフが寺山の過去の著述(エッセイ、詩など)からの引用で構成されているのだが、役者がそのセリフの語る時、バックにもその言葉が映し出される。よくマンガのコマの中で、登場人物の心情を表す言葉が、吹き出しの中ではなく背景と一体になって書かれているものがあるが、ちょうどそれが現実化したような感じで、見ていて何とも不思議な気分だった。また一部には、『はじめ人間ギャートルズ』(って知ってる?)のように、役者が実体化した文字を持って舞台を行き来するシーンも。
そうしたお遊び的な要素の中に、寺山修司の言葉を通じて寺山自身の中の闇が見えてくる。それはまた同時に、その舞台を観ている1人ひとりの中の闇でもあるのだ。
暗闇のわれに家系を問ふなかれ
書斎のドアのかげの亡霊
──寺山修司
『書物の私生児』を観ながら、これをネタにブログを書くのに寺山の舞台に最もピッタリ来る言葉はないものかと考えていた。そういえば、ずっと前のことだがビートたけしが、あるテレビ番組で寺山の舞台作品のことを「東北の怨念のような芝居」と言ってたっけ。そんなことを思い出しながら考えていて、1つの言葉に辿り着いた。
地獄巡り
──そう、寺山の舞台を言い表すのに、これ以上の言葉があろうか。これだ。全てはこの一言で足りる。
そして、今年は年末にもう1つの地獄巡りが待っている。寺山自身による寺山的世界の集大成とも言える映画『田園に死す』を、流山児★事務所が天野天街の構成・演出とJ・A・シィザーの音楽で舞台化する『田園に死す』だ。
さぁさ今年最後の地獄巡り、果たしていかなる仕儀になりましょうや。
亡き母の真赤な櫛を埋めにゆく
恐山には風吹くばかり
──寺山修司
学生時に読んだ「書を捨てよ、街へ出よう」を皮切りに、いまだにこの人の言霊の持つイデオロギーに触発され続けています!!
能條純一のマンガ『月下の棋士』の中に、「強ェヤツが指すと、駒が光るんだよ」というセリフが出てきますが、ふと入った寺山修司展で彼の文章の一節を見た時、「上手いヤツが書くと、(比喩的な意味でなく文字通り)言葉が光るんだ」ということを知りました。
寺山の書く言葉は今も危険な、そして妖しい光を放ちながら、いつも我々の前にあるのです。
1+1=無限大!!
考えてみれば、あらゆる物質が、あの周期律表に載っている元素で構成されているのだから、全ては単純なものの組み合わせなのですね。
ところで、私の好きな寺山修司の言葉を…。
ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない
もともとは『さらばハイセイコー』という詩の一節らしいです。全文は↓
http://d.hatena.ne.jp/SAGISAWA/20040922