今回のBGMはドラマ『ライアー・ゲーム』から「Garden of Eden」だ。
「牛乳は飲んではいけない」「白砂糖は摂ってはいけない」「サラダ油は使ってはいけない」「肉を食べてはいけない」──まことしやかに流れてくる、そういった話をしばしば見たり聞いたりする。
そういう話には「○○だから…」という科学的根拠らしきものもつけられていて、それを見るとつい「へーそうなんだ。じゃあ、こういうものは食べちゃいけないんだな」と考えてしまいそうになるが、その反面、いつも思うのだ。「それってどこまで正しいの?」と。
上の例で言えば、牛乳も白砂糖もサラダ油も肉も、つい最近食べられ出したものではない。ずっと前から食べられてきたし、今も普通に売られて食べられているものばかりだ。もちろん飼育環境や製造過程は今と昔で大きく変わった部分はあるかもしれない。しかし、それを割り引いて考えても、これだけ多くの人が長い間食べてきているものが「食べるな!」と警告されなければならないほど本当に体に悪いのなら、大規模な健康被害が表面化していてもいいはずではないだろうか。
もしかしたら国や大企業によるマスコミ操作などが行われていて、起こっている健康被害の情報が握りつぶされている、といったこともあるのかもしれない。しかし、たとえ国家レベルで情報操作が行われているにしても、あらゆる被害情報をずっと完全に隠蔽し通すことなど、どう考えても無理だ。マスコミだって、そこまで腐ってはいないだろうし。
とすれば、既に健康被害は出ているが、その原因が特定の食品によるものだと明確にされていないだけかもしれない。こちらの方があり得る話だ。だが、それでは、いつかその因果関係が明確にされる時が来るのか、といえば、それはわからない。
私自身、科学的根拠などつけようのない不可解な治療をやっているので、「科学的根拠」なるものには人よりずっと重きを置いていないが、それでも因果関係のはっきりしないものに対して、「これが悪い」と決めつけるようなバカなことはしない程度の理性は持っているつもりだ。
「この食品が体に悪い」と主張する人は、しばしば生化学を引き合いに出すが、ここで思い出すのは、全日本鍼灸学会理事の小川卓良先生の十八番の1つ「in vitroとin vivo」の話だ。in vitroとは「ビンの中」転じて「試験管の中」、in vivoは「体の中」という意味のラテン語。小川先生は「ほとんどの薬が実際に用いられると、開発段階でシミュレーションした結果より低い治癒効果しか現さない」ということから、「試験管の中で起こるのと全く同じことが、人体の中でも起こっているわけではない」と言う。
これを私は「単純化された環境での生化学的な変化を、そのまま人体内部に当てはめて論じることは誤り」というふうに捉えている。
そもそも食の問題というのは、「何を食べるか」ということ以上に「どう食べるか」、あるいはもっと言えば「食べるとは何か」ということが問われなければならないはずだが、食品のことを問題にする人たちの中で、そこまでキチンと論じているのは、少なくとも私の知る限り、おのころ心平さんを除いて誰一人いない。
だから、そんな人たちが食品や食のことをまことしやかに、あれこれ語っているのを見たり聞いたりするのが、私には正直、不快でならない。
実は私、この3月にスマホ・デビューした。それまでケータイ、スマホの類は一切持ったことがなく、このまま一生持たずにいるつもりだったのだが、レンタル・サロンを借りたりするのにケータイかスマホが必要であることがわかり、泣く泣く(というわけでもないが)持つことになった。
持ってみて改めてわかったが、あれは本っ当ーに体に悪い。ケータイに比べてスマホは大丈夫だろうと高をくくっていたが、完全な勘違いだった。とにかく使っていると頭痛まで起こってくるので、私は特別な時以外は電源をOFFにしている(だから私の番号を知っていても、普段はかけても通じない。それじゃあスマホ持つ意味ないって? いかにもその通り)。
それでも、ケータイ/スマホで健康被害が出て問題になっている、などという話は聞かれない(過去にゲーム脳とかが指摘されたことはあったけど)。そのことは、人によってはケータイ/スマホを中毒のように一日中ずっと使い続けていることも珍しくない、ということを考えたら、(少なくとも私には)ちょっと考えられない結果だが、そのくらい体というものは柔軟性を持ったブラック・ボックスなのだ。
基本「世のため人のため」なんかじゃなく「自分のため」にしか治療してない私のような者は論外として、食品について情報発信している人たちは、もちろん「正しい情報をみんなに伝えたい」「社会正義のために貢献したい」という、純粋な善意からそれを行っているのだと思う。それは私には決して真似できないことだし、崇高な行為だと頭も下がる。だが、こんな言葉があることを知っておくのもムダではないだろう。
地獄への道は善意で敷き詰められている。
一見中庸なものも、立ち位置により上下左右します。
「自分にとって」の善し悪しを見極めるしかないし、その能力が無い人間は、メディアの主観に踊るしかありません。
問題なのは、本来「中庸」「中立」などというものはないにもかかわらず、それがあるかのように考え、なおかつ自分がその「中庸」「中立」的な位置に立っているかのように錯覚することなのではないでしょうか。
でも人は誰でも、「自分だけは偏ってない」、「自分だけは公平中立に物事を見られている」と思いたいものなんですよね。
ちなみに私は思いっきり偏ってて、思いっきり中心からズレてます。このブログは、私がその歪んだ地点から極私的な意見を述べるためものです。